第七筆「切願」(四)
「芦雪……」
「うん? どうした?」
「君は毎日、どれだけ俺が無視しても……。飽きもせず、声をかけてくるだろう……?」
一瞬、視界が瞬く。
「それはっ、今言うことじゃ……」
「日向みたいに温かい、君の声に……。俺が、毎日……どれだけ救われているか……。君は……、知らないだろうな……」
藤仁は呆れたように、かすかに口端を引き上げた。
それはまるで。これまでずっと、襖の向こう側で芦雪を気にかけていたと言わんばかりのものだった。
「それは、どういう……」
問いは続かなかった。異形たちの攻防を眺める藤仁を見ていると、問うことも憚られてしまったのだ。先刻の言葉は、水月が作り出した幻だったのではないか、と。
四魂が争う音の他に、夢幻の秋夜を震わすものはない。藤仁はしばし場に倣って黙していたが、やがて口を開いた。
「君は……、あの絵に何の願いを込めた?」
「願い……?」
「あぁ……。四魂は、直霊の絵師の祈りと願いが具現化された存在だ……。他者への祈りには幸魂か和魂が、自己への願いには荒魂か奇魂が絵に宿る……」
目の前で柳の枝を振るう白鷺の四魂、柳雨は「何者にも侵されぬ力が欲しい」と藤仁が自身に願ったことで生まれた荒魂なのだという。一方で、結界で外界との繋がりを断絶する白萩の四魂、水月は「大切なひとを守りたい」と他者のために祈ったことで生まれた和魂であった。
「君が顕現させたのは奇魂……。奇魂は荒魂と同じく、絵師の自身への願いで生まれる……。とりわけ、奇魂は自身に精神的な変化を求めた時に宿るんだ……」
奇魂には、荒魂のような矛の力はない一方、絵師本人の精神に感応する力がある。
人に優しくなりたい。賢くありたい。何者にも惑わされぬ強い心が欲しい――。絵師が精神的な変化を己に願った時、奇魂は生まれる。早い話、奇魂は絵師が願う「理想の自分」になるよう精神に力を波及させ、操るのだ。ある種の洗脳に近い。
だが、奇魂として生を受けた常盤は、どういうわけか芦雪の精神に力を及ぼしておらず、他者である藤仁へとその力を波及させている。
それはなぜか。答えは藤仁が知っていた。
「強すぎる願いや欲は、四魂の本質を歪ませる。絵の器に収まらない願いは呪いとなり、他者へとその力を及ぼして暴走するんだ。……主である君から力を吸い取り、あそこまで肥大化してしまっては、四魂を生み出した君自身でも、もう制御できない」
──君は、あの絵に何を願った? 藤仁はもう一度、芦雪に問いかけた。
常盤に望んだことは、ただひとつだ。ささやかでありながら、身勝手な願い。
(まさか……。『藤仁が、俺だけのために笑ってくれたら』と願ったことが……?)
あれは、自身が変わるための願いではない。他者が変わることを望んだ欲望だった。常盤は奇魂としてそれを素直に受け止め、変容し、暴走に至ったのだ。
藤仁が笑わないのなら、その精神を操ってしまえば良いのだと。過去の記憶を掘り起こし、藤仁が頑なに笑わぬ理由や原因を、なかったことにしてしまえば良いと。
(俺は……なんてことを……)
四魂が行使する力は、主の祈りと願いに直結する。常盤は何も悪くない。無意識に、醜い願いを吐露した自身に怖気が立った。
――彼の手を握る資格など、今の己にありはしない。芦雪は、藤仁から手を離した。
「……暴走を止める方法は、二つしかない」
おぼつかない足取りで、藤仁が立ち上がった。
「二つ? 一つ目は?」
「……松乃の力がいる」
悪戯っ子のように笑んだ少女が脳裏をよぎった。なぜ、彼女の名が出てくるのか。理由はひとつしかなかろう。
「まさか……お松も直霊の絵師なのか!?」
「いや。松乃は絵師じゃない。あの子には他人の四魂に直接語りかけ、それを使役する力がある。少し……特殊な存在なんだ」
「それは……」
思わぬところで松乃の秘密を知ってしまい、芦雪は何を口にするべきか分からなかった。
絵師ではないのなら、彼女は一体何者だというのだろう。松乃と初めて出会った時に感じた、異様な懐古感と関係があるのか。そもそも、他人である自分が耳にして良かった事実なのだろうか。
芦雪は頭を振った。今は余計なことまで思考するべきではない。
松乃はここにはいない。とすると、一つ目の方法は難しい。ならばと、芦雪は尋ねた。
「二つ目は……?」
「……最も簡単な方法。四魂の本体を破壊することだ」
「四魂の本体?」
「あの四魂が抜け出した絵。今回はその画帳だ」
藤仁が指し示したのは、芦雪が手に持った画帳だった。彼の視線はかすかに伏せた瞼に遮られ、陰を含んでいた。
「じゃあ……!」
「だが本体を破壊すれば、直霊の絵師本人の精神や身体にも反動が来る。……君が、傷つくことになる」
藤仁は眉根を寄せ、大きく息を吐いた。
芦雪はようやく理解した。藤仁が迷いの滲む瞳で、二つ目の方法を告げた意味に。
彼はどこまでも不器用で、心優しい青年だ。芦雪の四魂に今も苦しめられているというのに、それを口にすらしない。
(そういうお前だからこそ、俺はお前を……)
こんなことで自覚するなんて。芦雪は言葉もなく画帳を開き、目を落とした。
探し当てた頁には、常盤が確かに息づいていた証しである、不自然な空白があった。
常盤は、ただ芦雪の願いを叶えるために生まれてきただけだ。なんの罪も咎も受ける必要はない。身をもって罪を贖うべきは、己だけであるはずなのに。
温もりの輪郭をなぞるように、芦雪は頁の表面を撫でる。
「……ごめんな」
我が子同然の者へ、懺悔の言葉を呟く。芦雪は頁にかけた手を、迷いなく引き下ろした。
紙が裂ける。繋がっていた縁が解けていく。命の途絶えゆく音が争いの音と混ざり合う。遠吠えはいつの間にか止まっていた。
静かに佇む白鷺の前で、異形は悶え苦しんでいた。澄んだ水面に身体を伏せ、肥大した手足で宙を掻いている。終わりに抗うように、大量のもやを噴出させていた。
(すまない……。もう、無駄に苦しませない。ひと思いに壊してやる……!)
画帳の頁が、三つ、四つと音をたてて裂けていく。水面に舞い落ち、わずかながらに波紋を生む紙片は、桜の花びらのようだった。粉々になった紙片は全て、凍てついた夜風にさらわれ、芦雪の手から離れていく。
常盤は原形を失い、やがて獣の唸り声とともに、もやとなって霧散した。
「……っ、あっ……ぐ……ぅ……!」
心臓を刺すような痛みがのしかかり、喉元が狭まる。肺から空気が消え、力の抜けた手からは音もなく画帳が滑り落ちた。
「芦雪……!」
「……いい……っ、触るな……! これは、罰なんだから……」
藤仁を傷つけてしまったことへの。四魂の願いを叶えてやれなかったことへの。醜い願いを生み出してしまったことへの咎なのだ。
瞼を閉じ、襲い来る嵐に身をゆだねる。早鐘を打つ鼓動が、耳鳴りのように頭の中を掻き回していく。
芦雪は肌守りを握りしめ、赦しの時が訪れるのを待つことしかできなかった。――否。赦されずとも構わないとさえ思った。
「芦雪……」
不安げな声。目を開けた先で、薄く露を宿した眼が芦雪を見つめていた。
「もう、大丈夫だ……」
芦雪は、弟を安心させるように笑みを浮かべた。
神仏も満足したのだろう。心臓を突き破りそうだった鼓動と痛みは、形を残すこともなく消え去っていた。
藤仁の四魂はいずれも消えており、夢幻の秋夜は麗らかな春の喧騒に変わっている。四魂たちが大立ち回りを繰り広げていたというのに、周囲は依然として明るい笑い声と表情に満たされ、誰も二人のことを気に留めていない。芦雪は胸を撫で下ろした。
不意に、目の前を通り過ぎようとする幼子と目が合う。彼女は不思議そうに芦雪に視線を返したあと、己の手を引く母親を見上げた。
「ねぇ、かかさま! ここだけ、お花の雪が積もってるみたい! きれいだねぇ」
「あら、本当ねぇ。……この桜の木だけ、せっかちさんなのかもしれないわね」
「せっかちさん!」
可愛らしい親子の会話に導かれ、芦雪は頭上を見上げた。
「……っは。俺のせいで、桜の花も台無しだな」
見上げた先には、今し方まで花見に興じていた桜の木が佇んでいる。四魂の乱闘に巻き込まれたせいか、花はそのほとんどを散らしていた。葉桜でもない木は若葉も少なく、ひどく殺風景だ。
「ごめんな、藤仁。……もう、帰ろうか」
花びらがひとつ、涙のように落ちていく。それを受け止め、芦雪は隣に立つ男を見た。
藤仁は何も言わなかった。芦雪の精一杯の笑みを目にしてようやく、「……そうだな」と、ただ小さくうなずいた。




