第一話 誤答
蛍光灯がジジ、と鳴った。音の出どころは教室の右奥、窓際の一本だ。他の三本は静かだった。
補習クラスの窓は西向きで、六限目は毎回、西日が白板をオレンジに焼く。四月から十一回目の授業だった。生徒は七人。一年から三年まで混じっている。教科は数学。担当は俺、瀬尾律。非常勤。週に三日だけこの高校に来て、正規の教員がやりたがらない補習を受け持つ。時給二千円。交通費込み。
七人の中では寺田が一番うるさくて、芦原が一番静かだった。
芦原凪。二年。前髪が長い。いつも左端の席に座って、窓にも白板にも等しい角度で顔を向けている。等しいという表現は正確ではないかもしれない。どちらも見ていないように見える、というのが近い。
寺田は今日も三分で突っ伏した。四月の最初の授業から変わらない。突っ伏す前に鉛筆を回す癖がある。一回転半で落とす。拾う。また回す。落とす。それを三回やって、伏せる。
その日の問題は、二次方程式だった。
x² − 5x + 6 = 0
因数分解すれば (x − 2)(x − 3) = 0。よって x = 2 または x = 3。中学三年で習う内容を、高校二年の補習でやっている。それが補習クラスの現実で、俺はもう慣れていた。
七人に五分を与え、ノートに解かせる。寺田は三分で終わらせて突っ伏した。他の五人がそれぞれのペースで鉛筆を動かす。チョークの粉の匂いと、鉛筆の芯が紙を擦る音。蛍光灯がもう一度ジジ、と言った。
芦原は二分ほどで手を止めた。突っ伏しはしない。鉛筆を置いて、窓のほうを見た。置き方が静かだった。音を立てないようにしている、というのとも違う。ただ、手を離した位置にそのまま置いただけだ。鉛筆が転がらなかったのは、たぶん偶然だ。
◇
答え合わせをする。寺田を指す。
「x = 2、x = 3」
「正解」
次の生徒も同じ。その次も。
芦原を指す。
「x = 2」
一瞬、教室が止まった。寺田が顔を上げた。
「芦原さん、もう一つあるよ。3は」
芦原は白板の問題を見た。それから俺を見た。感情が読めない顔だった。怒っていないし、困ってもいない。何かを確認するような目だった。こちらの出方を待っているのではなく、こちらが何を聞いているのかを測っているような。
「二つ、ありますか」
俺は答えようとして、止まった。
当たり前だ。二次方程式には解が最大二つある。因数分解すれば (x − 2)(x − 3) = 0 で、x = 2 か x = 3 だ。中学生でも知っている。
「あるよ。因数分解したら、(x − 2) = 0 の場合と (x − 3) = 0 の場合、両方あるでしょう」
「場合」
芦原はその言葉を繰り返した。反復ではなかった。秤に載せるように。
「先生。2を入れたら式は成り立ちますか」
「成り立つ」
「3を入れても成り立ちますか」
「成り立つ」
「どちらを入れても成り立つ。同じことが起きる。この式の中で、2と3を区別する方法はありますか」
俺の思考が一瞬空転した。首の後ろが熱くなった。
「……数が違う。2と3は明らかに違う数だ」
「数直線の上では。でもこの式の中では?」
芦原はノートに目を落とした。
「代入したら、どちらもゼロになる。式の中で同じ役割を果たすなら、区別する根拠がこの問いの中にはないと思います。だから答えは一つです」
声は平坦だった。主張ではなかった。報告だった。見えたものをそのまま言葉にしただけの声。
寺田が「意味わかんね」と言った。だが突っ伏さなかった。芦原のほうを一瞬だけ見ていた。見てから、自分のノートに目を落とした。自分の答えと芦原の答えを見比べている。三秒ほど。それから「やっぱわかんね」と言って突っ伏した。だが伏せる前に、もう一度だけ芦原のノートの方向を見た。他の生徒も似たような顔をしている。俺は「二つ書くのが正解だよ」と言って次の問題に移った。芦原は何も言わず、ノートに何も書き足さなかった。ノートを閉じもしなかった。開いたまま、次の問題を同じページの続きに書き始めた。
◇
授業が終わり、生徒たちが教室を出る。椅子が引かれる音、鞄のファスナーの音、廊下に出ていく足音。
俺はいつもなら答案を回収しないが、その日は回収した。理由を自覚していたかどうかは、今となってはわからない。たぶん半分は自覚していた。半分は自分に言い訳していた。
職員室の隅の、非常勤用の狭い机で答案を見た。机は壁に向かって置いてあり、左に消火器、右に古いファイルキャビネットがある。蛍光灯はここでも鳴っていた。学校の蛍光灯は全部同じ音を出す。
寺田の答案は雑だが正しい。他の五人も同様。
芦原の答案を開いた。
x² − 5x + 6 = 0
(x − 2)(x − 3) = 0
∴ x − 2 = 0 ∨ x − 3 = 0
ここまでは通常の因数分解と同じだった。だが次の行に、見慣れない記号があった。
2 ~ 3(本問において)
∴ x ~ 2
チルダ。等号でも不等号でもない。ニアリーイコールとも違う。芦原は「~」を、通常の答案では見ない仕方で使っていた。そして括弧の中に「本問において」と書いている。
指先が冷えていた。四月の職員室は暖房が切れている。だがそれだけではなかった。答案の上に置いた手の、指の腹が痺れるような感覚があった。
俺は他の問題の芦原の答案も見た。連立方程式。二次関数のグラフ。場合分けが必要な不等式。すべての答案に、同じパターンがあった。
複数の解や複数の場合が現れるとき、芦原はそれらが「この問題の中で区別できるか」をまず判定する。区別できないと判断したら、一つにまとめる。チルダを使って。
場合分けが必要な不等式の答案には、こう書いてあった。三つの場合を計算し、そのうち二つが同じ答えを導くことを確認した上で、「本問において場合1 ~ 場合3」と束ねている。束ねなかった場合2は、答えが異なるからだ。全部をまとめるのではない。区別できないものだけを束ねている。
間違えているのではなかった。ランダムな間違いではなかった。すべての答案を貫く規則があった。芦原は何かの体系に従って解いている。だがその体系は、俺が学んだ数学ではない。
答案を十枚、机に並べた。西日はとうに落ちて、蛍光灯の白い光だけが紙を照らしている。職員室にはもう俺しかいなかった。
心臓が速い。手が動いている。答案をめくる指が勝手に次のページを探す。この感覚を知っていた。大学院の一年目、位相空間論の定理を初めて自力で証明したときの感覚に似ている。あのときは三日間で消えた。他の人間がとっくに通った道だったから。
だがこれは違う。
この子がやっていることは——。
構成的数学の変種かもしれない。ライプニッツの不可識別者同一の原理を、公理レベルで適用しているのかもしれない。どちらにしても、高校二年の少女が自力でこの体系に至っているなら。
俺はスマートフォンを開いた。連絡先の検索欄に、大学院時代の指導教官の名前を打ち込んだ。中澤。
送信はしなかった。
指が画面の上で止まっている。中澤先生に連絡すれば、然るべき手順で、然るべき人間に繋がる。芦原は「俺が見つけた才能」ではなく「紹介された才能」になる。それが正しい道だとわかっていた。わかっていて、画面を閉じた。
手が震えていた。興奮だと思った。半分はそうだった。
◇
代わりに自分のアパートに戻った。六畳一間。ちゃぶ台の上にノートとパソコン。靴を脱いだとき、鞄の角が手の甲に当たった。中に芦原の答案のコピーが入っている。
ノートを開いた。白いページに、芦原の答案から抽出した規則を書き始めた。鉛筆の芯がページに食い込む音が、静かな部屋で響いた。
通常の等号:a = b ⇔ aとbは同一の対象である
芦原の等号:a ~ b ⇔ aとbを区別する手段が、当該文脈内に存在しない
書き終えて、ノートを見つめた。
違いは一行だ。だがこの一行は、数学の入口の形を変える。
等号は、数学で最も基本的な記号だ。1 + 1 = 2。それが成り立つのは、等号の意味が共有されているからだ。もし等号の定義が違ったら、1 + 1 の「答え」は——
首を振った。大学院を辞めてから四年が経つ。数学の表舞台からは遠い。非常勤講師の給料では学会にも行けない。論文を書く環境もない。
だが、もし。
もしこの体系を形式化できたら。
芦原の答案の中に眠っている規則を取り出し、公理として定式化し、そこから何が導けるかを示すことができたら——
手が勝手に動いていた。ノートの表紙に「芦原体系・覚書」と書いている。日付を記し、最初のページの右上に「非公開」と書き添えている。書き終えてから、自分が何をしたのかを見た。
非公開。その三文字を書いたとき、鉛筆の先が紙に沈む感触があった。沈んで、止まって、離れた。三文字。俺がこれから何をしようとしているかを、俺自身に対して隠すための言い訳だった。
◇
翌日。
放課後、芦原を呼び止めた。廊下の端。他の生徒はもういない。蛍光灯のジジという音が、教室の中から漏れていた。
「芦原さん。昨日の答案について聞きたいことがある」
芦原は鞄を右肩にかけたまま、こちらを見た。鞄は大きくて、芦原の体には少し重そうだった。だが持ち方に無理がなかった。重さをそのまま受け入れている持ち方。
「少し個別に見てもいいかな。君の解き方に興味がある。放課後に時間を取れるなら——」
「先生」
遮るように、ではなかった。ただ事実を確認するように。
「先生、それ、私のためじゃないでしょう」
廊下の蛍光灯がジジ、と鳴った。
俺は否定しなかった。できなかった。嘘をつくのが下手なのではない。芦原の目が、嘘が通用しない種類の透明さを持っていた。こちらの意図を読んでいるのではなく、意図の有無を確認しているだけの目。「先生のためだ」という事実を報告しているのと同じ調子で「先生のためじゃないでしょう」と言っている。
沈黙が三秒ほど続いた。
芦原が鞄のストラップを直した。視線を外さず。
「別にいいですよ」
俺は何かを言おうとした。
「私も先生を使うので」
芦原はそれだけ言って、階段を降りていった。靴音が均等な間隔で遠ざかる。右足と左足の音に差がない。一段ずつ、同じ速度で。階段の踊り場で一度だけ音が途切れて、向きを変えて、また同じ間隔で降りていく。
廊下に一人残されて、俺は自分が何に同意したのかを考えた。
個別指導。そういう建前だ。
建前の裏側にあるものを、芦原は初対面に近い段階で見抜いた。そして「いい」と言った。拒否ではない。許可でもない。取引だ。俺が芦原の体系を使いたいように、芦原も俺の何かを使う。何を使うのかはまだわからなかった。
俺は先生で、芦原は生徒だ。だがこの取引において、どちらが教える側で、どちらが教わる側なのかは、すでに曖昧だった。
階段の下のほうで、芦原の靴音が消えた。
◇
夜。アパートに戻り、ノートを開く。二ページ目。
今日の芦原の言葉を書きとめる。
「その二つ、区別できますか」
区別。
数学の根底にある操作だ。1と2を区別する。正と負を区別する。有理数と無理数を区別する。数学は区別の体系だと言ってもいい。
だが芦原は区別を拒否しているのではなかった。「区別できないものを区別しない」と言っているだけだ。これは怠惰ではない。一つの基準だ。
普通の数学は、「同一性が証明されなければ異なるものとして扱う」。
芦原の数学は、「区別が証明されなければ同一のものとして扱う」。
鏡のような関係。どちらが正しいか、ではない。どちらを出発点にするかで、到達する場所が変わる。
四年前に閉じたはずの脳の部分が、動いている。静かに、ではなかった。うるさく動いている。数学オリンピック銀メダル。大学一年で解析学の教科書を三冊読破。大学院で位相空間論に挑み、二年目の秋に、自分の天井を見た。
天井。
他の同期が見えなかった場所に手が届く感覚が、大学院の二年目から完全に消えた。どれだけ本を読んでも、どれだけノートを埋めても、既存の道筋を辿ることはできるのに、新しい道を切ることができない。銀メダルの速度で人の証明を追えるが、自分の証明を書けない。
門脇はその間に、二本の単著論文を書いていた。オリンピックの同期。金メダル。あいつは新しい道が見えていた。俺には見えなかった。
見えないことに気づいた日の翌日に、大学院を辞めた。
四年間、数学から離れた。離れたつもりだった。非常勤で数学を教えている時点で、離れきれていないことは知っていた。
そして今日、芦原凪の答案に、見たことのない記号を見た。
チルダ。~。
あの記号の向こうに、俺がかつて見えなかった道が——
ノートを閉じた。閉じようとして、手が止まった。ノートの上に置いた手のひらが汗ばんでいた。
閉じなかった。
パソコンを開いた。個人のブログ。三年間で記事はゼロ。閲覧数もゼロ。画面の白い光がノートの表紙を照らした。「芦原体系・覚書」の文字が浮かぶ。「非公開」の三文字が、画面の光に白く滲んだ。
新規投稿のページに、タイトルを打った。
「ある等号の変種について」
本文を書き始めた。芦原の名前は出さない。学校名も出さない。ただ、「あるところで見かけた解法」として、チルダの体系の断片を載せる。キーボードを叩く指が速い。止まらなかった。一度も止まらなかった。
投稿ボタンの上にカーソルを置いた。
ノートの表紙が視界の端にある。非公開。芦原の名前は出していない。学校名も出していない。だが体系の中身を載せれば、読む人間が読めばわかる。わかったとき、芦原はどうなるか。学校はどうなるか。俺はどうなるか。知っていた。知っていて、指が動いた。
押した。
午前一時の部屋で、画面の光だけが天井に跳ね返っていた。ノートの「非公開」は暗がりに沈んでいる。
非公開は、もう嘘になった。
画面にはもう公開された記事が表示されている。取り消すボタンも見えている。
押さなかった。
午前一時の部屋で、画面の光だけが点いていた。閉じればいい。閉じて寝ればいい。ノートの「非公開」の三文字が、画面の光に照らされて、こちらを見ていた。
画面を閉じることができなかった。




