第二筆「邂逅」(一)
「はい! おまちどおさまです」
溌剌とした笑みが弾ける。娘が揚々と差し出したのは、あられ蕎麦である。器から立ちのぼる湯気は、かつおだしと醤油を合わせた芳醇な香りをまとっていた。
蕎麦の上には海苔が敷かれ、青柳〔貝の一種〕の白き小柱がふんだんに散らされている。その様は、まさに雪あられのようだった。
この蕎麦に「あられ蕎麦」と命名した江戸っ子は、なんと粋なのだろう。芦雪は感嘆の息を漏らした。故郷ではまず目にかかることのない発想と食欲を刺激する匂いに、腹の虫はいよいよ声高に鳴き始める。
「これは美味そうだ。わざわざすまないな」
「いいえ、そんな! 助けて頂いたのですから、ご馳走するのは当然のことです」
娘は手にした盆を胸元に抱き寄せ、屈託なく笑みを深めた。
切った張ったの騒動が三つの背中とともに消えたあと、芦雪は助けた娘――名をかよといい、予想通り料理茶屋の一人娘であった――に「礼をさせてくれ」とすがりつかれた。
そもそも、浪人らが刀に手をかけた原因の半分は芦雪にある。もとより、この料理茶屋で昼餉にありつくべく月白の力を行使した。芦雪のいらぬお節介と勝手でおこなったことであった。
気にするなと、かよの申し出を丁重に断ろうとしたが、彼女は「どうしても礼をしなければ気が済まない」と言い募り、頑として引こうとしない。
――……では、君の店で何か飯をご馳走してくれ。これでどうだ?
郷里の弟に向けるまなざしと同じものを注げば、かよは何度も頷いた。
その結果が今というわけである。芦雪は賑わいを見せる店内の最奥席に案内され、目当ての蕎麦を振る舞ってもらうに落ち着いていた。
「蕎麦は江戸の名物と言うからな。遅めの昼餉にと、蕎麦にありつこうとした矢先に居合わせたんだ。あの時、おかよを助けたのは、武士として当たり前のことだよ」
「というとお侍さま、もしかして江戸の外から来られたのです?」
「そういえば、どことなく西のなまりが……」と彼女は宙を見据え、小首を傾げた。
遠く離れた地にいようと故郷の空気は未だ身に宿り、芦雪を見守っている。かよの疑問と指摘でそれをしみじみと実感し、芦雪は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「あぁ、そうだ。人探しのために京の都から。この蕎麦は江戸で初めてありつく飯だよ」
「まぁまぁ! それはありがたいことです。道中、大事ありませんでしたか? 近頃は箱根峠で野盗が出ると噂が立っておりますから……。でもお侍さまはお強いから、出くわしたとしても蹴散らしてしまわれたでしょうね」
「いや、俺は強くなんてないよ。居合は嗜む程度で……。騒動のあれは偶然だ。むしろ、先刻みたいに月白……四魂に助けてもらうことが多いくらいで……」
「しこん?」
かよは、再び頭を傾げた。
「……あ、いや……。なんでもない」
芦雪は「いただきます」と手を合わせると、会話の尾を濁すように箸を取った。
四魂。それすなわち、絵に宿った異形の魂のことを指す。先刻、芦雪が騒動に紛れて描いた胡蝶の絵、月白には、まさに彼の異形の魂が宿っていた。
四魂は冠する名の通り四種あるとされ、各々異なる性質を持って生まれ落ちるという。
親愛と守りの力をその身に宿す紅色の魂、和魂。
幸福と癒しの力を人々に捧げる黄金色の魂、幸魂。
勇猛と矛の力で人々を鼓舞する縹色の魂、荒魂。
知略と精神の力をもって知恵を授ける翡翠色の魂、奇魂。
絵を形代として世に顕現した異形らは、主たる絵師の願いと祈りを叶えるため、己の持てる異能を行使する。かの存在は、幼子の寝物語や御伽草子の世界で密やかに言い伝えられ、今も人々の中でかすかに息づいている。
(とはいえ、四魂は普通の人間には見えないもんなぁ……。やれ『幽霊が出た』だ、『不思議なことが起きた』と騒がれるたいがいの大元は四魂の仕業だし……。せっかく江戸に来たんだ、騒ぎの渦中になるのはいただけない。これまで通り、開けっ広げに四魂に頼らないように気をつけよう)
濃茶の水面に映った己と目が合う。芦雪は喉を震わせ、小さくなった蕎麦を飲み込んだ。
四魂を視認できる人間はごくわずかだ。芦雪のように四魂をこの世に顕現させ、己の手足として自在に操る異能の絵師──いわば、「直霊の絵師」のみ。
芦雪自身がそうであると自覚したのは、かれこれ五年前の話である。伊豆の三嶋大社でゆかりと出会い、別れを惜しみつつも帰郷した直後のことだった。
(あの時、ゆかり殿から何の気なしに聞いた四魂や直霊の絵師の存在が、まさか自分事になるとは思ってもみなかった。ゆかり殿が『私も直霊の絵師の一人です』と話していたのも、冗談だろうと話半分に聞いていたし……)
聞き手の意識の問題だったのか、彼と交わした四魂のことも、直霊の絵師についての知識も一部が抜け落ち、今では曖昧なものが頭の端にしがみついているだけだ。芦雪は己が有する力についてあまりに無知であった。
ゆかりの行方を追うのは、憧憬に手を伸ばすためだけでない。自身の力のためでもある。
今でこそ感覚で四魂を操れているとはいえ、不安定な部分も多い。二年の間にゆかりが見つからなければ、これまで通り自力で力に向き合っていくしかないだろう。
芦雪は、胸に巣食う不安をも嚥下するように器を持ち上げ、蕎麦のかけ汁を飲み込んだ。
江戸の味覚は濃いと聞いていたが、さほどその濃さは気にならなかった。むしろ、飲み干してしまいたいほどに舌上に馴染む。
口元から椀をおろし、盆に置く。小さな音は店内の賑わいの中に消えていき、やがてかよの喜色を誘った。
「お侍さまのご出身を聞いて納得です。物腰や仕草が、それは優美で洗練されてますから。お江戸の短気で荒っぽいお侍さまたちとは違うもの」
「君は口がうまいなぁ。おまけに、この通りの気立ての良さだ。店が繁盛するわけだな」
「ふふ。ありがとうございます!」
かよは空になった椀を盆ごと持ち上げ、麗らかな笑い声とともに厨房へ引っ込む。
つかの間、彼女は湯吞みと小皿の乗った盆を手に持ち、再び芦雪の前に姿を現した。
「これはおまけです。他の方には内緒ですよ」
温かい番茶とうぐいす餅が、そっと床几に置かれる。
小豆餡を包んだ白い餅の上には、春告鳥である鶯の羽色を模した青きなこが掛かり、もうすぐ訪れる春を思わせる。湯吞みから上がる素朴な香りが晩冬の空気にほどけ、鼻腔を抜けていく。芦雪は思わず息をこぼした。
蕎麦を馳走になったというのに、菓子まで口にして良いのだろうか。申し訳なさも感じるが、芦雪は大の甘党だ。目の前に好意で差し出された菓子があるのに、それを食わぬは男の――いや、甘党の恥である。
「かたじけない……」と再び手を合わせつつ、いそいそとうぐいす餅をつつきにかかった。
「ようこそ、華のお江戸へ。ここは食い倒れの街ですから、ぜひたくさん楽しんでいって下さいましね」
「ありがとう。そうするよ」
芦雪は茶を口内に招き入れると、温かくなった喉を滑らかに動かし、かよに問うた。
「時に看板娘のお嬢さん。この辺りで、安く泊まれる旅籠を知らないか?」




