2 呪文の利かない男
ある日私はいつものように陽射しを浴びてキラキラ輝く森の中を跳ねて回りながら駆け抜け、『神聖なる川』を渡ろうとした。するとそこには先客がいた。
なんと!なんと、なんと、なんと!!
あろうことかそこにいたのは男だった。すらりとした長身に夜空に輝く月のような透き通る金の髪。長い脚を器用に動かして川を渡っている。
なんていうことなの!よりにもよって男がこの『神聖なる川』にいるなんて!!ここにいてはいけないのに!
男はここに来てはいけない。私が許した人以外はここに来てはいけないのだ。私が許したのはあの小さな小さな可愛い弟のチロだけ。十になるチロだけ。どうしてここに男がいるの。
私は木の影から忌々しげに男を見つめた。
『早く行け。ここから立ち去れ』
私が何度も呪文を唱えたのに男は一向に立ち去らなかった。それどころか腰をおろしてじっとしている。何かを考えるかのように、また何も考えないように川を見つめたまま動かない。私はがっかりと肩を落とした。
なんてことなの!呪文が聞かないなんて!
この呪文は未だかつて誰にも破られたことなどなかったのに。
今日はもう川を渡ることはできない。川は汚れてしまった。明日の朝一番に川にやってきて祈りを捧げなければ。汚れた川を元の『神聖なる川』に戻すのに何日かかるだろうか。
私は男から遠ざかるために踵を返そうとした。
「ねぇ・・・、」
何かが耳の中をするりと通りすぎていった。川のせせらぎでも木の葉の重なる音でもない。まるで秘密のお話でもするかのような、でもはっきりと私の耳を掠める小さな音。
「ねぇ・・・・・・、君、」
背筋を蟻が歩いたかのようにぞわぞわとした感覚が体を支配する。私は恐ろしくなってその場から立ち去るべく脚に力を入れた。
この森に入ってから、初めて踊ることなく私は森を駆け抜けた。ワンピースの裾が脚にまとわりついて脚を上手に前に出すことができない。大好きなはずのワンピースが今この瞬間ばかりは忌々しくて仕方がない。
『早く、早く、早く・・・・・・!』
絡まる脚を叱咤し、家へと走り、開けっぱなしの扉から中へと飛び込んだ。中では姉さんが椅子に座ってえんどう豆のさやをとっている。
「っ、姉さん」
私は荒い息を吐きながら姉さんを呼んだけど姉さんは振り返らなかった。
「姉さんっ」
さっきよりも強く姉さんを呼ぶけれど、姉さんはまるで私に気がつかないかのようにえんどう豆のさやを取り続ける。分かっていたことだったので別段悲しむこともなく私は自分の部屋に行った。
姉さんは決して振り返ってはいけないし、ほんの少しも私の言葉に耳を傾けてもいけなかった。だからいくら私が呼んでも姉さんは返事をしないし、私を『ないもの』として扱わなければいけなかった。
そんな姉さんの態度を見ても私は悲しくはなかった。むしろ『そうせざるを得ない』姉さんに憐れみさえ感じたくらいだ。そしてただただあの川での出来事を姉さんに話せないことを悲しく思った。
かわいそうな姉さん。あなたに私の声は届かない。あなたは私の声を聞くことができない。なんてかわいそうな姉さん。私に何が起きたのかも知りもしないで毎日毎日くたびれた格好で豆を選り分ける。
あぁ、なんて、憐れな、姉さん。