第六話 感染と転落
寺田翔太は、補習クラスでいちばん声が大きい。
成績は悪いが頭は回る。三分で飽きて、五分で雑談を始め、十分で机に突っ伏す。ただし他人の話は聞いている。突っ伏した姿勢のまま、教室の会話を全部拾っている種類の生徒だ。
七月に入ってから、寺田の目が変わった。
きっかけは、火曜日の補習だった。その日は通常の授業で、芦原との個別指導の日ではない。だが芦原は補習にも出ている。七人の一人として、左端の席に座っている。
場合分けの問題を出した。|2x − 3| > 5。通常の解法は、2x − 3 の正負で分けて解く。
芦原は、いつものように場合分けを圧縮した答案を書いた。鉛筆が紙を離れるまで、二十秒もかからなかった。
寺田が突っ伏した姿勢から目だけをこちらに——ではなく、芦原の手元に向けていた。
横目ではなかった。首を傾けて、はっきりと見ていた。芦原の答案用紙の上を鉛筆が走る動きを、追っていた。
俺はそれに気づいていた。気づいていて、止めなかった。寺田の目に映っている何かを、見たかった。
◇
次の火曜日も、同じだった。寺田は芦原の解き方を見ていた。今度は突っ伏さずに。背筋を少し起こして、芦原の手元が見える角度に体を傾けていた。
その次の火曜日には、寺田は自分の答案用紙の端に何かを書き付けていた。「分けない」「一つでいい?」。殴り書きのメモが、答案の余白に散っていた。回収した寺田の答案は、まだ従来のやり方で解いてあったが、余白のメモが増えている。何かを掴もうとしている手つきだった。
芦原は寺田の視線に気づいている様子がなかった。あるいは気づいていて、区別していなかった。見られることと見られないことの差が、芦原にとって結論に影響しないのかもしれなかった。
俺は止めるべきだったのだろう。寺田に「芦原さんの真似はするな」と言うべきだった。だが寺田の目の中にある飢えたような光が、俺自身が最初に芦原の答案を見たときの感覚に似ていて、止める言葉が出なかった。
三週目の火曜日に、事件が起きた。
◇
問題は二次不等式。x² − 4x + 3 > 0。
通常の解法は、左辺を因数分解して (x − 1)(x − 3) > 0 とし、数直線上で符号を調べる。x < 1 または x > 3。二つの区間が答えになる。
答案を回収した。寺田の答案を開いたとき、赤ペンを持つ手が止まった。
x² − 4x + 3 > 0
(x − 1)(x − 3) > 0
二つに分けなくていい。答えは一つ。
それだけだった。
「二つに分けなくていい」。根拠も記述もない。二つの区間のどちらを「答え」にしたのかすら書いていない。答案の横に、小さな字で「芦原さんのやり方」と書いてあった。
赤ペンの先が紙に触れたまま動かなかった。赤い点が滲んでいく。
寺田は、芦原がやっていることの表面だけを持ち帰っていた。「二つあるものを一つにまとめる」。その操作だけを真似して、「なぜまとめるのか」「まとめていいのか」という判断を、まるごと飛ばしている。
x < 1 と x > 3 は、この問題の結論に関して区別不能ではない。片方は1より左、もう片方は3より右。その間には、不等式を満たさない区間がある。壁がある。芦原なら絶対にまとめない。
◇
補習が終わったあと、寺田と芦原を残した。
寺田の答案を机に置いた。赤い点が滲んだ跡が残っている。
「寺田。この答案について聞きたい。x < 1 と x > 3 を『一つ』にしたのは、なぜだ」
寺田は頭を掻いた。
「いや、芦原さんがいつも二つあるやつを一個にしてるじゃないですか、場合分けとか要らないって。だから俺もやってみたんすけど」
「芦原さんがまとめるのは、結論が同じ場合だけだ。x < 1 と x > 3 は結論が違う。別の範囲の数だ」
「でも、どっちも答えじゃないですか。不等式を満たすっていう意味では同じっていうか」
「瀬尾先生」
芦原が口を開いた。補習のあとに発言するのは珍しかった。俺ではなく、寺田を見ていた。
「寺田くん」
寺田が芦原を見た。
「x < 1 と x > 3 は、区別できます。1と3の間に、不等式を満たさない数がある。間に壁がある。壁があるなら、左と右は別です」
「でも芦原さん、いつも——」
「私がまとめるのは、間に壁がないときです。壁があるのにまとめたら、答えが変わります。答えが変わるなら、区別は必要です」
寺田は黙った。
芦原は寺田を見ていた。声のトーンは変わらなかった。
芦原は一瞬だけ寺田の手元を見た。机の縁を掴んだ白い手を。それから口を開いた。
「寺田くんがやったのは、私と同じことじゃないです。区別が要るかどうかを考えないで、ただ一つにした。それは区別しないんじゃなくて、考えるのをやめただけです」
教室が止まった。蛍光灯の微かな音だけが残った。
寺田の首が赤くなっていた。机の縁を掴んだ手が白くなっている。怒りではないと思った。恥だろう。芦原に悪意がないことは寺田にもわかっているはずだ。報告だ。事実の報告。だが報告の精度が高すぎて、言葉が骨まで届いている。
「……すんません」
寺田は鞄を取って立ち上がった。教室を出る前に、一瞬だけ俺のほうを見た。芦原ではなく、俺を。その目の中に、恥とは別の何かがあった。何かを確かめようとしている目だった。
扉が閉まった。足音が廊下に荒く遠ざかった。
俺と芦原が残った。
「芦原さん。寺田は、君のやり方に影響されてああいう答案を書いた」
「知ってます」
「助けてやることはできなかったか」
芦原は少し黙った。
「助けるというのが、私の考え方を教えるということなら、できません。考え方は教えるものじゃないので」
「じゃあ何だ」
「見えるか見えないかです。寺田くんには、壁が見えてなかった。見えてない人に、見えてるふりをさせるのは、嘘を教えることです」
門脇の面談を思い出した。芦原は門脇にも「嘘を書くことになります」と言った。区別できないものを区別して書くのが嘘なら、区別が必要なものをまとめるのも嘘だ。嘘の方向が逆なだけで、芦原にとっては同じ種類の歪みだった。
寺田への同情は、芦原の公理の外にある。
◇
問題は翌日に大きくなった。
寺田の答案は門脇の評価プログラムにもサンプルとして送られていた。答案の端に「芦原さんのやり方」と書いてあったことが、門脇の目に留まった。
門脇から電話が来たのは、水曜の夕方だった。声が低かった。
「瀬尾。芦原さんの件で話がある」
木曜の放課後、面談室で門脇と向かい合った。窓のない部屋だった。冷房が効きすぎていて、腕の産毛が立っていた。門脇の前に、寺田の答案のコピーが置いてあった。門脇の座り方が前回と違っていた。椅子を引いていない。テーブルに体を寄せて、こちらに正対している。
「これを見てくれ」
寺田の答案。「芦原さんのやり方」という書き込み。赤い点の滲み。
「寺田くんは、芦原さんの解法を真似して、こういう答案を書いた。場合分けが必要な問題で、場合分けをせずにまとめた。結果は不正解だ」
「それは——」
「瀬尾。お前は芦原さんに個別指導をしているな」
「している」
「その個別指導の中で、芦原さんの解法を矯正するのではなく、観察していたんじゃないか」
門脇の目が俺の顔を固定していた。推測ではなかった。確信だった。
「芦原さんの考え方を、変えようとはしていなかった。そうだろう」
「彼女の考え方には一貫性がある。壊すべきではないと判断した」
「壊すべきではない」
門脇は寺田の答案を指で叩いた。
「その判断の結果がこれだ。芦原さんの考え方を放置した結果、影響を受けた生徒が間違った解法を真似して、失点している。寺田くんは被害者だ」
反論が出なかった。
門脇は正しい。芦原の解法を観察し続け、矯正もせず、管理もしなかった結果、寺田が模倣して転んだ。芦原に責任はない。寺田にも、十六歳の模倣者としての限度を超えた責任はない。
推移律だ、と思った。芦原の問題で使えたから、別の問題でも使える。芦原ができたから、寺田もできる。その推移が壊れた。芦原のチルダは問題を跨がない。同じように、人を跨がない。壊れ方が数学と同じだった。
責任があるのは、管理すべき立場にいた俺だ。
「個別指導は中止してもらう」
言葉を聞いた瞬間、体が冷えた。冷房のせいではなかった。
「芦原さんへの個別指導だ。補習クラスの通常授業は続けていい。だが放課後の個別指導は、現状では管理が不十分だ。芦原さんの解法が他の生徒に無秩序に広まるのを防ぐ必要がある」
「防ぐ。彼女は何も広めてない。寺田が勝手に——」
「勝手に真似した。そうだ。だが真似される環境を作ったのは、個別指導を続けて芦原さんの解法を教室内で可視化したお前だ」
門脇は怒っていなかった。声は落ち着いていた。感情ではなく、制度の論理で話している。だからこそ反論の隙がない。
「お前に聞くが、芦原さんの考え方は、数学を学び始めた高校生が安全に真似できるものか」
答えは明らかだった。できない。芦原のチルダは、「区別が必要かどうかを正確に判定する力」を前提にしている。その判定力がないまま「区別しない」だけを真似すれば、寺田のようになる。推移律の問題と同じだ。芦原の問題で圧縮できたから、別の問題でも圧縮できる——その推移が壊れる。別の問題は、別の人間だ。
「……できない」
「だろう。だったら管理が必要だ。管理できないなら、中止するしかない」
門脇は立ち上がった。
「お前が芦原さんに何を見ているかは知らない。だが、あの子のためにも寺田くんのためにも、今のやり方はよくない。個別指導の中止は校長にも報告する」
門脇が面談室を出た。革靴の音が廊下に遠ざかっていく。規則正しい間隔で。門脇の声が耳の中にまだ残っていた。怒りのない声。感情を精密に制御した声。あの声の冷たさは、冷房の冷たさとは質が違った。冷房は温度を下げる。門脇の声は温度ごと消す。
一人になった。冷房の音だけが残っていた。
丸テーブルの上に、寺田の答案が残っていた。「芦原さんのやり方」。五文字。寺田が書いた五文字が、俺の二ヶ月を終わらせた。
鞄の角が椅子の脚に当たっていた。中に翻訳ノートがある。もう材料は増えない。ノートは七ページで止まる。
◇
夜。アパート。六畳一間。蛍光灯がちらついている。ちゃぶ台の上に翻訳ノートとパソコンとマグカップ。いつもの配置だったが、ノートを開く手が動かなかった。
個別指導が中止された。芦原に新しい問題を出せなくなる。翻訳ノートの材料が止まる。七ページの先に進めなくなる。
——自分の思考の順番に気づいて、手が止まった。
最初に心配したのが「材料」だった。芦原がどう思うかではなく、翻訳ノートが進まなくなることだった。
パソコンを開いた。ブログの三本目の記事。コメント欄に、あの匿名の質問者からの新しい返事がついていた。
「大変興味深い。この体系の考案者と直接お話しすることは可能でしょうか。当方、数学基礎論を専門にしています」
「考案者」。この人物は、記事の向こうに特定の人間がいることを前提にしている。
門脇が個別指導を中止したのは、芦原の解法が教室内で広まることを防ぐためだった。
俺はとっくに、教室の外に広めていた。
返信を書き始めた。途中でブラウザを閉じかけた。閉じかけて、また開いた。指がキーボードの上で震えていた。
「考案者との面会は現時点では困難です。ただし体系についてのご質問にはお応えできます」
送信した。止めておけばいい。止めておけば、これ以上穴は広がらない。止めておけばいいのに、送信ボタンを押す指だけが、俺の意志より先に動いた。
「ご質問にはお応えできます」。自分で書いた一行を読み返した。門番の台詞だった。
門脇が教室の内側を閉じた日に、俺は教室の外側を開いている。
芦原には、言わなかった。言わないまま、ブログの画面を閉じた。蛍光灯がちらついている。ちらつきの間隔が、寺田の荒い足音に似ていた。




