王立遺失物管理局に魔王が届きました
*第一話 この国を救う落とし物*
王都には、誰も知らない仕事がある。
王様の命令を伝える仕事でも、魔物を討伐する仕事でも、勇者に剣を授ける仕事でもない。
落とし物を預かる仕事だ。
王立遺失物管理局。
俺、ノア・ベルは、その第三保管室で働いている。
今年で勤続七年。出世の見込みなし。魔法の才能なし。剣術は人並み以下。顔は覚えられやすいが、名前は覚えてもらえない。
そんな俺にも、ひとつだけ自慢できることがある。
この七年間、預かった物を一度も紛失したことがない。
――誰かが紛失したものを『紛失しない』というのは、おかしな言い方かもしれない。
だが、日々持ち込まれる膨大な量の紛失物のなかで、二度目の迷子になることなど、ここではざらにあるのだ。
だから、それがどれほど難しいかは、実際に働いてみればわかる。
王立遺失物管理局には、毎日とんでもない物が届く。
貴族の指輪。商人の帳簿。酔っぱらいの靴。魔法使いの杖。騎士団長のかつら。
先月など、王宮の噴水から国王陛下の寝間着が発見された。
本人は最後まで否定していたが、胸元に王家の紋章が刺繍されていたので、返却先に困ることはなかった。
困ったのは、その翌日に届いた寝間着の下だけのほうだ。
誰のものかは、いまだにわかっていない。
「ノア、これ、頼む」
朝一番に同僚のレオが運んできたのは、木箱だった。
人の頭ほどの大きさがある。表面には黒い布が巻かれ、封蝋が三重に施されていた。
箱に触れた指先から、不意に妙な感覚が伝わってきた。
なぜか――これは自分のものではないかという直感が走る。
こんな箱に心当たりなどあるはずがない。絶対に違うはずなのに、まるで長年探し続けていた自分の所有物と再会したかのような、不可解な懐かしさが胸を掠めた。
俺は首を振り、余計な雑念を払ってレオに尋ねた。
「何だ、これ」
「さあ。北門の警備兵が拾ったらしい」
「拾った場所は?」
「北門」
「時間は?」
「朝」
「誰が拾った?」
「警備兵」
「……レオ」
「何だよ」
「お前、遺失物管理局に向いてないぞ」
「お前にだけは言われたくないね」
レオは笑いながら去っていった。
俺は箱を机に置き、受領票を確認した。
拾得場所、王都北門近くの街道脇。
拾得者、王都警備隊所属兵士。
拾得時刻、午前九時少し過ぎ。
拾得物の特徴、黒い箱。開封禁止。
そして、備考欄にはこう書かれていた。
『箱の中から声がする』
俺は受領票を裏返した。
見なかったことにしよう。
そう思ったが、仕事なので仕方がない。
まずは規則に従い、封印の状態を確認する。封蝋に破損はない。箱の表面に魔法陣も見当たらない。次に、拾得物の分類を決める。
箱そのものを預かるのか、中身を預かるのか。
開封禁止とある以上、中身を確認するわけにはいかない。
俺は分類票に『封印物・開封禁止』と記入した。
その瞬間だった。
「ノア」
箱の中から、声がした。
女の声だった。
「……」
「ノア・ベル」
なぜか知らない声ではない。
少なくとも、どこかで聞いたことがある。
でもまったく思い出せない。
「聞こえているのでしょう?」
俺は窓を開け、廊下を確認した。
誰もいない。
戻ってきて、箱を見た。
「ねえ、ノア。開けてちょうだい」
俺は受領票を持ち上げた。
そこには確かに、開封禁止と書かれている。
規則第一条。
拾得物は、所有者の確認が済むまで開封してはならない。
規則第二条。
所有者が不明な場合、三十日間保管する。
規則第三条。
魔法的な危険が疑われる物品は、封印保管室に移送する。
俺は箱を持ち上げた。
封印保管室は地下だ。
地下へ続く階段を下りながら、箱の中の女が再び口を開いた。
「ひどいわね。七年も一緒にいたのに、私の声を忘れたの?」
足が止まった。
七年。
その言葉に、ひとつの記憶がよみがえった。
七年前、俺がこの仕事に就いた日のことだ。
当時、俺は魔法学院の入学試験に落ち、騎士団の採用試験にも落ち、最後に受けた王宮事務官の試験にも落ちた。
行く当てのなくなった俺を拾ってくれたのが、この遺失物管理局だった。
初日の夜、俺は預かった遺失物を整理している最中、一冊の古いノートを見つけた。
表紙には何も書かれていなかった。
何気なく開いてみると、最初のページに俺の名前が記されていた。
ノア・ベル。
その下には、短い文章が書かれていた。
『落とし物には、落とした者の想いが残る』
「……なんだ、これ」
文字をじっと見つめた。
どこかで見たことがあるような気がした。少し不揃いで、ところどころ線が歪んでいる。
拾得物の届け出を確認してみたが、ノートについての詳しい情報はない。誰が、どこで拾ったのかさえ分からなかった。
しばらく考えた末、俺はノートを閉じた。
その瞬間だった。
『――ノア』
かすかな女の声が聞こえた。
誰もいないはずの部屋で、確かに俺の名前を呼ぶ声だった。
当時の俺には意味がわからず、疲れて幻聴でも聞こえたのだろうと自分に言い聞かせた。
だが、その帳簿を読んだ翌日から、俺には不思議なことが起きるようになった。
預かった物に触れると、ときどき持ち主の記憶が見えるのだ。
誰かが大切にしていた指輪。
母親が子供に贈った手袋。
戦場で失われた兵士の剣。
俺はそれらの記憶を頼りに、何百もの落とし物を持ち主へ返してきた。
局長に尋ねても、そんな帳簿は存在しないと言われた。
それ以来、俺は自分の能力について誰にも話していない。
「……まさか」
俺は箱を見つめた。
女が笑った。
「思い出した?」
七年前、初めて触れたあの帳簿から聞こえてきた声だ。
「あなた、誰なんだ?」
「開けてくれたら教えてあげる」
「開封禁止だ」
「融通の利かない男ね」
「仕事だからな」
「そう。じゃあ、仕事の話をしましょう」
箱が、かたかたと震えた。
「私はね、魔王なの」
「ノア・ベル。あなたは今日、この国を救うことになるわ」
俺はしばらく黙っていた。
それから、箱を地下の保管棚に置いた。
「局長に報告してくる」
「ちょっと!」
俺は扉を閉めた。
仕事をするうえで大切なのは、判断を急がないことだ。
特に、魔王を名乗る声だけの女から、俺が国を救うなどという話が出たときは。
*
「魔王だと?」
局長のグレイムは、俺の報告を聞いて眉間を押さえた。
「はい。箱の中の女性が、そう名乗っています」
「いたずらじゃないのか? そもそも魔王なら十五年前に勇者に討伐されたはずだろう。それに箱の中にその女が入っているというのか?」
「声と気配から判断した限りでは。実体があるようには見えません」
「姿は見たのか?」
「まだです。開封禁止ですので」
「受領票の情報はどうなっている?」
「拾得場所は王都北門近くの街道脇。拾得者は警備隊所属の兵士で、発見時刻は今朝の九時過ぎです。備考欄には『箱の中から声がする』とありました」
グレイムは机の上に肘をつき、深く溜め息をつきながら考え込んだ。
「……分かった。封印は維持しろ。上に報告を上げ、しかるべき魔術師を手配する」
「承知しました」
「それから、ノア」
「はい」
「ないと思うがもし本当に魔王だったとしても、勝手に戦おうとするなよ」
「俺の職務に戦闘は含まれていません」
「まあ、そうだな……よし」
*
黒い箱は、棚の上に置かれたままだった。
「戻ってきたわね」
扉を開けた途端、声がした。
「局長に報告した。これから専門の魔術師が来る」
「魔術師? 必要ないわ」
「必要かどうかは、専門家が判断する」
「本当に融通が利かないのね」
「よく言われる」
「褒めていないわよ」
また箱が、かたかた震えた。
「それで、あなたは魔王だと言ったな」
「ええ」
「名前は?」
「リシェル」
「それが魔王としての名前か?」
「私の名前よ」
「種族は?」
「魔族」
「どこに住んでいた?」
「魔王だから魔王城……とか?」
「場所は?」
「言えないわ」
俺は帳面を開いた。
「魔王城の場所を忘れたのか?」
「忘れたわけじゃない」
俺は帳面に書き込んだ。
自称魔王リシェル。出身地不明。魔王城の所在地について回答不能。
「ちょっと、何を書いているの?」
「調査記録だ」
「もっとほかに書くことがあるでしょう」
「例えば?」
「私がどれほど偉大な存在だったかとか」
「確認できない事柄は記録できない」
「……本当に嫌な人間ね。昔はそんなじゃなかったわ」
俺は帳面を閉じた。
「一つ聞きたい」
「何?」
「なぜ、俺の名前を知っている?」
箱の震えが止まった。
しばらくして、リシェルは答えた。
「あなたに会ったことがあるからよ」
「いつ?」
「いつだったかしらね」
「どこで?」
「さあね」
「俺は覚えていないが」
「でしょうね」
その言い方が、妙に引っかかった。
「どういう意味だ?」
「そのうち分かるわ」
「それは困る。調査記録には、分かる範囲で回答してもらいたい」
「何回も言うけど、融通利かないわね」
俺は返事をせず、保管庫を出た。
*第二話 存在しない魔王*
翌日、俺は王立図書館へ向かった。
魔王について調べるなら、まずは歴史資料を確認するのが筋だ。
王国の歴史には、勇者による魔王討伐が記録されている。
およそ十五年前、魔物の軍勢が各地を襲い、人々は王都へ逃げ込んだ。勇者とその仲間たちは魔王城へ向かい、長い戦いの末に魔王を討ち果した。
その後、魔物の襲撃は減少し、王国には平和が訪れた。
子供向けの歴史書には、勇者の肖像画も載っていた。
剣を掲げ、魔王の玉座の前に立つ若い男。
だが、その絵には奇妙な点があった。
勇者の剣先は、何もない空間に向けられていたのだ。
玉座は描かれている。
床も、壁も、崩れた柱もある。
しかし、そこにいるはずの魔王だけが描かれていなかった。
絵師が描き忘れたのだろうか。
俺は別の歴史書を開いた。
そこにも、魔王討伐の記述があった。
『勇者一行、魔王を討伐。王国に平和が戻る』
それだけだった。
魔王の名前はない。
姿も、種族も、能力も記されていない。
討伐に参加した勇者や騎士たちの名前は残っているのに、倒された側については何一つ分からなかった。
俺は司書に尋ねた。
「魔王の記録が見当たらないのですが、別の資料室に保管されているのでしょうか?」
「いいえ。魔王討伐に関する資料は、ここにあるものがすべてです」
「魔王の名前も?」
「そうですね。そもそも、魔王というのは個人の名前ではありませんから」
「では、討伐された魔王は何者だったのですか?」
司書は不思議そうに首を傾げた。
「魔王は魔王でしょう?」
「……ですが、魔王討伐はおよそ十五年前のことですよね。俺が子供の頃の出来事です。たった十五年しか経っていないのに、誰も魔王の姿や名前を覚えていないなんて、おかしくありませんか?」
司書は困ったように微笑むだけだった。
「おかしいとおっしゃられましても……みんな『魔王がいた』ことしか知りませんし、それ以外の記録も記憶もないのですから。ノアさんだって、魔王の顔を覚えているわけではないのでしょう?」
「……」
返しに詰まった。
確かに俺も覚えていない。
だが、俺がまだ幼かった頃――たった十五年前の出来事だ。
当時を生きていた大人が街中に溢れているはずなのに、誰もその詳細を知らず、疑問すら抱いていない。
この静かな図書館で、大勢の人間が「巨大な空白」を当たり前のこととして受け入れている。
その光景に、背筋がすうっと寒くなるような異様さを感じた。
それ以上、話は進まなかった。
俺は資料を借り、管理局へ戻った。
*
「何も見つからなかったの?」
地下保管庫で報告すると、リシェルはそう尋ねた。
「魔王討伐の記録はあります。しかし、魔王本人についての情報はありません」
「そう」
「あなたが存在したことを証明する記録も、見つかりませんでした」
「そうでしょうね」
彼女は、まるで予想していたかのように答えた。
「驚かないんだな」
「驚いても、記録が戻ってくるわけじゃないもの」
「なぜ、記録がない?」
「消されたからよ」
「誰に?」
「人間に」
「それなら、なぜ勇者の記録は残っている?」
リシェルは黙った。
俺は続けた。
「勇者が魔王を倒したという事実だけが残っている。だが、倒された魔王が何者だったのかは分からない。そんな都合のいい話があるとは思えない」
「そうね」
「あなたは、魔王ではなかったのか?」
箱の中で、彼女が顔を上げた気配がした。
「私は……魔王よ……」
「なら、なぜ記録がない?」
「みんな忘れたから」
俺は眉をひそめた。
「意味が分からない」
「そうでしょうね。あなたは、まだ何も思い出していないもの」
また、その言葉だ。
俺は箱を見つめた。
「俺は、あなたと会ったことがあるのか?」
「あるわ」
「いつだ?」
「あなたが、まだ小さかった頃」
「俺は王都の孤児院で育った。魔王と会うような場所にいた覚えはない」
「そうでしょうね」
彼女は悲しそうに笑った。
「あなたは、私のことを忘れてしまったんだから」
俺は答えられなかった。
そのとき、背後で扉が開いた。
「ノア。来客だ」
同僚が顔を出した。
「お前に会いたいという老婦人が来ている」
「俺に?」
「ああ。黒い箱の持ち主だと言っている」
俺は箱を振り返った。
リシェルの声が、低く響いた。
「……来たのね」
*第三話 箱を知る老婦人*
老婦人は、受付で静かに待っていた。
白髪を後ろでまとめ、茶色の外套を着ている。年齢は七十歳を超えているだろう。
俺が近づくと、彼女は立ち上がった。
「ノア・ベルさんですね」
「はい。あなたは?」
「エルナ・ヴァイスと申します」
彼女は、黒い箱の返却を求めた。
箱の大きさ、表面の傷、刻まれた模様。どれも正確だった。
俺は責任者の許可を得て、彼女を地下保管庫へ案内した。
箱を見た瞬間、エルナは足を止めた。
「ああ……」
彼女の頬を涙が伝った。
「どうして、こんなところに」
「この箱に心当たりがあるのですか?」
「いいえ。覚えていないのです。でも、見つけなければならないと思っていました」
「なぜです?」
「夢を見るのです。箱を取り戻せ……、と。誰かが私にそう告げるのです」
箱の中から、リシェルの声がした。
「あなた、まだ生きていたのね……」
エルナは顔を強張らせた。
「今の声は……?」
「箱の中に、意識だけが囚われている方が……います」
俺が説明すると、エルナは箱から一歩離れた。
「意識が?」
「この方は、自分を魔王だと名乗っています」
その言葉を聞いた途端、エルナの顔から血の気が引いた。何かを思い出したようだった。
箱の中から、リシェルが叫んだ。
「その人に渡さないで!そいつは私を葬った人間よ!」
俺はエルナの前に立った。
「どういう意味ですか?」
エルナは、しばらく口を開かなかった。
やがて、消え入りそうな声で言った。
「……私は、彼女を殺していません」
「では、何をしたのですか?」
エルナは俺を見た。
「彼女を、魔王にしたのです」
*
エルナは、かつて王宮の記録局に勤めていた。
魔王討伐の当時、彼女は歴史の記録を管理する立場にあったという。
俺は王立図書館で見つけた不自然な記録の欠落について尋ねた。
「魔王討伐の前後数年間だけ、記録が極端に少なくなっています。あれは、あなたが関係しているのですか?」
「はい」
エルナは目を伏せた。
「当時、王国には秘密がありました。人々の記憶と、歴史の記録を書き換える仕組みです」
「記憶を書き換える?」
「正確には、同じ事実を人々に信じさせ、記録し続けることで、その事実を世界に定着させる仕組みです。反対に、ある存在についての記憶と記録を消し続ければ、その存在は世界から失われていく」
俺は、すぐには信じられなかった。
「そんなことが可能なのですか?」
「普通なら不可能です。しかし、王国には古代から伝わる魔術がありました。私たちはそれを利用したのです」
「何のために?」
「王国の罪を隠すため……です」
エルナは語り始めた。
二十年程前、王国は魔物の大群に悩まされていた。
しかし、魔物たちが人間を襲うようになった原因は、王国自身にあった。
王宮の研究者たちは、強力な魔力を生み出すため、魔族の住む土地で禁じられた実験を行っていた。その実験によって土地は汚染され、多くの魔族や魔物が住処を失った。
魔族たちは王国に抗議した。
その代表者が、リシェルだった。
彼女は王国に実験の中止を求め、被害を受けた魔族たちの土地を返すよう要求した。
だが、王国は要求を拒絶した。
やがて両者の争いは激しくなり、王国はリシェルを魔王と呼ぶようになった。
「彼女を魔王に仕立て上げれば、王国は被害者になれる。そう考えたのです」
エルナは震える声で続けた。
「勇者は、王国から魔王討伐を命じられました。彼は自分が正義のために戦っていると信じていた。私たちは彼に、魔王の脅威を示す偽りの記録を渡したのです」
「そして、勇者はリシェルを倒した」
「いいえ」
エルナは首を横に振った。
「勇者は、彼女と話をしただけ。そして彼女から真実を知りました」
「それなら、なぜ魔王討伐が記録されているのですか?」
「勇者は王国に戻りませんでした。彼は、彼女を倒したことにして姿を消したのです。王国はその話を利用し、魔王討伐を勝利として記録しました」
「では、リシェルは……」
「彼女は生きていました。しかし、王国は彼女の存在を消そうとした。私は、その仕事を任されたのです」
エルナは箱を見つめた。
「彼女の名前を記録から消し、人々の記憶から取り除き、魔王という役割だけを残した。そうすれば、誰も彼女の正体を知ることはない。王国の罪も、永遠に知られずに済む。私は、そう信じていました」
「なぜ、今になって箱が現れたのですか?」
「分かりません。ただ、箱が残っている限り、彼女の記憶は完全には消えなかったのです」
エルナは俺を見た。
「そして、あなたが箱を見つけた」
「え……?なぜ、俺なのです?」
彼女は答えなかった。
箱の中から、リシェルが言った。
「彼は、私を忘れないために、自分の記憶を箱に預けたのよ」
俺は振り返った。
「……どういうことですか?」
「王国は、彼女の存在を歴史から消し去ろうとしました。すべてを闇に葬るために……。しかし、当時の記録局にいたあなたの両親は、それに抗ったのです」
「俺の両親が……?」
「ええ。二人は魔王としての処刑を免れさせるため、そして彼女の記憶と真実をいつか世界へ返すために、自分たちの記憶を箱へ閉じ込める術式をあなたに託した。……ノア、あの『黒い箱』を作り上げたのは、ほかならぬ幼い日のあなた自身なのです。」
俺は息を呑んだ。
「俺が……あの箱を?」
「はい。二人はあなたにすべてを託し、国から逃がそうとした。けれど、国家の追手は容赦なく彼らを追い詰めたわ。両親は捕らえられ、過酷な尋問の末に記憶を消された。王国は執念の末に、管理していた『鍵』だけはどうにか奪い取るのが精一杯だったものの、あなたが作り、隠したはずの『黒い箱』の行方だけは、十五年経った今でも見つけられずにいたのです」
「すみません……よくわからないです……」
その時、箱の中からリシェルの静かな声が響いた。
「あなたの両親は、王宮の記録局で働いていたの。二人は王国の隠蔽工作や不自然な歴史の改竄に気づき、その悪事を暴こうとして記憶から消されたわ。人々は二人のことを忘れた。あなたも、二人のことを忘れてしまった」
「ノア……あなたに特別な才能があるわけではないわ。でも、あなたの両親は王宮屈指の記録官だった。二人は記憶から消される間際、自らの知識のすべてを注ぎ込んで『記憶を箱へ退避させる術式』を作り上げたのよ。幼かったあなたは、ただご両親の言葉に従って、自分と私の記憶を箱へ預け、あのノートを残したの」
俺は息を呑んだ。
「記憶を黒い箱へ預け、いつかそれを受け取るための『鍵』として、一冊のノートを残したの。あなたが落とし物の記憶を見ることができたのも、そのノートを通じて、箱の中にあるあなたの記憶がずっと共鳴していたからなのよ」
リシェルの声は、昔を懐かしむように優しかった。
「あのノートは、あなたに『鍵』を渡すためだけの一次的な術式……あれは、あなたと私をつなぐためのものだったの。あなたが読んだその夜に役目を終えて消えてしまったから、他の誰の目にも触れることはなかったはずよ」
俺は、言葉を失った。
七年前、この仕事を始めた初日の夜に見つけた、あの古いノート。
局長に尋ねても「そんなものは存在しない」と言われ、ずっと不思議に思っていた。
あれは俺の特殊能力などではなく、両親の誇りと愛、そして過去の俺自身が未来の自分へ残した『受け取り手形』だったのだ。
エルナが静かに付け加えた。
「私たちは……記憶と記録を完全に消し去っても……幼かったあなたという命の存在までは、消すことができなかったのです」
俺は、言葉を失った。
自分の両親について、俺は何も知らない。
ただ、孤児院で育ったという記録だけが残っていた。
だが、その記録さえも、どこか不自然だった。
「俺は……何を忘れたんだ?」
リシェルは答えた。
「私のこと。両親のこと。そして、あなた自身のことよ」
第四話 最後の記録
エルナが持っていた鍵は、黒い箱の中央にある窪みにぴたりとはまった。
鍵を回せば、箱は完全に開く。
リシェルの記憶が解放され、王国の人々が忘れていた過去が戻る。
だが、エルナは鍵を回そうとしなかった。
「記憶が戻れば、王国は混乱します」
彼女は言った。
「人々は、自分たちが信じてきた歴史が嘘だったと知る。王族も、貴族も、騎士も、誰もが自分の過去を疑うことになるでしょう」
「それでも、隠し続けるわけにはいかない」
俺が答えると、エルナは苦しそうに笑った。
「あなたは若い。これまで築かれてきた平和が、どれほど多くの犠牲の上に成り立っているか、分からないのでしょう」
「分からないかもしれません」
俺は箱を見た。
「ですが、記録がなければ、何が起きたのかを知ることもできない。誰かが何かを失ったとしても、それを失ったことさえ、誰にも分からなくなる」
俺は、遺失物管理局で七年間働いてきた。
持ち主の分からない品物を預かり、記録し、返却する。
誰かにとっては価値のないものでも、別の誰かにとっては大切なものかもしれない。
だからこそ、俺たちは勝手に処分しない。
箱の中にいた女が何者であろうと、彼女が失ったものが何であろうと、俺には確かめる義務がある。
「箱を開けます」
俺は鍵を受け取った。
エルナは、もう止めなかった。
鍵を回す。
かちり、と小さな音がした。
箱の表面に刻まれた模様が、淡い光を放ち始めた。
次の瞬間、俺の頭の中に、解き放たれた膨大な記憶がなだれ込んできた。
――そこにあったのは、十五年前のあの日、俺を守るためにすべてを賭けた両親の姿だった。
王宮の追手が迫る静かな部屋で、父さんと母さんは幼い俺の手を握り締め、必死に術式を起動させていた。
『ノア、ごめんね。でも、私たちのことも忘れてしまったほうが、あなたの安全のためなの』
涙を流しながら、母さんは俺の頬を優しく撫でた。
『どんなに遠く離れても、忘れてしまっても……ノア、愛しているわ』
父さんもまた、俺の肩を力強く抱き締め、静かに語りかけてくれた。
『泣くな、ノア。お前の両親は最後まで正義と真実のために戦った。それを誇りに思って生きてくれ。……お前の記憶を、真実を、未来へ預ける』
あたたかい光が俺を包み込み、両親の顔が、声が、遠ざかっていく。
幼い俺は泣きながら、両親から教わった術式で黒い箱に記憶を封じ込めた。
すべてを思い出し、胸を衝くような感情が押し寄せる。
王宮の地下にある研究室。
魔力を集める装置。
実験によって荒れ果てた土地。
助けを求める魔族たち。
そして、リシェルが王宮の前に立ち、王族に向かって叫んでいる姿。
『あなたたちがしたことを、なかったことにはさせない!』
その声は、記憶の中で何度も響いた。
王族は彼女を捕らえようとした。
彼女は抵抗し、逃げ延びた。
やがて王国は、彼女を魔王として歴史に刻み込むことを決めた。
勇者は、王国の命令を受けて彼女を追った。
しかし、対峙した勇者は、真実を知った。
勇者は剣を下ろした。
『俺は、何のために戦っていたんだ』
リシェルは答えた。
『それを決めるのは、あなた自身よ』
勇者は王国に戻らなかった。
王国は、勇者が魔王を討伐したという物語を作り上げた。
そして、リシェルの存在を消すための儀式を始めた。
人々は彼女の名前を忘れた。
彼女の姿を忘れた。
彼女が何を訴えたのかも、なぜ戦ったのかも、すべて忘れた。
最後に残ったのは、魔王という言葉だけだった。
その言葉は、誰もが知っていた。
だが、その意味を知る者は、もう誰もいなかった。
*
俺は床に膝をついていた。
箱は開いている。
溢れ出す光の粒子が、目の前で静かにひとりの女の輪郭を結んでいく。
あの日、両親の手によって箱へと預けられた――俺自身の幼い記憶であり、真実の記録だった。
夕日の差し込む石造りの部屋。両親の隣で、幼い俺に優しく微笑みかけていた彼女の眼差しと、穏やかな声。
忘れていたはずの情景が、静かに胸の奥へ広がっていく。
彼女は俺の目の前に立っていた。
長い黒髪。金色の瞳。静かな表情。
俺は彼女の名前を呼んだ。
「リシェル……」
「思い出したのね」
「全部ではありません。でも、あなたが誰だったのかは分かりました」
「それで十分よ」
俺は手を伸ばそうとしたが、その指先はすんなりと光を透かした。
目の前にいるのは実体ではない。箱の中に遺されていた、ノアへメッセージを伝えるための彼女の『記憶の残滓』だ。
『この箱の中にあるのは、王国が消し去ろうとした五十年前の真実。……ノア、あなたがこの国の歪められた歴史を、正しい姿へ直すのよ。遺失物管理局員として、失われた真実を世界に返してあげて』
その言葉とともに、彼女の輪郭がすうっと光の粒となって空へ溶け込んでいく。
俺は開いた箱を見た。
中には何も残っていない。
長い年月をかけて閉じ込められていた記憶は、すべて解放されたのだ。
エルナは壁に手をつき、呆然と立ち尽くしていた。
「本当に……終わったのですね」
「いいえ」
「これからです」
「彼女が何をされたのか、世界中の人々に知ってもらう。リシェルが何をしようとしていたのかも、王国が何を隠していたのかも」
「それには時間がかかるでしょう」
「ええ。とても長い時間がね」
俺は、少しだけ笑った。
「でも、今度は誰にも彼女の名前を消させない」
俺は静かに、誰もいなくなった目の前の空間を見つめる。
記憶はこうして俺のもとへ戻り、真実は世界に明かされようとしている。
では、この記憶の元となった本物の彼女は、今、世界のどこでどうしているのだろうか。
リシェルは、どこかで静かに生きているのか。それとも、まだ見ぬ場所で目覚めの時を待っているのか。
そして、俺の両親……。
「……探し出すさ。いつか俺が、必ず」
*終話 返却済み*
翌朝、王立図書館の記録に変化が現れた。
魔王討伐に関する資料に、これまで存在しなかった文章が加わっていた。
魔王と呼ばれた女の本当の名前。
彼女が王国の罪を暴こうとしていたこと。
そして、王国が歴史を書き換え、彼女の存在を消し去ったこと。
すべてが、記録として残されていた。
もちろん、すぐに世界が変わったわけではない。
王宮は調査を始め、神殿は過去の記録を確認し、各地の学者たちは新たな歴史を検証し始めた。
人々は戸惑い、疑い、反発した。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
リシェルという名前が、初めて公の記録に残ったのだ。
俺はその日、遺失物管理局へ戻った。
開いた箱は、責任者の許可を得て特別保管庫に移されることになった。
ただし、もう中に誰もいない。
俺は箱を前にして、いつもの業務台帳を開き、ペンを走らせた。
『品名:十五年前の真実とリシェルの記憶。持ち主:ノア・ベル。返却済み』
*
それから一週間が経った。
王立遺失物管理局は、相変わらず忙しかった。
片方だけの手袋。持ち主の分からない指輪。名前の刻まれた懐中時計。どこから運ばれてきたのか、妙に重い壺。
世界の歴史が変わろうとしている最中でも、人は物を落とす。
探している品物が届くこともあれば、一生現れない品物もある。
俺はいつものように受付で書類を整理していた。
「ノアさん。新しい遺失物です」
受付担当が、小さな包みを持ってきた。
「届け出人は?」
「不明です。局の前に置かれていたそうです」
「分かった」
俺は包みを受け取った。
中には、小さな木箱が入っていた。
黒い箱とは違い、こちらは簡素な作りだった。蓋には何の模様もない。鍵穴もない。
ただ、箱を机に置いた瞬間、声が聞こえた。
『……ア……ノア』
『ノア・ベル』
俺は手を止めた。
『ノア……ようやく見つけた』
声は、リシェルのものではなかった。
それは、聞き覚えのある男の声だった。
俺は、その声を知っている。
何年も忘れていた……。
ずっと昔に聞いたことがある。
俺の父の声だった。
『今度は、お前が消される番だ――逃げろ』
俺は椅子から立ち上がり、箱を両手で持ち上げた。
そして、ゆっくりと蓋に手をかけた。
今度こそ、俺は自分自身の失くし物を探さなければならない。
王立遺失物管理局に勤めて七年。
どうやら、俺の仕事はまだ終わりそうになかった。




