第二筆「邂逅」(二)
結論から言うと、芦雪は冬の野宿を免れた。かよに、彼女の親戚が営んでいるという旅籠を紹介してもらえたのだ。
日本橋の北側に位置する小伝馬町に、それは居を構えていた。
小伝馬町は大小の旅籠がひしめき合い、様々な国からやってきた人間が行き交う町である。江戸の人々からは「通旅籠町」の名でも親しまれているのだと、かよは芦雪を案内しながら歌うように説明した。
目的の旅籠にたどり着くまでにも、木綿や繰綿問屋の呉服商が軒を連ねているのが見え、店先に並ぶものに芦雪の目は自然と吸い寄せられた。
風が吹くたび、店々の藍の日よけ暖簾が音をたてて煽られている。まるで太鼓のようだ。町の通りが狭い郷里では、決して見られない光景である。大通りが多くある江戸だからこそのものなのだろう。屋号が大きく染められたそれらは、江戸ならではの威光を放っているようにも思えた。
「遠路はるばる、ようこそおいでくださいました。長澤様」
旅籠の入口で柔和な笑みを浮かべ深々と頭を下げたのは、かよの親戚である番頭だ。
彼に通されたのは二階の八畳部屋だった。障子窓を透かして西日が差し込み、芦雪の視界は茜色に染まる。大きな肘掛け窓もあり、通りも一望できる良い部屋だった。
混雑時の旅籠は、たとえ武士であろうと相部屋が一般的だ。芦雪が決して多くはない荷を部屋の隅に置けば、「もっと広々と使ってくださいな」と、かよに笑われてしまった。
「だが……他にも客が入るだろう。この広さなら、あと二人ほどか?」
「いいえ。このお部屋は、長澤様のみのお部屋です」
彼女の返答に理解が及ばず、芦雪の口からは呆けた一音がこぼれた。
横で苦笑いを浮かべる番頭が耳打ちするに、かよは「長澤様に宛てがう部屋は一人部屋にするように」と、強引とも言える取り計らいを裏でおこなっていたようだった。騒ぎの中から助け出した一恩にしては、釣りが来る返しである。
江戸の民はかように義理堅いのか、と芦雪は驚嘆しながらも何やら腑に落ちず、料理茶屋へと帰って行く小さな背中をいつまでも見つめていた。
かよを見送ったあと、芦雪は旅装束を解き、着慣れた銀鼠の綿入れ小袖に袖を通す。かじかんだ指先を擦り合わせながら、番頭から借りた分厚いどてらで身を包み、背を丸めて畳の上に横になった。
どてらには一寸の隙間もなく真綿が入り、肌に心地良い温もりを与える。晩冬とはいえ、まだまだ冷え込む。芦雪の身体をやわく包む衣の感触は、旅の緊張で張り詰めていた心をも緩めていった。
(ずいぶん……幸先が良いな……)
「情けは人の為ならず」とはよく言ったものだ。人のためにかけた情けは、決してその人のためだけに留まらない。巡り巡って自分のためになる。
芦雪は数年前まで床に伏せがちな身であったことや、両親に過保護なまでに慈しまれて育ったこともあり、少々世間知らずである。その分、世間というものについて、幸之介から半ば脅しのようにあることないこと吹き込まれていたが、蓋を開けてみればどうだ。口うるさく教えこまれた事実よりも、存外に世は優しい。
人は自分の鏡なのだと、東海道の旅路で思い知った。優しさを注げば優しさが返ってくる。その逆も然りだ。
(この調子で……ゆかり殿との縁も繋がれば良いなぁ……)
窓から差し込む、やわらかな夕陽が瞼を撫でる。ひのきの香りに包まれながら、芦雪はまどろみに身をゆだねた。
乾いた羽音が耳孔を叩く。音のした方へ霞む眼を向けると、一羽の鳥と目が合った。
わずかに開いた障子窓の縁に留まり、それは愛らしく頭を傾げている。かの羽色は、先ほど料理茶屋で口にした菓子と同じ色をしていた。
「……鶯?」
春を告げるには幾分早い。先刻まで梅の木で羽を休めていたのか、淡い梅花の香りが鼻腔を掠める。梅に鶯とは、ずいぶんとあわてんぼうな取り合わせだ。芦雪は身を起こし、気の早い来訪者を見つめ返した。
「鶯くん。まだ春には早いぞ……。江戸に来るまで、春ももうすぐだと思っていた俺も人のことは言えないが……」
寝ぼけ眼を擦りながら、大きなあくびを落とす。肩からずり落ちたどてらを引き寄せ直していると、たしなめるようにひとつ、ふたつと羽音が響く。
「分かった、分かったって……。寝るにはまだ早いって言ってるのか……? それは春を告げに来た君も……」
――同じだろ。芦雪の唇は、意思に反して凍りついた。
「お前……四魂か……!?」
美しい若木の羽色には似つかわしくない、この世のものならざる光が胸元を彩っている。その意味を知らないはずはない。
(光の色は紅……。恐らく和魂だが、こいつは俺の四魂じゃない。ということは、この近くに俺以外の直霊の絵師がいる……)
冷水を浴びたように思考は冴え、やがて願望とも言えるひとつの答えを導き出した。
「まさか、お前はゆかり殿の……」
ありえない。芦雪自身がそれを一番理解している。
──数こそ少ないものの、直霊の絵師は私以外にもいます。……特に江戸には。
これまで固く閉ざされていたはずの記憶の蓋が、わずかに開いた。
江戸は日ノ本中の人間が最も集う場所だ。たとえ不可思議な力があろうとも、江戸であればその身を溶け込ませることもたやすい。将軍が座す茫々たる街で、どれほどの直霊の絵師が身を潜めて生きているのか。ゆかりの言葉通り、想像にかたくはない。
芦雪の答えを静かに待つ鶯は、その中の誰かの四魂なのやもしれない。けれど、ゆかりに縁のあるものをひとつ見ただけで、芦雪は冷静さを失ってしまう。五年という短くも長い歳月は、それほどまでに彼への憧憬と渇望を育て上げていた。
その時、鶯はたたらを踏む芦雪を置いて、窓から飛び去ってしまった。
「あっ! ちょ、待っ……うわっ!」
慌てて立ち上がろうとした矢先、どてらの長い裾に足を取られ、畳の上に身が沈む。受身を取り損ねたためか、鼻先にはひりついた痛みが滲んでいた。
「……っ、それどころじゃない……!」
どてらを脱ぎ捨てると同時に刀をたずさえ、芦雪は宿を飛び出した。




