第三話 翻訳ノート
ノートの五ページ目で、手が止まった。
深夜一時。アパートの台所の蛍光灯は微妙にちらつく。六畳一間。ちゃぶ台の上にノートとパソコンとマグカップ。コーヒーはとうに冷めている。
やろうとしていることは単純だ。芦原のチルダ(~)を、通常の数学の記号で書き直す。翻訳する。
たとえば、最初の答案。x² − 5x + 6 = 0。芦原は 2 ~ 3(本問において)と書いた。これを通常の記法で書くなら——
「x² − 5x + 6 = 0 の解集合 {2, 3} において、2と3は方程式を満たすという性質に関して同値である」
書けた。だがこれは翻訳ではない。言い換えだ。「同値である」は通常の数学の用語で、きちんとした定義がある。同値関係は反射的で対称的で推移的な関係だ。芦原のチルダがこの条件を満たすかどうかは、まだわからない。
線を引いた。横一本。消せないから線で消す。
次。不等式の答案。|x − 2| < |x − 5|。芦原は「本問で見ているのは、x が 2 と 5 のどちらに近いかだけ」と書いた。
これを翻訳する。
「xから2までの距離とxから5までの距離を比較する問題において、場合分けの各場合は結論(どちらに近いか)に関して同一であるとき、区別不要である」
書いた。また線を引いた。さっきの翻訳とは形が違う。一問目は「二つの数の同値性」、二問目は「二つの場合の結論の同一性」。対象が違う。関係が違う。文脈が違う。
芦原は両方に同じチルダを使っていた。
三問目。二次関数のグラフ。対称軸の左右で値が一致する点の組。芦原は一致する点の組をチルダで括っていた。これを翻訳する。
「対称軸に関して鏡像の関係にある二点は——」
ペンが止まった。鏡像。いや、これは幾何学的な言葉で、さっきの同値とは別の概念だ。
線を引いた。書き直した。また線を引いた。
一時間で六つの翻訳を書いた。六つは全部、別の顔をしていた。ノートの五ページ目は、黒い横線だらけだった。書いて、消して、書き直して、また消して。鉛筆の芯が紙に食い込む重さが、一行ごとに増していく。消しゴムの粉が紙の表面に溜まり、払うと薄い匂いがした。ページの端まで使い切って、余白がなくなった。線の下に潰された文字が何層にも重なっている。
芦原にとっては「同じこと」だ。区別できないなら同じ。チルダ一本。
俺にとっては「別のこと」だった。それぞれ別の数学的概念で記述しなければ、意味が通らない。
つまり、芦原の体系は、俺の言語より少ない記号で、より多くの状況を覆っている。一つのチルダが、六つの数学的概念を圧縮している。
逆に言えば、俺の翻訳は芦原のチルダを六つに分解している。分解すること自体が、区別の行為だ。
区別不能性を翻訳するために、区別を使っている。
もう一つ、気がかりなことがあった。一問目のチルダと三問目のチルダを繋げるか。「解として同値」と「対称性として同値」を、一つの関係として書けるか。
書こうとした。六つの翻訳を一つにまとめるには、六つすべてを含む上位の同値関係を定義すればいい。同値類を作り、商をとる。代数学の基本操作だ。
だが商をとるには、まず同値関係が要る。同値関係には三つの条件が要る。反射律、対称律、そして推移律。
推移律。a ~ b かつ b ~ c なら a ~ c。
一問目のチルダは「方程式の中で同じ役割」。三問目のチルダは「対称軸について鏡像」。二つのチルダを繋いだとき、その先にもチルダが成り立つか。文脈が変わっても「同じ」は保存されるか。
手が止まった。保存されるとは限らない。文脈Aで a ~ b、文脈Bで b ~ c。文脈が違う。文脈が違うチルダを繋いだ先に、何がある?
答えが出なかった。出ないまま、ペンが落ちた。ちゃぶ台の上にノートが開いている。五ページ分の横線が、遠目に見ると一枚の灰色に見えた。
◇
ノートを閉じて、天井を見た。
大学院のときと同じだった。定理は読めたが書けなかった。今、芦原の体系が読めるが翻訳できない。形は同じ。読めるのに書けない。四年経っても、同じ天井の下にいる。
だが大学院のときとは、一つだけ違う。あのときは道の上を歩いているだけだった。今は、道のない場所に立っている。芦原のチルダには、俺が知っている道がない。道がないのに、何かがそこにある。
それを形にできない。手が動かない。ちゃぶ台の上で冷めたコーヒーの表面に、蛍光灯の光が揺れていた。
◇
ノートを持つ手が、自分のものではないように重かった。木曜日。補習の授業のあと、芦原が残った。
三回目の個別指導。教室に西日。窓の向こうで鳥が鳴いている。
芦原が席に着いたとき、俺はノートを鞄から出した。出しながら、自分が何をしようとしているかを考えた。
「今日は解いてもらう前に、見せたいものがある」
翻訳ノートを芦原の前に置いた。五ページ目まで開いて。横線だらけのページが、西日の中で灰色に光った。置いた手が、すぐにノートの端から離れた。離れてから、指先がまだ震えていることに気づいた。見せたくて見せたのではない。見せなければこれ以上一人では進めなかった。
「これは何ですか」
「君の答案の翻訳。君のチルダを、俺が習った数学の言葉で書き直そうとした」
芦原はノートに目を落とした。ページをめくる。一ページ目。二ページ目。三ページ目。四ページ目。五ページ目。速くはない。一つ一つの翻訳を、声に出さずに読んでいる。横線の下の潰された文字も、目で追っていた。
読み終えるまで三分ほどかかった。
芦原が顔を上げた。
「先生。これ、全部同じことなのに、何個も書いてあるんですか」
俺が二晩かけて到達した結論を、芦原は三分で言い当てた。
「……同じに見えるか」
「同じです。全部、区別できないものは同じにしていい、の例ですよね。それを問題ごとに別の書き方にしてある。なんでですか」
「俺の数学の言葉では、一つの書き方で全部を覆えないからだ。文脈が違えば、翻訳も変わる」
「先生の数学では、文脈が変わると同じことが同じに書けなくなるんですか」
「そうだ」
「じゃあ、先生の数学のほうが不便じゃないですか」
反論する言葉が出なかった。
不便。芦原は正誤を問うているのではなく、効率を問うている。一つの記号で済むことを六つに分ける。それは翻訳ではなく、分解だ。
「芦原さん。君の中では、この六つは本当にまったく同じなのか」
「同じです」
「区別できる余地は、ない?」
芦原は少し考えた。鉛筆を持っていない手が、ノートの横線に触れた。潰された文字の上を、指先でなぞった。
「問題の見た目は違います。数が二つのときと、場合が二つのときと、変数が二つのときがある。でもやっていることは同じです。二つあるように見えるけど、実は一つ。それだけです」
「二つあるように見えるけど、実は一つ」
「はい」
俺はノートを見つめた。六つの翻訳が並んでいる。芦原にとっては一つ。俺にとっては六つ。
この差が、翻訳の不可能性の正体だった。
◇
「先生」
「何」
「先生がこのノートを書いたのは、私のためですか」
四度目だった。もう数えるのをやめた。
「半分は」
「もう半分は」
「俺のためだ。わかってるだろう」
「わかってます」
芦原はノートの五ページ目を指さした。俺が欄外に「翻訳は中立ではない」と走り書きしたメモの横。
「ここ、正しいと思います。先生の翻訳は、先生の数学の言葉で書いてある。だから先生の数学が正しい前提になってる。でもそれは翻訳じゃなくて、」
芦原はそこで言葉を探した。珍しいことだった。普段、言葉を探さない。見えたものをそのまま言う。探すということは、見えているものに合う言葉が手元にないということだ。
「……植民地化」
教室が止まった。西日が白板の端を照らしていた。
俺の手が机の上で動いた。ノートの端を掴もうとして、止まった。
「どこでその言葉を知った」
「世界史の教科書です」
植民地化。翻訳先の言語を正として、翻訳元を従にする。翻訳元の体系が持っている固有の論理を、翻訳先の論理で上書きする。芦原はその構造を、世界史の教科書の一語で射抜いた。
芦原はノートの六つの翻訳を見ている。横線だらけのページ。俺の失敗の痕跡。
「先生。このノート、完成しますか」
「わからない」
「完成しないと思います」
声は平坦だった。残酷ではなかった。予報だった。明日の天気を言うのと同じ調子で、俺の翻訳が完成しないことを告げている。
「私の数学は、先生の言葉には入りきらないです。先生の言葉は、区別が多すぎる。区別が多い言葉で、区別しない体系を書こうとしてるから、壊れるんです」
手の甲に力が入った。ノートの端が指の下で潰れた。
壊れる。芦原はそう言った。壊れているのはノートではなく翻訳でもなく、俺の側だ。四年前に止まった手が、また止まっている。あのときは定理が書けなかった。今は翻訳が書けない。場所が変わっただけで、止まっているのは同じ手だ。
六畳の天井を見上げた夜と、今この教室と、何が違うのか。何も違わない。芦原の言葉を借りるなら——区別できない。
俺はノートを閉じようとした。横線だらけのページを、もう見ていたくなかった。
「でも」
芦原が言った。俺の手が止まった。
「壊れた翻訳でも、ないよりましです」
芦原の目が、ノートの表紙を見ていた。「芦原体系・覚書」の文字。「非公開」の三文字。
「先生の翻訳が壊れてるのは、先生のせいじゃないです。言葉が足りないだけです。壊れたところは私が直します。だから続けてください」
言い残して、立ち上がった。鞄を取った。教室を出る前に、一度だけ振り返った。
「翻訳は中立じゃない。先生が書いたとおりです。中立じゃないから、これは先生の翻訳です。先生のものです。私のものじゃない」
芦原の靴音が廊下に遠ざかった。均等な間隔で。
◇
一人になった教室で、ノートを開いた。六ページ目。
今日のやりとりを書き留めようとして、何を書けばいいかわからなかった。
「壊れたところは私が直します」。
「中立じゃないから、これは先生の翻訳です」。
二つの文が頭の中で回っている。壊れた翻訳を直すと言った。同時に、翻訳は俺のものだと言った。
俺のもの。
ノートに書いてあるのは芦原の体系の翻訳だ。芦原の答案から規則を抽出し、俺の言葉で書き直したもの。だが芦原は「私のものじゃない」と言った。翻訳は翻訳者のものだ。原文は原文の持ち主のものだ。その二つは別だ。
ならば俺がブログに書いていることは——
認識がそこまで来て、手がパソコンのキーボードに向かった。
三本目の記事を書き始めた。
「等号の変種について(3)——翻訳の不可能性と文脈依存性」
チルダの定義だけでなく、翻訳の試みとその失敗を書いた。文脈ごとに別の翻訳が必要になること。統一的な翻訳規則が作れないこと。翻訳が翻訳元の構造を変えてしまうこと。
芦原の名前は出さない。「ある生徒」。だが記述は前の二本より格段に詳しい。この記事を読めば、数学に覚えのある人間なら、背後にある体系の輪郭がうっすら見えるはずだ。
投稿ボタンの上で、指が止まった。ノートの表紙が視界の隅にあった。「非公開」。その三文字を見て、指がもう一度止まった。
一本目は十二回閲覧された。二本目は四十三回。増えている。
三本目は、もっと多くの目に触れるだろう。そしていつか、この記事の向こうに芦原凪という人間がいることに、誰かが気づく。
「これは先生の翻訳です。先生のものです」
芦原の声が耳に残っていた。俺のものだと芦原は言った。だが俺のものならば、なぜ芦原の名前を出さないのか。俺のものならば、なぜ「ある生徒」と書くのか。
その問いを、考え終わる前に投稿ボタンを押すことで処理した。
画面が切り替わる。「投稿が完了しました」。
ノートの表紙。「芦原体系・覚書」。「非公開」。
ブログの記事は三本になった。非公開のノートが、公開の記事を三つ産んでいる。
芦原は「先生のもの」と言った。だがノートの表紙には「芦原体系」と書いてある。俺のものなのか。芦原のものなのか。どちらの名前で呼ぶかで、見え方が変わる。
その区別を、俺はまだつけられていなかった。




