第二筆「邂逅」(三)
地平に向けて、陽が身を隠しつつある。郷里より数刻ほど短い日足は夜の気配を引き連れ、家族の待つ家々へと江戸の人々を帰し始めていた。
芦雪は人波に逆らい、熱気に気圧されそうになりながらも天を見上げる。鶯は茜空にも負けぬ美しい紅色を軌跡に残し、飛翔し続けていた。慌て者なのか、そそっかしいのか。はたまた、持て余した暇に乗じて芦雪をからかっているのか。
どちらにせよ、取るべき行動は一つだ。芦雪はただ、頭上の軌跡を追いかけた。
宿から駆け続けて、四半刻〔30分〕は経っただろうか。喘鳴とともに、ぬめりけのある咳が数回、芦雪の胸を突き上げ始めた頃のことだった。
鶯の四魂は、忽然と姿を消してしまった。芦雪を導いた、紅の光さえも残さずに。
まるで、立札の前で見た少女のような消え方だ。よもや、あの不思議な少女も四魂だったのであれば笑えない冗談だ。芦雪は乾いた笑いを小さくこぼしながら、口内に広がる鉄の味に顔をしかめた。
「ここ……どこだ……」
汗で貼り付いた前髪を流し、周囲に視線を巡らせる。
白の漆喰壁に囲まれた道は、武家屋敷の区画であることを声高に告げている。壁の向こうには、大名やその家臣が居を構えているに違いない。商人の街である日本橋から、遠く離れた所まで来てしまったようだった。
来たばかりの江戸で、初日から迷子になろうとは。考え無しに走り出すからだと、頭の中で幸之介が嫌味を吐いている。
「あー、うるさいうるさい……」
郷里の幻聴を追い立てる。再び顔を上げた時、芦雪の目はあるものに縫いとめられた。
大仰な屋敷が立ち並ぶ場所にひっそりと建つ、ひとつの屋敷門。幅は二間〔3m〕ほどの控えめなもので、二本の本柱の上に切妻屋根が腰を下ろしている。武家屋敷の表門とは異なり、あまりに簡素だ。周囲から些か浮いているようにも思えたが、かえって均整の取れた風格を漂わせているようにも見え、好ましい。軒先に掲げられた庵の名も、威風堂々とした様子だった。
元々、庵の名も金の筆致で彩られていたのであろう。風や砂埃を受けたためか、ややくすんで見え、経てきた時の長さを感じさせる。
「……尋夢、庵……?」
尋夢庵。ありふれた夢が棲む庵。芦雪は確かめるように、綴られた名を音に乗せた。
(尋夢庵というと、確か……幸之介が言っていた、あの噂の……?)
江戸、深川には、怪画絵師が住まう庵がある――。大店商家らの間で行き交う噂のひとつだ。噂によると、その絵師は悩みを持つ者のために絵を描く変わり者なのだという。
──どうしても解決できない悩みがあるのなら、その庵を訪ねると良い。運が良ければ、怪画絵師・深川斎写楽が不思議な力を宿した絵を描いてくれるだろう。
そもそもなぜ、商人らにしか知られていない噂を幸之介が知っているのか。それは、彼の父方の家が京でも有数の商家だからだ。
芦雪と同じ下級武士である幸之介の身分は、元は商家である父方の家が、困窮に喘ぐ母方の御家人株を買ったことで得たものだ。つまり、幸之介は武家であると同時に、商人の血をも受け継いでいるのである。
武士らしくなく金回りや人とのやり取りを気遣う彼の性格は、御家の境遇ゆえだろう。
(そうだ……。ゆかり殿を探すなら、まずはこの尋夢庵を訪ねろと……。探す手間が省けたのは良いが、なぜか腑に落ちない……)
江戸に来てから、あまりに上手く事が進みすぎていないか。運が良いに越したことはないが、こうも幸先が良いと大きな禍を手招いているようで恐ろしくなる。
だが、これも神仏の導きによるものだろう。芦雪はひとり、うなずきを深くした。
芦雪は弘法大師にあやかった幼名「眞魚」を授かっている身でありながら、取り立てて神仏に信心深いわけではない。その名をつけた両親の方が、遥かに信仰心が厚かった。
都合の良い時だけ神仏の存在を信じるのは図々しいとも思われようが、ようは気の持ちようだ。芦雪は目の前に横たわる流れをしるべだと信じ、身を任せることにした。
「もし。尋夢庵の深川斎写楽殿はおられるか?」
返答はない。留守なのだろうか。再び声を投げるも、やはり反応は得られなかった。
(全てが俺に味方するはずもないか……)
ため息を落としたものの、芦雪はふと思い立ち、古ぼけた木戸に触れた。
乾いた音を立て、小さな隙間ができる。戸は施錠されていないようだった。
芦雪はもう一度、戸に指をかける。無礼千万だと理解しつつも、常では得がたい背徳感と好奇心に抗えず、慎重に引き戸を開けた。
(何だ、これは……? 木箱……?)
芦雪を出迎えたのは、庵へ続く一本道ではない。大きな木台に置かれた木箱だった。
木箱は両腕で抱えられる程度の大きさで、上部には投書を差し入れるための小さな口が設けられ、まるで目安箱のような形状をしている。箱の角には一輪の花菖蒲の絵が施されていた。
木箱のそばには漆塗りの文台が置かれ、細かな文字が綴られた短冊が身を横たえている。
一糸乱れぬ筆致で真っ直ぐに記された文字たちは、狭い短冊の中でもひどく流麗だ。芦雪は、文字の上に指先を乗せた。
「『尋夢庵に絵画制作を依頼される方へ』……か」
用意された短冊に依頼内容と名前のみ記入し、この依頼箱に投書するだけで、絵の依頼を仮に受け付けたことになるようだ。受けられる依頼に限り、二、三日後に写楽が依頼主を訪ねるものの、依頼を受けかねる場合は、文にて断りの文句をしたためるとあった。
つまるところ、誰にでも依頼を出すことはできるが、依頼を受ける受けないは写楽の気分次第ということだ。まるで富くじのようではないか。
すっかり拍子抜けしてしまい、芦雪の口内は途端に潤い始めた。
用意された矢立から筆を取り、筆先に墨をつける。芦雪は軽やかな筆使いで依頼内容を書きあげてしまうと、清水の舞台から飛び降りる心持ちで依頼箱に投書した。
これで写楽が訪ねて来なければ、手当たり次第に肌守りを見せながら、「この絵に見覚えはないか」と江戸中を聞いて回るほかあるまい。特定の蟻を見つけ出すような地道さと根気が必要になるが、仕方なかろう。
この日、芦雪は「あまり期待せずに知らせを待とう……」と尋夢庵を後にした。
しかし、思いのほかその知らせは早かった。投書した翌日の昼、来訪者が現れたのだ。
「長澤様。お客さまです」
「俺に? 誰だ?」
「深川の写楽と申しておりますが……」
「もう!?」
番頭に呼び出され、騒がしい音をたてながら階段を駆け降りる。旅籠の入口で芦雪を待ち構えていたのは、一人の男──深川斎写楽であった。
すらりとした躯体が芦雪の方を向き、丁寧に結い上げられた黒鳶色の髪が揺れる。彼の顏は額から鼻下まで白い面布で覆われており、表情までは窺い知れない。
予想外の姿に息を飲む。写楽は感情を表す唇をほのかに緩めた。
「貴殿が、長澤芦雪殿……?」
「あ、あぁ……、そうだ。なぜ、俺がここにいると?」
「……申し訳ありませんが、依頼以外の事柄にはお答えしかねます」
写楽は静かに告げ、再び口元を固く引き結んでしまった。必要以上にものを言わぬと決めている様は、あふれ出る何かを堪えているようにも見えた。昨日、尋夢庵で見た短冊の文字に人の形をまとわせたなら、きっと彼になるに違いない。
ほぼ思い描いていた通りの人物に、芦雪は胸を撫で下ろした。
「……では、参りましょうか」
写楽は手を差し出した。柳色の袖が揺れ、墨と季節外れの藤花の香りが鼻先を掠める。
出会ってすぐどこへ行こうと言うのだろう。芦雪はちいさく頭を傾げた。
「我が庵、尋夢庵へ。そこで詳しく貴殿の依頼を伺います。私はそのための迎えです」
写楽は、ひどく飾り気のない答えを述べた。




