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第七話 正しさの先住権

 個別指導が中止されて、一週間が経った。


 芦原には俺から伝えた。火曜の補習のあと、教室に残ってもらって、「放課後の個別指導は当面中止になった。門脇先生の判断だ」と言った。


 芦原は頷いた。


「理由は、寺田くんのことですか」


「それもある」


「それも、ということは、他にもある」


「俺の管理が不十分だと判断された」


 芦原は数秒黙って、言った。


「先生のノートはどうなりますか」


 翻訳ノート。個別指導がなくなれば、新しい答案が取れない。翻訳の材料が止まる。芦原はそれを聞いている。俺の都合を。


「止まる」


「そうですか」


 それだけだった。芦原の数学は芦原の中にある。場がなくても消えない。消えないものについて、芦原は心配しない。


 芦原が立ち上がって鞄を持った。教室の扉に手をかけたとき、振り返った。


「先生。寺田くんは大丈夫ですか」


 予想しなかった問いだった。芦原が寺田のことを気にかけている。


「大丈夫、というのは」


「あの答案のあと、寺田くんは補習に来てないです」


 気づいていなかった。先週の補習で寺田の席が空いていたことを、俺は見ていなかった。芦原は見ていた。


「……確認する」


「お願いします」


 芦原が出ていった。教室に西日が残っていた。


 困るのは俺だけだ。だが寺田もまた、何かを失っていた。



 木曜の放課後。門脇が再び学校に来た。


 今度は芦原との個別面談だ。前回の面談の続き。「答案の書き方の練習」を始めるため。


 俺は同席を求められなかった。門脇が俺を外した。「今回は私と芦原さんの二人で」。校長経由で伝えられた。


 面談室のドアが閉まるのを、廊下の角から見ていた。職員室に戻るべきだった。だが足が動かなかった。廊下のリノリウムが西日を受けて光っていた。


 面談室は廊下の突き当たりにある。隣の部屋は空き教室で、壁が薄い。声は聞こえない。だが面談室のドアには曇りガラスの窓がある。人影が二つ、向かい合って座っているのが見えた。


 外されている。だが完全に遮断されてはいない。曇りガラス越しの影を見ている自分が何をしているのか、名前をつけずにいた。


 五分経った。影は動かない。門脇の影が資料のようなものを広げている。芦原の影は微動だにしない。声は聞こえないが、門脇が話しているのだろう。一方的な説明の時間。


 十分ほど経ったとき、門脇の影が立ち上がり、黒板のほうへ移動した。チョークの音がかすかに聞こえた。何かを書いている。模範解答を板書しているのだろう。チョークが黒板を叩く音は、規則正しかった。門脇の字は板書でも整っているはずだ。


 芦原の影は動かない。座ったまま、黒板を見ている。


 五分。門脇の影が席に戻る。芦原の影が少し動いた。何か話している。声は聞こえないが、芦原の影の動きが小さい。短い発言だ。門脇に向かって、いつもの報告をしているのだろう。


 門脇の影が止まった。


 長い静止。十秒以上。廊下の時計の秒針の音だけが聞こえた。門脇の影が固まっている。芦原が何を言ったのか。止まり方が、前回の面談で「嘘を書くことになります」を聞いたときに似ていた。


 門脇の影が再び黒板のほうへ動いた。今度は書くのではなく、消している。黒板消しが板面を擦る音。消して、書き直している。


 息を止めた。門脇が何かを直している。芦原に何かを指摘されて、自分の模範解答を書き直している。門脇真司が。金メダルの男が。


 さらに十分。面談室のドアが開いた。廊下の角に引っ込んだ。芦原が出てきて、昇降口のほうへ歩いていく。門脇は面談室に残っている。


 少し待ってから、芦原を追った。



 昇降口で追いついた。芦原は外靴に履き替えているところだった。


「芦原さん」


 芦原は振り返った。


「見てましたね」


「見えてたか」


「曇りガラスの向こうに影がありました。ずっと」


 隠せていなかった。面談室の中から、廊下の俺が見えていた。


「どうだった」


「門脇先生に、答案の書き直しをさせられました。前回のテストの答案を、場合分けをちゃんと書く形に直してくださいって」


「書いたのか」


「書きました。途中までは」


 芦原は外靴を履いて立ち上がった。


「三問目で、門脇先生の模範解答に要らない場合分けがあったので」


「要らない場合分け」


「整数問題です。n² + n は偶数であることを証明せよ、という問題。門脇先生の模範解答は、n が偶数のとき n = 2k とおいて n² + n = 4k² + 2k = 2(2k² + k)。n が奇数のとき n = 2k + 1 とおいて n² + n = 4k² + 4k + 2 = 2(2k² + 2k + 1)。どちらも偶数。——でもこれ、分ける必要がないです」


「分ける必要がない」


「n² + n = n(n + 1) です。連続する二つの整数の積は、どちらかが必ず偶数です。だから n(n + 1) は常に偶数です。偶数の場合と奇数の場合で結論が同じなら、最初から分けなくていい。一行で終わります」


 指先が冷えた。七月なのに。


 n(n + 1)。連続二整数の積。門脇の模範解答は八行。芦原の証明は一行。八行と一行の差は、正確さの差ではない。見ている場所の差だ。門脇は n の偶奇を見ている。芦原は n(n + 1) の構造を見ている。構造を見れば、場合分けは消える。


「門脇先生はどう反応した」


「最初は、『確認のために場合分けする。それが手続きだ』と言いました」


「君は何と返した」


「確認した結果が同じだったなら、それは確認が不要だったということの証拠じゃないですか、って言いました」


 門脇の反論は正しい。場合分けは確認のための手続きであり、結果が同じだったことは事後的にしかわからない。事前にはわからないから分ける。


 芦原の反論も正しい。事後的に同じだとわかったなら、次に同じ問題が来たとき分ける必要はない。同じ結論に至ると知っているものを分けるのは、冗長だ。


 見ている時間が違う。門脇は一回ごとの証明の作法を言っている。芦原は知識が蓄積したあとの書き方を言っている。


「それで、門脇先生は」


「黙ってから、場合分けを消して、分けない版を書き直してました。n² + n = n(n + 1) って。門脇先生も『確かに、この問題に限ればこちらが簡潔だ』と言ってました」


「認めたのか」


「この問題に限れば、と言ってました。それから、すべての問題で事前に結論がわかるわけじゃない、わからない場合に備えて場合分けする習慣を持つことが大事だって」


「それで、終わったのか」


「いいえ。門脇先生が、もう一問やろうって言いました。今度は、場合分けが本当に必要な問題を出してきました。場合分けの結論が違う問題」


「結論が違う問題」


「はい。そこでは場合分けが必要です。私もちゃんと分けました。門脇先生が、こういう問題もある、だから場合分けの習慣は必要だって言って、私は、はい、って答えました」


 門脇は用意周到だった。芦原の公理が通る問題と通らない問題の両方を準備して、一勝一敗の構図に持ち込んだ。その上で「習慣」という制度的な言葉で締めた。


 門脇は折れなかった。一つの問題で芦原の指摘を認めた。だが体系としての方針は変えなかった。一箇所のバグはバグであって、システムを捨てる理由にはならない。部分的に柔軟で、全体的に不動。


「芦原さんはどう思った」


「門脇先生の言ってることはわかります。わからない場合に備える。それは正しいと思います」


 意外だった。芦原が門脇の論理を「正しい」と認めたのは初めてだった。


「でも」


「でも、わかっている場合にまで備えるのは、わからないふりをすることです。わかっていることをわからないふりで書くのは——」


「嘘」


「はい」


 同じ言葉に戻る。芦原にとっての「嘘」は、事実に反することを言うのが嘘ではなく、見えているものを見えないふりで記述することが嘘だった。自分の公理に反する記述を強いられることが嘘だった。


「芦原さん。門脇先生は、悪い人じゃない。正しい数学を教えようとしてる」


 半分は本当にそう思っていた。もう半分は、芦原の前で門脇を弁護する自分に酔っていた。


「知ってます。門脇先生は正しいです。正しいから困るんです」


 芦原は鞄のストラップを直した。手つきが少しだけ硬かった。


「先生」


「何」


「門脇先生のほうが正しいとされてるのは、なんでですか」


 答えは知っている。門脇の数学のほうが「正しい」とされるのは、多数派だからだ。教科書に書いてあるからだ。テストの採点基準だからだ。長い歴史と制度的な承認があるからだ。


 だがそれは「正しいから多数派になった」のか。「多数派だから正しいとされている」のか。


「先生」


 芦原の声が、ほんのわずかに低くなった。それまでの平坦な声と違っていた。怒りなのか悲しみなのか、俺には触れることも反論することもできない声だった。


「正しさって、先にそこにいただけでしょう」


 昇降口の空気が止まった。夕暮れの光が窓から差し込んでいた。芦原の顔が半分影になっていて、目だけが光っていた。


 俺は答えなかった。答える言葉がなかった。俺も「先にいた側」から教わった人間だ。中澤先生から、門脇から、教科書から。先住者の言葉で数学を覚えた。それ以外の覚え方を、知らない。


 芦原は振り返りかけて、止まった。鞄のストラップを握ったまま、一歩も動かなかった。


「先生」


 声が変わった。低くなったのではない。小さくなった。芦原の声が小さくなるのを、俺は聞いたことがなかった。


「チルダが壊れてる可能性って、あると思いますか」


 耳の奥で何かが鳴った。蛍光灯の音ではなかった。


「壊れてる、というのは」


「推移律のことです。文脈が変わったとき、同じに見えたものが本当に同じかどうか、自分では確かめられないんです。前にやった五問目の問題のときも、先生に聞かれて、繋がらないって答えました。繋がらないのは知ってます。でも、繋がらないことが壊れてるのかどうかが、わからない」


 芦原が自分の体系の脆弱性を口にしている。「見えるから同じ」と言い切ってきた人間が、見えないかもしれないと認めている。


「壊れてると思うか、と聞いたのは、俺の答えが知りたいのか」


「はい。先生は私の数学を翻訳しようとした人なので。翻訳しようとして壊れたのを見た人なので。壊れる場所がわかるかもしれないと思いました」


 指先が震えた。芦原が俺を頼っている。翻訳の失敗を見たからこそ聞ける問い。壊れた翻訳が、別の形で役に立っている。


「わからない。だが、推移律が保証されないことは、体系にとって致命的かもしれない。証明できるかどうかを試す価値はある」


「試しました。できなかった」


 芦原の声は平坦に戻っていた。だが鞄のストラップを握る指が白かった。


「できなかったということは」


「できなかったということです。それだけです」


 芦原は昇降口の扉を押した。出ていく直前に一瞬だけ足が止まった。振り返りはしなかった。そのまま出ていった。


 紺と灰色の靴下が、夕暮れの光の中に消えた。



 職員室に戻った。


 非常勤用の机に、教員向けの配布物が置いてあった。門脇が今日持ってきた資料だ。「数学的思考力評価プログラム:評価基準詳細」。A4で八ページ。各評価軸の定義、配点基準、判定条件が細かく記載されている。


 教員全員に配られたものだ。俺が受け取っても不自然ではない。


 ページをめくった。


 「論理の正確さ」の判定条件。場合分けが必要な問題で場合分けが省略されている場合、減点2。根拠が記述されていない省略は、減点3。非標準的な記号の使用は、「表記の規範性」で減点1。


 芦原の答案が全軸で1を叩いた理由が、ここに全部書いてあった。


 同時に、この基準のどこに芦原の答案を置けば「判定不能」になるかも、読めば計算できた。


 八ページを最後まで読んだ。読み終えたとき、教員室の蛍光灯が切り替わる音がした。他の教員はもう帰っていた。


 資料を鞄に入れた。入れてから、手が止まった。


 持ち帰ることは禁じられていない。教員用の配布資料だ。だがこれを芦原に見せることは、門脇が意図した使い方ではない。見せれば、芦原は評価基準の構造を即座に読み解く。どの記述が減点され、どの記述が判定不能になるかを計算する。芦原の公理にとって、それはゲームの攻略ではない。相手の言語体系の地図だ。


 鞄の中で、翻訳ノートと評価基準の紙が重なった。八ページと七ページ。個別指導は中止されたのに、手元の材料は増えている。


 芦原の声が残っていた。「チルダが壊れてる可能性って、あると思いますか」。あの声の小ささが、耳の奥から消えなかった。壊れているかどうかわからないものを抱えたまま、門脇の正しさと向き合っている。俺に聞いたのは、壊れる場所を見た人間だからだと芦原は言った。


 帰り道、駅のホームで鞄を膝に乗せていた。鞄の角が手の甲に当たっていた。翻訳ノートと評価基準の紙が重なった重さ。自分が何をしようとしているのか、まだ気づいていなかった。

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― 新着の感想 ―
これはスケーラビリティのお話しですね。左辺と右辺が相補関係にあるならば、推移律は保証されるわけですね。わかってしまえば簡単なことです。でも気付きの閾値は異常に高い。これはそういう類いのお話しだと思いま…
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