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第八話 境界上の答案

 資料は鞄の中にあった。一週間、ずっと。毎晩ちゃぶ台の上に広げて、判定条件の一つ一つを芦原の過去の答案と突き合わせた。どこで減点されたかはもうわかっている。どこに答案を置けば判定が割れるかも、見当がついていた。


 それを芦原に教えるかどうか。一週間、そのことだけを考えていた。考えながら、鞄を毎日学校に持って行っていた。考える前に、体は答えを出していた。



 火曜日の補習。


 七人が教室にいる。寺田は前回の一件以来おとなしくなっていて、芦原のほうを見ない。机に突っ伏しているが、以前とは違う。何かを避けるための姿勢だった。芦原はいつも通り左端の席にいる。


 授業を終えて、帰り支度を始めた生徒たちの中で、芦原だけが席を立たなかった。


 他の六人が出ていくのを待って、芦原が口を開いた。


「先生。門脇先生のプログラムは、どういう仕組みですか」


 感想や不満ではなく、構造への関心だった。


「なぜ知りたい」


「一がついた理由が知りたいです。何をどう測って、何が足りなかったのか。門脇先生の面談では、書き方を直せと言われただけで、基準そのものは見せてもらえなかった」


「基準を知ってどうする」


 芦原は俺を見た。いつもの固定された目。


「先生が翻訳ノートを書くとき、私の答案をたくさん見ましたよね。何が起きてるか知るために。私も、門脇先生のプログラムがどう動いてるか知りたいです」


 論理的には正当な要求だった。だが俺の鞄の中にある資料を見せることは、門脇が意図した配布先の範囲を超える。教員用の資料だ。生徒に見せるものではない。


 芦原は俺の逡巡を見ていた。


「先生。持ってるんですよね」


「何を」


「資料。先生の鞄が先週から重くなってます。紙の束が入ってるときの形をしてる」


 鞄の形から読み取っていた。俺が気づいていなかった変化を。


「見せてもらえませんか」


 教室に、俺と芦原の二人。放課後。西日が黒板の端を照らしていた。個別指導は中止されている。だがこれは個別指導ではない。生徒が教師に質問しているだけだ。


 言い訳を組み立てている自分がいた。


 鞄を開けた。A4八ページの束を取り出して、芦原の前に置いた。


 置いた瞬間に、手がわかっていた。線を越えたことを。紙がテーブルに触れる音が、妙に大きく聞こえた。


 芦原は資料を手に取った。一ページ目から読み始めた。



 芦原は読むのが速かった。八ページを五分で読み終えた。文章の部分はほとんど飛ばして、各評価軸の判定条件だけを拾い読みしている。右手の人差し指が、判定条件の行を一つずつ追っていた。


 読み終えて、資料をテーブルに置いた。


「先生。この基準で私の答案が全部一になった理由はわかりました」


「どう思った」


「基準が悪いとは思わないです。場合分けを書く。標準的な記号を使う。計算過程を省略しない。結論を明示する。どれも、読む人のために必要なことだと思います」


「じゃあ——」


「でも、この基準は分類器です。答案を良い・悪いに分ける機械です。分類器には、分類できない入力が必ずあります」


 芦原は資料の三ページ目を開いた。指で一行を押さえた。


「ここ。『場合分けが必要な問題において、場合分けが記述されていない場合、減点二』。でも、場合分けが必要かどうかは、基準には書いてない。採点者が判断する」


「そうだ。ルーブリック——評価の観点と基準を一覧にした表だ。それに従って人間が判定する」


「じゃあ、必要かどうか判断が割れる問題を出したら、減点できるかどうかも割れますよね」


 芦原は次のページをめくった。また指で一行を押さえた。


「ここも。『非標準的な記号の使用は減点一』。でもチルダを使わずに、日本語で同じ内容を書いたら、記号じゃない。文言では判定できない」


 芦原は資料の余白に、鉛筆で何かを書き始めた。各評価軸の判定条件を箇条書きにし、その横に境界を突く方針を書いている。字が小さくて速い。


 五分。


 芦原が鉛筆を置いた。


「先生。全部の軸で判定が割れる答案が書けます」


「全部の」


「はい。形式的には基準を満たしてる。でも内容的には基準の前提を問い返してる。そういう答案です。門脇先生のプログラムは、採点を人間の主観から解放するために作られたんですよね。でも、この答案を入れると、最終判断が人間に返ります」


 芦原の余白のメモを見つめた。


 これは答案の設計ではない。分類器の境界分析だ。芦原は門脇のプログラムを、数学の問題と同じように扱っている。基準の中に「区別できるもの」と「区別できないもの」があり、区別できないものの上に立つ答案を書く。


 チルダを採点基準に適用している。俺がこの資料を見たときは「どうやって減点を回避するか」を考えた。芦原は「どこで定義を問い直すか」を考えている。同じ資料を読んで、同じ構造を見て、見ているものが違った。


「芦原さん。それを、やるつもりか」


 芦原は少し黙った。


「やるかどうかはわかりません。でも、やれることはわかりました」


「もしやったら、どうなると思う」


「門脇先生が困ると思います」


「それだけか」


「先生も困ると思います。資料を見せたのがバレるから」


 芦原はそこまで見えている。俺が資料を見せたことが露見すれば、俺は門脇の信頼を完全に失う。


「それでも見せたんですよね、先生」


「……見せた」


「なんでですか」


 半分は——と言いかけて、口が閉じた。


 いつもの分割ができなかった。全部が混ざっている。分離できない。


「わからない」


 芦原は俺をしばらく見ていた。目が動かなかった。


「先生。半分じゃないのは、初めてですね」


 見抜かれていた。「半分の正直」が俺のパターンだったことを、芦原は最初から知っていた。知っていて、今まで黙っていた。そして今、壊れた瞬間を指摘した。


「資料は返します。私のものじゃないので」


 芦原は八ページの束を俺に返した。だが余白に書いたメモは、芦原の頭の中に入っている。紙は返しても、情報は返らない。


「でも、読んだことは消えません」


「知ってる」


「先生は、私が何かするのを止めますか」


「止められると思うか」


「思わないです」


 芦原は鞄を取って立ち上がった。


「先生。止めないなら、先生も同じ側です」


 教室を出た。靴音が遠ざかる。均等な間隔で。


 一人になった教室で、芦原の言葉を反芻した。「同じ側」。報告の形をした脅しだった。退路が塞がれていた。


 それでも、小さな優越感があった。同時に、その期待が自分の首を絞める紐であることも、手のひらの汗が知っていた。



 翌週の木曜日。補習のテスト。


 門脇の評価プログラムの二回目のサンプル回収が、このテストに合わせて行われることになっていた。全校一斉。答案は回収され、門脇の研究室に送られる。


 テストが始まった。五問。制限時間五十分。


 芦原は、いつもと違った。


 いつもの芦原は、問題文を数秒見てから書き始め、一定速度で書き終える。今日の芦原は、問題文を見る時間が長かった。一問目に三十秒近くかけている。何かを構成している目だった。


 書き始めた。鉛筆の動きは一定。だが途中で何度か消しゴムを使った。芦原が消しゴムを使うのを見るのは初めてだった。答えを出すためではない。書き方を調整している。答えは最初からわかっている。書き方だけを慎重に選んでいる。


 寺田が机に突っ伏した姿勢のまま、芦原のほうに首を傾けていた。目は閉じているように見えた。だが消しゴムの音がするたびに、まぶたが微かに動いた。


 四十分で五問を書き終えた。答案を裏返して机の上に置いた。残り十分を、窓の外を見て過ごした。


 テスト終了。答案を回収する。


 芦原の答案を一番上にして束ねた。答案用紙の端が指に引っかかった。紙の繊維が指先に軽い抵抗を伝えた。この一枚が門脇の研究室に届いたとき、何が起きるか。わかっていた。わかっていて、コピーを取った。コピー機の光が白く顔を照らした。手が震えていた。



 夜。アパート。蛍光灯がちらついている。


 芦原の答案のコピーを広げた。


 一問目。二次方程式。解は通常通り二つ書いてある。チルダは使っていない。通常の記法。


 だが、二つの解を書いたあとに一行、こう添えてあった。


 「注:上記二解は本問の結論において同一の役割を果たす」


 チルダは使っていない。日本語の注釈。記号としては標準的。だが内容は、芦原の公理そのものだ。「表記の規範性」の判定条件は「非標準的な記号の使用」で減点する。記号は使っていない。日本語だ。だが内容は非標準的。減点対象か。基準の文言では、判定できない。


 二問目。二次関数 y = x² − 4x + 5 の最小値を求めよ。芦原の答案はこうだった。


 y = (x − 2)² + 1。最小値は x = 2 のとき 1。

 注:平方完成により、x < 2 と x > 2 は y の値に関して対称であり、最小値の決定に際して区別は不成立である。場合分けは行わない。


 「不成立」。「不要」ではなく「不成立」。不要は選択だ。やってもいいがやらない。不成立は存在の否定だ。区別する根拠が、この問いの中に存在しない。記号は標準的。日本語も正確。だが「不成立」という一語が、門脇の判定基準を静かに空転させる。


 三問目以降も同じ手法だった。場合分けは書く。だが直前に「結論の確認のために行う。結論が同一であった場合、場合分けは事後的に不要であったことが証明される」と添える。形式的には書いている。意味的には否定している。


 五問すべてが同じパターン。形式的には基準を満たし、内容的には基準の前提を問い直している。判定する人間の解釈次第。


 芦原は、評価基準の全四軸の境界上に、正確に立つ答案を書いた。境界が曖昧なものを、曖昧なまま書いた。


 分類を前提にしたシステムの全体を揺るがす一枚の答案。評価基準に従って自動判定しようとすると、各軸で判定が割れる。最終的に人間が介入して判断しなければならない。門脇が作った「主観を排除するためのプログラム」が、芦原の答案一枚で、主観に戻される。


 手が震えていた。美しさへの震えではなかった。唾を飲み込もうとして、喉が動かなかった。


 怖かった。



 二週間後、結果が返ってきた。


 教員用の一覧表を開く。芦原凪の欄。


 総合スコアの欄に数字がなかった。代わりに、四文字。


 「判定保留」。


 全四軸で判定が割れている。各軸のスコア欄に「要再判定」の注記。一覧表の末尾に、門脇の手書きのメモが添えられていた。


 「芦原凪の答案について、判定基準の解釈に関し協議が必要です。回収答案の出題背景と指導経緯についてお聞きしたく、近日中にお時間をいただけますか。門脇」


 丁寧な文面だった。だが行間に、刃があった。「指導経緯」。門脇は、この答案が偶然ではないことに気づいている。


 メモを机に置いた。手のひらが汗で濡れていた。


 やった、と思った。芦原の答案は機能した。門脇のシステムの境界を、正確に突いた。


 同時に、別の声が頭の底で鳴っていた。


 終わりの始まりだ。


 ノートの表紙が目に入った。「非公開」の三文字。非公開のノートが、公開のブログを産み、ブログが三島を呼び、今度は芦原の答案が門脇を呼んでいる。穴が広がっている。穴の向こうに何人の目があるのか。もう数えられなかった。


 蛍光灯がちらついた。ちらつきの間に、芦原の声が聞こえた。「止めないなら、先生も同じ側です」。報告だった。脅しだった。そして、事実だった。

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