第一筆「別離」(二)
(はー……。長かった……)
京を出てから半月が過ぎた。晩冬だというのに、芦雪の額には薄らと汗が滲んでいる。頬を撫でる冷気がひどく心地良かった。
二十三年という長くも短い人生の中で、芦雪はその大半を病床に伏して生きてきた。ここ数年は壮健さを取り戻していたが、体力がついたかと言われれば頷きがたい。
東海道の旅路においては、一日に歩く距離は十里が基本と言われているものの、芦雪にはせいぜい七里が限界であった。己の弱さを夜ごと嘆く日々だったが、それも今日で終わる。
「やっと……。やっと着いたぞ、江戸に……!」
汗を拭う銀鼠の袖が、風を含んではためく。開けた視界には江戸の出入口、日本橋が姿を現していた。
昼時を過ぎた昼八つ〔15時頃〕の時分でさえ、日本橋の往来は激しい。流石は五街道の始点である。
橋は人が横に七人ほど並んでも余裕があるほどに大きい。行商人を始めとして、野菜や魚の俸手振り、京から下ってきた酒を運ぶ男たちが行き交う。それに負けず劣らず、誇らしげに朱塗りの箱を持って闊歩する女髪結いもいて、その姿は実に様々だ。
目まぐるしい人の流れと繁華な風景は、郷里の屋敷で見た浮世絵そのものだった。
(『江戸は将軍様のお膝元』とは、よく言ったもんだ)
遠くに霞む雄大な富士の御山を横目に、芦雪は軽やかな足取りで橋を渡る。故郷もそれなりに賑わってはいたが、人の数も耳朶を叩く喧騒も、江戸とは比べるまでもない。
人々の熱気に当てられながら日本橋を渡りきると、通南の名で親しまれる目抜き通りに出迎えられる。
江戸で一、二を争うほどに賑わうこの通りには、時の流れに逆らうような活気が満々と広がっていた。
視線をあちらこちらにと忙しなく動かせば、瀬戸物、書物、畳表、砥石、呉服等の店々が両通りに所狭しと並んでいるのが窺える。
藍染めの暖簾はひらりと舞い、掲げられた屋号とともに客を手招きしている。男も女も関係なく発する、売った買ったの声が芦雪の耳奥を震わせた。
生活の営みが音の洪水となって波を寄せるが、不快感はない。五感が感じ取る全てのものが、光となって輝いていた。
(伊豆の三嶋大社に行った時でさえ、身体がもたなかったのになぁ。あの時は確か、途中で駕籠を使ったんだ。……今回はちゃんと、最後まで自分の足で来れた)
達成感が心の端に滲み、浮かべた笑みも深くなる。芦雪は、そっと胸元を撫でた。
慣れ親しんで久しい、木肌の感触が手を伝う。まるで、お前には俺がついていると語りかけているようにも思えた。
(きっと、ゆかり殿の肌守りが守ってくれたおかげだな……)
早くゆかりに会いたい。かつて、自身を死の淵から救い出してくれた、あの不思議な少年絵師に。今となっては、尊敬と憧憬のひととなった彼に。
探し人であるゆかりと出会ったのは、今から五年前のことである。当時十八だった芦雪よりも少し歳下の、まだあどけなさが残っているようにも見えた少年だった。歳月を経て、今は精悍な青年へと羽化しているはずだ。
──桜吹雪は魔を祓い、厄を落とす。この小さな桜図が私に代わり、魔に魅入られた貴方を守ってくれる。
月明かりの下、手を差し伸べてくれた少年の声が今でも確かに残っている。年月とともに彼の顔も朧気になりつつあったが、芦雪の憧れは強くなる一方だった。
あれはたった一度。今後の人生において二度と起こりえない、偶然で鮮烈な出会いだった。
病に苦しみ、神仏に祈ることしかできなかった芦雪と、そんな芦雪のために、祈るように絵を描いてくれた絵師。二人を結ぶのは、今となっては名前をつけるまでもない希薄な縁だけだったが、憧憬を育てるには十分だった。
(ゆかり殿に会えたら、何を話そう……? 肌守りをもらってから、不思議と身体が丈夫になったことと、貴方が憧れの人だということと、それから……それから……)
人探しは、江戸へ来た目的のひとつに過ぎない。それ以外に考えねばならないこと、やらねばならないことは多分にある。だというのに、江戸に着いたという事実が高揚感となり、焦がれてやまない人への想いを掻き立ててしようがなかった。
「おい、そこの兄ちゃん。邪魔だよ。どいたどいた」
「っ……、これは失礼……」
肩に何かがぶつかり、喧騒が耳孔をすり抜ける。芦雪はようやく我に返った。
民衆の頭が視界を埋めつくしている。漫然と歩いているうち、芦雪も群衆の一部になっていたらしい。
民衆は何かを取り囲み、一心にまなざしを注いでいる。一体、何が人々の視線を射止めているのだろう。好奇心に導かれ、芦雪は足先に力を込めた。
(あれは……立札……?)
立札は、御公儀が民衆にお触れを示すものである。芦雪からそれは遠く離れていて、木肌に綴られた内容を読み取ることはできない。何か新しい決まり事、もしくは重罪人の処刑でも行われるのだろうか。
江戸に着いて初めて見る立札が捨札であれば、なんと縁起の悪いことか。触らぬ神に祟りなしと言うし、内容の良し悪しに関わらず、早くこの場から離れたほうが良かろう。
そう考えていた矢先、隣に立つ男二人が色めきだった声をあげた。
「今年もまた、御用絵試が始まんのか」
「みたいだな。お前、今年は受けるのか? 金に困ってるそうじゃないか。参加に身分は問われないんだし、受けるだけ受けてみればいいんじゃないか?」
「馬鹿言うな。俺ァ江戸っ子、宵越しの銭は持たねぇ。そもそも御用絵試っつーのは、絵の腕に覚えがあるやつらが参加する祭りみてェなもんだろ? 金目当てで挑むなんて恥ずかしい真似、できるわけがねェや」
「まぁな。絵試を突破した人間は狩野派に加わって、奥絵師んなった暁に公方様にお仕えすることになる。だから、たいそうご立派な俸禄が約束されるわけで」
「そうさ。腕に覚えがなくとも絵試を受ける輩にゃ、恥や矜恃ってもんがないのかね」
「とはいえ。ほら、近所の京七郎が昨年受けてたじゃないか。あいつも金に困ってたのか、血迷ったのかは知らんが。絵の腕はからっきしだったのに、今じゃ天下の奥絵師様だ。人生、分からんもんだな」
「町民から一気に、旗本のお武家さんになるんだもんな。これぞ、泰平の世の成り上がりってか。単に、絵の腕前だけが評価されるわけじゃないのかもしれないねェ。そうならある意味、夢があって良いよなァ」
そう言った男のひとりは、夢を脳裏に浮かべたのだろう。彼は鼻下をこすりながら、目を閉じて口元を緩めていた。
けれど、夢想に耽る男を意地悪く現実に引き戻したのは、隣に佇むもう一人の男だ。
「いやいや。晴れて奥絵師になれたとしても、だ。どこの狩野派に属するかによって、出世云々の話が変わってくるぞ」
「あー。それ、あれだろ。本家の中橋狩野と、分家の木挽町狩野、鍛治橋狩野とぉ、それから……なんだっけ?」
「浜町狩野な。狩野派は全部で四家に分かれてる絵師集団ってやつ。こんなの、子どもでも知ってる常識だ。小さい頃、手習のお師匠さんに教えてもらったろ」
「悪かったな、常識がなくてよ。まァ確かに、いま公方様の寵愛が厚いのは木挽町狩野らしいから、そこに入れるなら出世も間違いねぇだろうが……」
それもそれで考えものだ、と二人は揃って唸り声をあげる。すると、片割れが何か思いついたように、ぱっと顔を上げた。
「それにしても、今回はずいぶん時期が早いな。今年の開催は春だと」
「そうだなぁ。狩野派の都合かね? 日々のお勤めが忙しくてずらしたとか?」
「どうだか。絵試自体は、御公儀と狩野派が共同で行うものだろ? 手が回ってないのなら、御公儀側がその分助けてやれば良いのに」
「うーん……。なら、時期をずらしての開催は、何か意味があんのか?」
「それがわかったら、誰もこの立札を見てないさね」
それもそうか、と白い息をまとって笑う男たちは、ひどく楽しげだった。
御用絵試。それは、芦雪が江戸に来た本当の目的の名だ。
夢見心地で浮わついていた思考は叩き落とされ、途端に温かみを失ってしまう。
(すぐに目の前のことに浮かれるのは、俺の悪い癖だな……)
長い前髪をかき上げ、芦雪はため息をついた。
半月前、不安げな表情で送り出してくれた母、そして十になったばかりの幼い弟の顔が脳裏をよぎる。同時に、父と交わした会話が耳奥で重々しく反響していた。
――眞魚。何があっても、弟がいようと、お前は私たちの……長澤家の大切な息子だ。だからこそ、お前には長澤家の跡を継いで欲しい。
――父上……。ですが私は……俺は、長澤家の当主にふさわしい人間では……。
――こたび、お前に与えた二年。思い残しのないよう、自由に過ごしなさい。持病のためとはいえ、お前には長年、外を出歩くこともままならぬ生活を強いてしまったから。かねてより望んでいた江戸行きを許したのもそのためだ。
――……っ、それは……!
――ただし。二年経ったら家に戻り、長澤家の跡を継ぐこと。これは当主命令だ。二度は言わん。
――父上……!
厳格ながらも、病弱な芦雪を慈しみ、可愛がって育ててくれた心優しい父。父には恩がある。彼の言うことに逆らえるはずもない。
本来、芦雪は長澤家の当主に値する人間ではない。虚弱な身体も理由のひとつだが、それ以前に跡継ぎたる資格がないのだ。
(御用絵試を突破して奥絵師の称号を拝命すれば、『将軍家のために一生絵を描く』という幕命を賜ったも同じ。父上も、俺を当主の座につかせることはできないはずだ)
奥絵師になれば当主にならずとも済む。自身よりもよほどその座にふさわしい、弟に与えてやれるのだ。
幸いにも、絵の心得は人並みにはある。先の男たちの噂によると、単純な絵の技量だけで判断されるわけではないようだった。つまり、芦雪にも可能性はあるということだ。
これまで絵試を突破した者たちの絵の傾向や特徴などを入念に下調べし、準備を怠らなければ、勝算もそれなりには上がろう。
しかし、独学でどこまで通用するのか。それも定かではない。
(ゆかり殿の行方さえわかれば、話は早いんだがな……)
芦雪は肌守りに今一度触れ、同じ空の下にいるであろう憧憬の絵師を思った。
(困ったことに、今年は開催時期が早まるみたいだし……。準備のことも考えると、今回受けるのは難しい……)
与えられた猶予のうち、絵試に挑戦できる機会は来年の一度きりになる。時間はあって無いようなものだ。今は取り急ぎ、雨風を凌げる場所を――活動の拠点となる宿を確保することが最優先だろう。
日本橋は旅籠が多いと聞くが、満室だと締め出されてはたまったものではない。流石に冬の野宿は避けたいところだ。
芦雪は立札から顔を背け、人混みからやっとの思いで抜け出した。人が密集していたせいか、先程まで感じていた熱が一気に失われる。
身体を震わせていると、何か見られている気配を感じた。反対側の道からだ。
(なんだ……?)
見知らぬ少女だった。遠巻きに芦雪を、というより立札の群衆を見つめている。
黒鳶色の艶やかな髪色に、松葉色の小袖が瑞々しく映えている。歳の頃は十五、六あたりだろうか。未だ幼さの残る顔立ちだが、年を重ねれば周囲にもてはやされるほどに美しく成長するであろうことは、容易に想像できた。
立札の群衆を見つめる瞳は、ずいぶんと大人びたように憂いを帯びている。外見と中身に妙な差異が見受けられ、芦雪は思わず小首を傾げた。
(まとう雰囲気もそうだが、あの娘御……どこかで会ったことがあったか……? なぜだろう、ひどく懐かしい気がする……)
故郷で暮らしていた頃から、芦雪が屋敷の外へ足を運ぶのは稀だった。そんな人間に江戸に知り合いがいるわけもない。だが、胸中を占める異様な懐古感は一体何なのか。
視線や言葉を交わしたいと本能が囁いている一方、不安や恐怖を訴える心が暴れ回っているような。心臓を火掻き棒でかき回されているようで、怖気と嘔気が湧き立った。
様子を探る視線に気づいたのか、少女はついに芦雪へと目を向けた。二対の瞳が向き合い、驚いたように大きく見開かれる。
その時、立札の群衆が散り散りになり、人の大河が二人の沈黙を裂いた。
「えっ、ちょっ……」
人波に揉まれ、芦雪はあっという間に流される。波間からやっとの事で顔を出し、再び少女を見やれば。
「いない……」
少女の姿は忽然と消えていた。まるで、白昼夢でも見たような気分だ。芦雪の中で暴れていた本能と心も、いつの間にかせめぎ合いをやめ、鳴りを潜めていた。
彼女は一体、何だったのだろう。一抹の不気味さを感じ、芦雪はその場で呆けてしまう。
盛大な腹の虫の音が沈黙を渡る。それが余計に侘しかった。
(まぁ、いいか。よく分からないものをここで考えてても仕方ない。とりあえず、先に宿を探さないと……)
「いや、その前に腹ごしらえか?」と腹をさすりつつ、芦雪は再び通りを歩き始めた。




