表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天涯比隣 ~怪画絵師の祈り~【全年齢版】  作者: 百合紫陽
第一章「生々(せいせい)」
9/24

第三筆「招魂」(一)


 写楽に連れられ、芦雪(ろせつ)は日本橋に舞い戻っていた。

 正確には、宿泊している小伝馬町ではなく、日本橋の繁華街、通南(とおりみなみ)の方にだが。

 相変わらず人通りは多く、人々のひしめく声が耳奥を震わせる。昨日、御用絵試の立札を眺めていたのが未だ記憶に新しい。

 と、前を歩く背中が足を止めた。


「ぶっ」


 思わず、何かが潰れたような呻き声が口から出る。


「……大丈夫ですか?」


 振り返って芦雪(ろせつ)の無事を確かめる声音は、やや楽しげだ。節のはっきりした指先が芦雪(ろせつ)の鼻先を撫でる。されるがままに「あー」だか「うー」だか唸り声のようなものを上げつつ、芦雪(ろせつ)は写楽が止まった原因を上目遣いに見た。


「ここは?」

流派(ながれは)の絵画制作工房──通称、(ながれ)屋です」


 写楽が指し示したのは、大通りの一角に座す二階建ての建物だった。屋根看板の「流屋翠雨庵」の文字が黄金色に輝き、軒には「流屋」と記された軒看板が吊り下げられている。その背後には、流水紋に彩られた藍色の水引暖簾が間口いっぱいに張られていた。

 この流屋という店は、どうやら小間物屋〔雑貨屋〕のようだった。扇や屏風などの紙製の日用品が品良く並んでおり、品を眺める客の身なりにも上品さが滲み出ている。


 小間物屋とは言っても、ある程度の財を成す人々で賑わう店なのだろう。客足は他の店々と比べても多く、日本橋の盛況に一役買っていると言っても過言ではなかった。

 店先の柱が目に入る。芦雪の視線を射止めたのは貼り紙だったようで、そこには「屏風絵、化粧箱、瀬戸物、小袖の下絵承ります」と記されている。写楽が先刻述べた「絵画制作工房」というのは、このことを指しているらしかった。


 しかし、この絵屋に一体何の用があるのか。芦雪(ろせつ)が所望したのは口入屋であって、小間物屋ではない。

 写楽の意図がとんと分からない一方で、並ぶ品々に芦雪(ろせつ)の気もそぞろになる。

「これは何の品だ?」と視線を隣に流すが、そこにいるはずの写楽は姿を消していた。

 右も左も分からぬ雛を置いて、先導役はどこへ行ったのか。芦雪(ろせつ)は慌てて店の列を抜け出した。周囲を見渡し、路地木戸を抜けていく写楽の姿をとらえる。


(まずい、置いていかれる……!)


 柳色の背を追ってたどり着いたのは、流屋の裏口だった。店の前に佇んでいた時は気づかなかったが、流屋の裏手には店より二回り以上も広い敷地と、一つの屋敷がある。紺色の屋根瓦が陽光を返して煌めき、芦雪は目を眇めた。

 端から端まで順繰りに見ていくと、家屋から流屋へと歩廊が伸びているのが分かる。この屋敷も流屋の一部のようだ。


(ずいぶんと立派な建物だ……。町民地に建てる家屋にしては、土地も武家屋敷並みの広さじゃないか? 俺の実家よりも広いんじゃ……)


 一体、この屋敷には誰が住んでいるのだろう。町人地とはいえ、日本橋の一等地だ。流屋の敷地であると想像できる以上、流屋を営む人間が住んでいるのは間違いない。

 芦雪(ろせつ)が小首を傾げる横で、写楽は流屋の勝手口に手を伸ばす。指が触れるその直前、ひとりでに戸が開いた。


(この娘……。昨日、立札の前にいた……?)


 二人を出迎えたのは、一人の少女であった。

 松葉色の小袖に、黒鳶色の髪。大きな瞳も髪と同じ黒鳶色で、愛らしさが際立つ。花のかんばせに見覚えがあることも加えて、芦雪(ろせつ)は彼女から目が離せないでいた。

 少女もひどく驚いているようだった。しばし芦雪(ろせつ)と視線を交わしていたが、大きな瞳はなおも見開かれたままだ。

 ゆっくりと黒鳶色の水面が瞬く。少女は面布(かおぎぬ)の男に目を向けると、戸惑いを滲ませながらも口を開いた。


「……写楽様。本日はどうされたのですか?」

「ちょうど良かった。松乃、お前を探していた」

「私を……? なぜです?」


 松乃と呼ばれた少女は、己を指して問うた。親密な様子で名を呼び合うのを見るに、二人は知り合い以上の関係らしい。


「以前、流屋で住み込みの奉公人を探していると言っていたな」

「は、はい。ちょうどこれから、口入屋に依頼をしに行こうかと……」

「行かなくて良い。奉公人は見つかったからな」

「え?」

「長澤殿。今日からここが、貴殿の奉公先だ」

「へ?」


 松乃と芦雪(ろせつ)は、各々上擦った声をあげた。写楽の横暴とも取れる決定事項に、先に待ったをかけたのは松乃だ。


「ま、待ってください、あに……じゃなくて……写楽様。その……長澤様はお武家様とお見受けします。今回欲しい人手は用心棒ではなく流屋の店の手伝いですから、お侍様がうちで奉公というのは、流石にお受けしかねます……。それに、それは兄上がお決めになったのですか?」


「あ、俺の身分は気にしないでくれ。あってないような、その辺の下士だから」


 芦雪(ろせつ)は、あっけらかんと言ってのける。松乃はますます、戸惑いの色を濃くした。


「……藤仁(ふじひと)には私から伝えておく。彼なら了承するはずだ。長澤殿は身分の隔たりを気にしない変わった御仁だが、浪人でもない。身元もしっかりしている水仙の君だからな」


 写楽は憂えた息を落とし、身を縮こませる少女に言い聞かせた。


「このお方が……?」


 松乃の長いまつげがゆっくりと上向き、一対の眼が芦雪(ろせつ)をとらえる。黒鳶色の瞳は疑念と期待を滲ませながら、芦雪(ろせつ)のまなざしを受け止めていた。


(水仙の……君……? なんだ……?)


 芦雪(ろせつ)が口を開く前に、松乃は納得したようにうなずいた。


「……承知いたしました。では、善は急げと申しますので、すぐに長澤様のお部屋を用意いたします」

「あぁ。くれぐれも失礼のないように」

「存じております。()()()()()()ですもの」

「では、藤仁(ふじひと)を呼んでこよう。この時間は母屋にいるんだったな。二人は先に居間にでもいてくれ」


 芦雪(ろせつ)の中では、溶けぬ疑問の雪が降り積もっていくばかりだ。二人が一体何に納得しているのか、皆目見当もつかない。介入する間もなく、あれよあれよと決まっていく物事に目眩がする。

 そんな芦雪(ろせつ)に気づいていないのか、はたまた気づいていて放っているのか。写楽は颯爽と身を翻し、流屋の背後にある大きな屋敷──母屋へと姿を消した。


 松乃と二人、その場に残され、芦雪(ろせつ)は目眩に加えて頭痛を覚えた。口入屋の紹介を頼んだはずだが、どういうわけか直接奉公先に案内されてしまった。それも、かなり強引に。

 住み込みの働き口を探そうと考えていたがゆえに、示された話は渡りに船だったが、あまりに急すぎやしないか。未来の奉公先に向けて小さく嘆息を漏らしてしまうのも、いくらか許されるはずだ。


「あの……」


 遠慮がちに袖を引かれる。謝意を多分に含んだ目が、芦雪(ろせつ)を見上げていた。


「長澤様。不躾に申し訳ございません。写楽様はその……一度決めたら周囲が見えなくなるところがございまして……。決して、悪気があるわけではないのです。この奉公の件も、もし長澤様に不都合がございましたら、断って頂いて構いませんので……」


 松乃は困ったように眉尻を下げ、地面に膝をついて平伏しかねない勢いで(こうべ)を垂れた。


「へ!? あ、いや、とんでもない! 頭を上げてくれ。むしろありがたい話だよ。写楽殿には礼を言いたいぐらいさ」


 まごうことなき本心だった。ずいぶんと恵まれた話だ。

 ただ、慣れない唐突さに驚きが勝ってしまっただけのことである。松乃が頭を下げる必要など、どこにもありはしない。

 松乃の顔を無理矢理に上げさせると、彼女はぎこちなく微笑んだ。やはり、彼女は笑んでいた方が愛らしい。少女の笑顔につられ、芦雪(ろせつ)も固くなっていた表情を緩めた。


「申し遅れました。私は松乃と申します。ここ、流屋工房の棟梁・流琳也(ながれりんや)の娘です。若輩者ゆえ気が回らぬところも多く、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうかよろしくお願いいたします」


 松乃は再び深々と腰を折って名を名乗る。十五、六ほどの見た目の割に、ずいぶんと大人びた口調と雰囲気だ。立札の前で見たものと変わらない。

 それに妙な違和感とざわめきを覚えつつも、芦雪(ろせつ)は松乃の口から飛び出した「流琳也(ながれりんや)」の名に小さく声を漏らした。


(流屋の名に聞き覚えがあると思ったら、ここは琳也殿の工房だったのか。江戸の豪商から厚い支持を得ている絵師じゃないか)


 琳也は、遠く離れた京でも時折名を聞くほどの壮年の絵師だ。未だ若くも力のある弟子らを何人も抱え、また四季に根ざし情趣に通ず彼の草花図や花鳥図は、洒脱で優美さに富んでいる。彼に憧れて絵師を目指す者も多い。

 戦国の世から脈々と続き、また大陸から渡ってきた力強い筆致に重きを置く狩野派に対し、流派(ながれは)は新進気鋭さと泰平の世で育まれた穏やかさが先立つ。その開祖が構える工房で働けるとは。

 ますます運が良い。ここでなら、他の絵師の話も――ゆかりの噂も、耳に入る機会が多いやもしれない。

 最初こそ困惑していた状況だが、やはり幸先が良い。芦雪(ろせつ)は軽やかに言った。


「松乃殿、どうぞよろしく頼む。俺は長澤芦雪(ろせつ)。江戸には来たばかりで……あ、さっきも言ったが、身分は武士といえど、そのへんにいるような徒士(かち)だ。これからやっかいになる身だし、身分のことは気にせず気軽に接してくれ。名も芦雪(ろせつ)と呼んでもらって構わない」


 彼女の緊張をほぐすように、浮かべ慣れた人懐っこい笑みを向ける。

 芦雪(ろせつ)の思惑通り、朗らかな口調に毒気を抜かれたのか。肩を強ばらせていた松乃も、ようやく心からの頬笑を見せた。


「今すぐに、とはまいりませんが……。少しずつ、そうさせて頂きますね。改めてよろしくお願いいたします、芦雪(ろせつ)様」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ