第五話 金メダルの男
職員室の入口に、見覚えのある背中が立っていた。
六月の第三週。月曜の朝。出勤簿に判を押そうとした手が止まった。校長室から出てきた男と、廊下ですれ違う手前だった。
背が高い。姿勢がいい。グレーのジャケットにノーネクタイ。革靴が廊下の蛍光灯を反射している。教員ではない。来客だ。校長が廊下まで見送っている。二人は何か笑いながら話していた。校長が来客の肩に手を置いている。
来客が振り返った。
目が合った。
門脇真司だった。
◇
四年ぶりだった。
最後に会ったのは、俺が大学院を辞める半年前の学会だ。門脇は発表者で、俺は聴衆だった。壇上で自分の結果を話す門脇の声は、会場の隅まで届いていた。俺は後ろの席で、手元のノートに門脇の証明を追っていた。追えた。すべて理解できた。そして、それが俺にできるすべてだった。
あの日、会場を出るとき、指導教員の中澤先生とすれ違った。「瀬尾、最近どうだ」と聞かれて、「やってます」とだけ答えた。中澤先生は俺の手元のノートを一瞬見て、何も言わなかった。あれが中澤先生と話した最後だ。
「瀬尾?」
門脇は一瞬だけ目を見開いて、すぐに笑った。笑い方が変わっていなかった。四年前と同じ角度で口が開く。
「久しぶりだな。ここにいたのか」
「非常勤だよ。週三日」
「そうか」
門脇はそれ以上を聞かなかった。聞かないことが配慮だと知っている男だ。代わりに、自分の用件を話した。
「今日、校長先生と打ち合わせだったんだ。うちの研究室で開発してる評価プログラムの試験導入の話。来月から、この学校でパイロットテストをやることになった」
「評価プログラム」
「数学的思考力を客観的に測るプログラム。答案の記述内容を、あらかじめ設定した評価基準表に照らして分析して、五段階で評価する。教師の主観に頼らない採点を目指してる」
門脇の声は安定していた。揺れがない。自分の仕事に確信がある人間の声だった。
「採点のバラつき、問題だろう。同じ答案なのに、教師によってAだったりBだったりする。生徒にとっては不公平だ。それを減らしたい」
「……いい仕事だな」
嘘ではなかった。嘘ではないことが、重かった。
「お前も対象になる。補習クラスの答案も分析対象に入るから。来月、答案のサンプルを回収させてもらう」
鞄の紐を握る手に力が入った。鞄の中に翻訳ノートがある。その重さが急に変わった気がした。
補習クラスの答案。芦原の答案。チルダ付きの答案。
「全生徒の答案か」
「うん。匿名化して分析するから、個人情報の問題はない。校長には了承いただいた」
門脇は腕時計を見た。時間の使い方に無駄がない。
「すまん、次の会議がある。また来るよ。——瀬尾」
「何」
「元気そうでよかった」
門脇は手を上げて廊下を歩いていった。革靴の音が規則正しく遠ざかる。一歩ごとに同じ間隔で。
元気そうでよかった。
門脇は本気でそう思っている。見下しているのではない。心配しているのだ。心配できる側にいる人間の、正確な善意だった。
◇
七月の第一週に、評価プログラムの試験運用が始まった。
全校生徒の数学の答案から、各学年百名ずつサンプルを抽出する。補習クラスの七名は全員含まれている。答案は匿名化され、門脇の研究室に送られ、評価基準表に基づいて五段階で評価される。
二週間後、結果が返ってきた。
教員用の一覧表を開く。補習クラスの七名の結果。
寺田翔太。総合スコア2.3。
他の五名。1.8から2.8の間。
芦原凪。
総合スコア1.0。
全軸で1。最低評価。
一覧表を持つ手が動かなかった。
一瞬、胸の奥で二つの感情がぶつかった。門脇の基準が芦原を測れなかったという確信。そしてその確信が、俺にしか見えていないことへの恐怖。期待と失望が同時に来て、どちらが先だったかわからなかった。
論理の正確さ。表記の規範性。計算の完遂度。結論の明示性。その全部で、芦原の答案は最低を叩いていた。
チルダは「非標準的記号」として減点。場合分けの省略は「論理の飛躍」。文脈限定子は「曖昧な記述」。
二ヶ月かけて観察してきた芦原の体系——その一貫性、対称性への直観、不要な区別を削ぎ落とす精密さ——のすべてが、門脇の評価基準では「不備」として処理されていた。
当然だった。評価プログラムは「正しい数学の書き方」を基準にしている。そして「正しい書き方」は、等号の体系の書き方だ。
一つの数学を基準にすれば、別の数学は不備になる。
そのことに、門脇は気づいていない。気づく必要がない。門脇の世界には、数学は一つしかない。
◇
翌週、門脇が結果のフィードバックのために学校に来た。
教員向けの説明会が放課後に開かれた。会議室。門脇はスライドを使って、評価プログラムの概要と結果を説明した。声の通り方が違う。教員たちは概ね好意的だった。
質疑応答の時間に、俺は手を挙げなかった。挙げようとして、挙げなかった。
説明会が終わり、教員たちが出る。門脇が俺のところに来た。
「瀬尾。ちょっと話せるか」
会議室に二人。
「補習クラスの結果を見たか」
「見た」
「一人、全軸で1の生徒がいるだろう。芦原凪」
「ああ」
「あの答案は面白かった」
面白い。その言葉を俺も使った。最初に芦原の答案を見たとき、同じ言葉を選んだ。門脇と俺は同じ入口に立っている。だが俺はその先に進んだ。門脇はまだ入口にいる。
「チルダ記号を独自に使っていて、場合分けを省略している。一貫した癖がある」
「癖」
「瀬尾、知ってるか。あの子のこと」
「補習で教えてる」
「どう見てる」
翻訳ノートのことを話しかけた。ブログのことを。二ヶ月分の観察を。口が開きかけて、閉じた。
「変わった解き方をする子だとは思ってる」
「変わった解き方ね」
門脇は資料をまとめながら言った。
「あの答案を見て、最初は面白いと思ったよ。場合分けの省略には、ある種の美的感覚がある。だが評価としてはつけられない。省略の根拠が記述されていないから」
「根拠は彼女の中にはある」
言ってから、鞄の紐を握る指が白くなっていることに気づいた。
「それは答案に書かれていない限り、評価の対象にならない。数学は書かれたものがすべてだ。頭の中にあるものは、他人には見えない」
正しかった。門脇の言うことは、いつも正しかった。
「あの子に会いたいんだが、いいか」
「会う」
「フィードバックの一環として、低評価の生徒には個別面談をすることになってる。芦原さんもその対象だ。補習の担当として、同席してもらえると助かる」
断る理由はなかった。建前の上では。
「わかった」
◇
面談は翌日の放課後に設定された。場所は面談室。小さな部屋で、丸テーブルと椅子が三脚。冷房の風が首筋に当たっていた。
門脇が先に来ていた。ジャケットを脱いで、シャツの袖をまくっている。テーブルの上に芦原の答案のコピーと、評価シートが置いてあった。門脇の手元には自分のノートも開いてある。字が小さくて整っていた。
芦原が来た。ノックして入ってきた。鞄を床に置いて、椅子に座った。門脇を見た。
「初めまして。門脇と言います。大学で数学教育の研究をしています」
「芦原です」
「芦原さん。今日は、この前のテストの結果についてお話ししたいんだけど、いいかな」
門脇は椅子を少し引いて、芦原の正面に座り直した。背を低くして、目線を合わせた。声のトーンを一段下げた。丁寧で、押しつけがましくなく、しかし確実に「大人が子どもに向き合う」形を取っている。その所作に迷いがなかった。
「芦原さんの答案を見せてもらったよ。面白い解き方をしてるね」
「面白い」
芦原はその言葉を反復した。表情は動かなかった。
「場合分けを省略したり、独自の記号を使ったりしてる。何か自分なりのルールがあるのかな」
「ルールというか、こうしか見えないんです」
「こうしか見えない」
「区別できないものを、区別しないだけです」
門脇は黙った。三秒。受け取っている。そのうえで、自分の言葉を返す。
「なるほど。区別できないものは同じにする。それは一つの考え方だと思う。ただ、数学のテストでは、過程を書くことが求められるよね。結果が合っていても、過程が省略されていると、他の人が検証できない」
「検証」
「うん。数学は一人で考えるものだけど、書いたものは他の人に読まれる。読んだ人が『なぜそうなるのか』を追えるように書く。それが数学のルールだ」
「先生のルールですか」
門脇の手が一瞬止まった。ノートの上で。
「みんなのルールだよ。数学を学ぶすべての人が、同じ土俵で話すためのルールだ」
「私も入ってますか」
「もちろん」
芦原は門脇を見た。目が固定されていた。顎が一ミリ上がって、戻った。
「私が区別できないものを区別して書いたら、それは嘘を書くことになります」
面談室が静かになった。冷房の音だけが残った。
門脇は芦原を見ていた。目の奥で、何かが一度だけ止まり、また動いた。
「嘘、というのは強い言葉だね。場合分けを書くことは、嘘ではないよ。確認作業だ。結果が同じかどうかを、ちゃんと確かめるための手続き」
「同じだとわかっているものを、わざわざ分けて確かめるのが手続きなら、その手続きは私には要りません」
「でも、それは芦原さんにとってそうだということだよね。他の人にとっては、確かめないとわからない。書くのは自分のためだけじゃなく、読む人のためでもある」
門脇は正しかった。他者が検証可能であることが、証明の条件だ。だが芦原にとっては、検証不要なものを検証可能にすること自体が、余分な区別の導入になる。
二つの「正しさ」がぶつかっている。門脇は書く側のルール。芦原は見る側のルール。
芦原が口を開いた。
「門脇先生」
「はい」
「先生は数学が好きですか」
門脇の目が少し動いた。
「好きだよ。ずっと好きだ」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、こうしか見えないんです」
芦原はそれだけ言って、黙った。
門脇の返答が来なかった。五秒。十秒。冷房の音だけが面談室を満たしていた。門脇の手がノートの上で止まっていた。
「好き」と「こうしか見えない」は違う。好きなものは、好きでなくなる可能性がある。選んでいるからだ。「こうしか見えない」は選択ではない。変更の余地がない。門脇は数学を選んだ。芦原は選んでいない。
「……芦原さん。今日はありがとう。答案の書き方については、瀬尾先生と相談しながら、少しずつ練習していこう」
練習。
芦原は頷かなかった。立ち上がって、鞄を取って、「失礼します」と言って面談室を出た。靴音が遠ざかるまで、門脇は芦原が座っていた椅子を見ていた。
◇
芦原が出たあと、門脇と二人になった。
門脇は評価シートをテーブルに置いたまま、腕を組んだ。しばらく黙っていた。黙っている門脇を見るのは珍しかった。
「あの子は、思ってたより手強いな」
「手強い、という言い方は」
「言い方が悪かった。思ってたより、根が深い。解き方の癖じゃなくて、考え方そのものが違う」
「そうだ」
門脇は俺を見た。目が変わった。学会のときの目ではなく、学生時代の目だった。同期の目。
「瀬尾。お前、あの子に入れ込んでないか」
心臓が打った。一回。大きく。
「数学を辞めた人間が、数学を壊す子どもに惹かれる。気持ちはわかるよ。だがそれは理解じゃない。共依存だ」
鞄の紐が手の甲に食い込んでいた。いつ握り締めたのかわからなかった。
「違う——」
口が開いた。何が違うのかを言う前に、声が出ていた。門脇が俺を見た。待っている顔だった。続きを。続きがなかった。半分は門脇の言う通りだった。もう半分を説明する言葉が出てこなかった。
反論する言葉を探した。見つからなかった。見つからないのは、門脇が正しいからではなく、門脇が正しくない部分を説明するには、俺がやっていることの全部を話す必要があるからだった。翻訳ノート。ブログ。芦原を使おうとしている自分。共依存より悪いものに名前をつける言葉を、俺は持っていなかった。
「気をつけろよ」
門脇は立ち上がって、資料をまとめた。
「あの子には、正しい数学を教えてやるのが一番だ。変わった考え方は面白いけど、テストでは通らない。通らないまま放置するのは、優しさじゃない」
門脇は上着を羽織って、面談室を出た。
一人になった。
丸テーブルの上に、芦原の評価シートが残っていた。総合スコア1.0。全軸で最低。
門脇の言ったことは正しい。テストでは通らない。通らないまま放置するのは、確かに優しさではない。
だが「正しい数学を教える」とは、芦原のチルダを等号に書き換えることだ。芦原の世界認識の骨格を、多数派の骨格に差し替えることだ。
門脇はそれを「教育」と呼ぶ。
俺はそれを——何と呼ぶ。
鞄の角が手の甲に当たった。中に翻訳ノートがある。「非公開」の三文字が書かれた表紙。門脇はこのノートの存在を知らない。知ったら、何と言うだろう。
面談室を出た。廊下を歩いた。芦原の教室の前を通りかかった。もう生徒はいない。黒板が消されていて、白い粉の跡だけが残っていた。
門脇は金メダルを取った男だ。正しい数学を正しく学び、正しく研究し、正しく教育に活かしている。彼のやっていることに瑕疵はない。
その正しさが、芦原凪を1にした。寺田翔太を2.3にした。寺田は門脇の基準では芦原より上だ。だが先週の補習で、寺田は突っ伏した姿勢のまま芦原の手元を見ていた。あの目は、自分がどこにいるかを確認する目ではなかった。異なるものが存在することに気づいている目だった。門脇の評価基準表は、あの目を測れない。
廊下の蛍光灯が一本、切れかかっていた。点いて、消えて、また点く。その明滅の中を歩きながら、アパートの六畳の天井が浮かんだ。大学院を辞めたあと、何ヶ月も見上げた天井。あの天井の下に戻る日が、もう来ているのかもしれなかった。鞄の重さだけが確かだった。




