20 名前
青年はゆっくりと噛みしめるように森を歩いた。
しばらくしたところで水のにおいを感じ、少し足を速める。川に近づくといつも瑞々しい匂いが鼻を刺激する。昨日までと違ってかなり早く川へ着いたが、少女はやはりそこにいた。楽しそうに4つの石の上を渡っている。ワンピースの裾を少し上げ、まるで踊っているかのようにトントンと跳ねている。
その姿を見てヒュっと空気が咽喉を伝った。動揺を隠すためにその顔に笑みを乗せて少女に近づく。
「おはよう」
平常心を装いながら声をかけると、彼女は最後の石を渡り終えて土を踏んだ。ワンピースをふわりと降ろし、少し驚いた表情でこちらを見る。
「おはよう。今日はずいぶんと早いのね」
にっこりと笑う彼女に曖昧に笑みを返し、座る。
川は透明で澄んでいて、水が小さな石の上をさやさやと流れている。彼女も同じように隣に座り、川を見つめる。しばらく水が流れる様子を眺めた後、今一番聞きたかったことを尋ねた。
「ねぇ、」
「なぁに?」
こちらを見つめる大きな瞳を見つめると何かに飲み込まれそうになる。川と同じようにきらきらと輝く瞳には少し緊張した自分の顔が映る。
「そういえば、お互い名前を聞いていなかったなと思って」
そう言うと彼女は「あっ」と小さく漏らして、可笑しそうに笑った。
「そうだったわ。何回も会っているのに私たちお互いの名前を知らなかったのね。ふふ、可笑しい。私はメリーよ。あなたは?」
「僕は・・・・リック、リックだよ」
少女・・・メリーの名前を聞いてリックはやっぱり、と自分の考えに確信を持った。そして同時に喜びと悲しみをも心に宿した。
「リック。良い名前ね」
ふわりと笑う彼女にきゅっと心臓が掴まれたかのような、そんな気分になる。ドキドキと大きく鳴る音はメリーには聞こえていないだろうが、息を止めて胸元を掴んだ。
「ありがとう。メリー・・・も、良い名前だね」
「ふふ、ありがとう」
メリー。小さなチロのお姉さん。十のチロはメリーをとても愛していた。優しくて暖かくて明るい姉のメリーを尊敬していた。
けれどある日チロはメリーに会うことができなくなってしまった。
もう二度とメリーと会うことができなくなった。
チロはその日から消えた。