地獄への道は善意で舗装されている
世界から切り離された村で、僕らはまた、あの苦痛と快楽に溺れていく。
始終不穏で、どこまでも救いのない。父親の善意から始まる、因習村に囚われた一見バッドエンドに見えるふたりだけの幸福の物語。
【注意】R-18要素なし。精神的なエロしかありません。
家を継ぐことが、私のすべてです――。
断定の言葉から始まった前文がない手紙からは、ほのかな憎悪と隠しても滲んでしまったような恋慕の匂いがした。
元は白かったであろう手紙はセピア色に変色していて、うっすらと品の良い白檀の香りが焚き染められていた。端が擦り切れて所々皴が寄って滲んだ文面は、律音の前に読んだ誰かがこの手紙を何度も読み返し、心を震わせたことを窺わせた。
母方の曽祖母が亡くなった報せを受け取ったのは、律音が夏季休暇に入ってすぐだった。以前、曽祖父が亡くなった報せを受けた時は人目も気にせず、なりふり構わず律音は葬儀に参列することを拒否した。今回も拒み切れたなら、律音は曾祖父母の武家屋敷がある田舎には今後一生足を踏み入れることは無かった。
その大事な分岐点を”未成年の子供”ただそれだけで律音は選べなかった。
律音の父親は嫌がる律音を連れて行ったことを今後一生後悔することになることも知らず、善意で彼を葬儀に連れ出した。最後だから、と――。
*
長い時間、父親が運転する車に揺られたどり着いた集落は記憶と全く変わっておらず、律音は苦い思いを嚙み締めた。ぽっかりと取り残されたように古い慣習や言い伝えがまかり通るこの村は時代から逆行している。母親の強い意向で幼少期に預けられていたこの屋敷には、ただひたすら苦痛だった記憶しかなかった。世が世なら虐待と言われるほどに躾に厳しい、厳しすぎる曾祖父母だった。
田舎では見慣れない車は非常に目立つもので、律音はずっと視線を感じていた。この村の地主であった曾祖父の面影を残す母と律音の姿を見るやいなや、村人たちは、それまでの不躾ともとれる視線を一転させ、すぐに深く頭を垂れた。
親戚一同が集まる大広間は、線香の煙と、これ見よがしに涙を流す大人たちの偽善で満ちていた。
読経の低くうねる声が、律音の耳の奥を不快に刺激する。ここにいるだけで、幼い頃に正座を強制され、足の感覚がなくなるまで叩かれた痛みが蘇るようだった。
時間が経つにつれ、次第に眩暈と脂汗が滲み始めた。
限界だった。
律音は誰にも気づかれないよう、静かに座敷を抜け出した。
迷路のように入り組んだ武家屋敷の廊下は、昼なお暗い。冷たい板張りの床を踏み締めながら、人気のない方へない方へあてもなく歩いているうちに、気分は落ち着いていったが気づいた時には、完全に方向感覚を失ってしまった。
不意に、廊下の突き当たりに一枚の古びた襖が目に入った。他の部屋とは違い、真新しい錠前が不自然に外された状態でぶら下がっていた。
吸い寄せられるように襖を開けると、そこは濃い埃の匂いが立ち込める部屋だった。
家具には白い布が掛けられ、時が止まっている。その部屋の片隅、引き出しが半開きになった文机だけ、布が取り払われていた。その上に、その手紙はぽつんと取り残されていた。
封筒には宛名も差出人の名もなく、綴られていた日付は1926年の9月のみ―。
好奇心や暇つぶしに手紙を手に取り、そこに綴られた狂おしいほどの愛憎に目を奪われていた、その時だった。
「勝手に入られては困るな。……律音」
背後から低く、ひどく冷徹な声が響いた。
心臓が跳ね上がる。振り返ると、薄暗い部屋の入り口に、一人の青年が立っていた。
喪服の黒が、彼の病的なまでに白い肌を際立たせていた。切れ上がった涼やかな目元と、形の良い薄い唇。田舎では異質なほどに造作が整っている。それはこの屋敷の人間特有の、傲慢で美しい顔立ちだった。
「……誰、ですか」
律音が掠れた声で問うと、青年は音もなく部屋へ歩を進め、律音の手から容赦なく手紙を奪い取った。指先がかすかに触れ、凍りつくような冷たさが伝わる。
「君の曾祖父の『最高傑作』だよ」
青年は自嘲気味に微笑んだ。彼の名は深影。この村の古い因習によって、幼い頃から曾祖父の『お気に入り』として、律音と同じか、それ以上に歪んだ教育を叩き込まれてきた男だった。
「その手紙の主は、かつてこの屋敷から逃げ出して、そして壊れた。君がこの家を憎むように、私も、この手紙を書いた男も、みんなこの血筋に呪われている」
深影は手紙を愛おしそうに指でなぞりながら、じっと律音を見つめた。その瞳の奥には、手紙に宿るものと同じ、どろりとした憎悪と、飢えたような光が混ざり合っている。
「逃げたつもりだったろうが、戻ってきたんだ。なら、もう逃がさないよ」
深影の手が、律音の顎を強く掴み、強引に上を向かせた。冷たい指先が肌に食い込む。恐怖を感じるはずなのに、律音の身体は、その圧倒的な支配感に、かつての『躾』の記憶と混ざり合って奇妙に熱を帯びていく。
「君もここで、私と一緒に狂うんだよ。律音」
白檀の香りが、二人の狭い隙間に深く、濃く立ち込めた。
顎を掴む深影の指先は、体温というものを忘れたかのように冷え切っている。それなのに、触れられた皮膚からはじわじわと、恐ろしいほどの熱が身体の奥へと伝播していった。
「何を、言って……」
「まだ気づかないのか。君がこの屋敷を、この村を本能で拒絶していた理由を」
深影は掴んだ顎をそのままに、もう片方の手で古い文机の上に置かれた一通の手紙を指し示した。
「この家は、遥か昔にこの地の『守り神』と契約を交わした。家を繁栄させる代償として、神の依り代……つまり、神そのものである存在を供奉し、その血と狂気を繋ぎ続けるという約束だ。いつしかその信仰そのものが家とこの地の思想を歪ませ、私たち深影家は神に支配される家系となった」
深影の瞳が、妖しく濡れたように光る。
「私が、今代の依り代。神そのものだ。君の先祖たちは皆、私の中にいる神に跪き、その身を捧げてきた。そして次は、君の番だ。君も、名を捨て『深影様』になるんだよ」
あまりにも不気味で現実離れした言葉に、律音の頭は混乱した。しかし、深影の背後に揺らめく影が、人間のそれよりも酷く巨大で、異形のものに見えてしまった瞬間、身体が恐怖で硬直した。
身を翻して逃げようとしたが、深影の放つ圧倒的な存在感に気圧され、足がすくむ。深影は律音の手を強く引き寄せ、逃げ場を塞いだ。
「無理だよ。どんなに嫌がろうと逃れようと無駄だ。君の血が、私を求めてここへ来させたんだ」
深影の冷たい指先が律音の額をなぞり、その意識を深い混濁へと引きずり込んでいく。抗おうとする意志は、深影が放つ濃厚な霊気と白檀の香りに包まれ、次第に霧散していった。激しい拒絶はいつしか陶酔へと変じ、律音は自らその呪縛を受け入れるように、深影の細い肩に縋りついた。
深影の瞳から、一滴の涙が律音の頬に落ちる。それは悲しみではなく、抗えない運命への狂気だった。
「私も、君も、もうここから出られない。この歪んだ檻の中で、朽ち果てるまで共に過ごすんだ」
数日後。
母方の実家の法事がすべて終わっても、律音が街の自宅に戻ることはなかった。
集落から戻って急に父親は出世が決まった。あの集落では希少な作物が豊作し、出生数の急増が起こったらしい。波及するように母方の親族も急に栄転や昇進が相次いだ。突然忙しくなり始めた父親は戸惑いながらも未だ律音を諦めず深影家と交渉しているが、母親はそんな夫を膨らみ始めた腹を擦りながら冷めた目で見つめるばかりであった。
親族たちは、律音が「神隠し」に遭ったのだと、どこか諦めたような、興奮したような、それでいて当然のことのような顔で噂し合い、やがて誰もその話題を口にしなくなった。
誰も立ち入らない薄暗い奥座敷。
そこには、深影の隣で虚ろな目に微かな微笑を浮かべる律音の姿があった。
もう、ここから逃げようという意志すら湧かない。深影の冷たい肌に触れ、その非現実的な美しさに魅了されるたび、脳が溶けるような幸福感に満たされるからだ。
身体の奥深くで、ぐちゅりと湿った音が鳴る。
それに時折喘ぎながら、外の世界をすべて捨て、ただ薄暗い部屋で、美しく歪んだ神に魂を削られ続ける。
それだけが、この家に生まれた律音に課せられた、避けることのできない、そして世界で最も幸福な、地獄のような運命だった。
END
『地獄への道は善意で舗装されている』
深く考えずに行動することの恐ろしさを表す、非常に奥深い言葉を「因習村」×「約束」×「螺旋」で考えてみました。




