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天涯比隣 ~怪画絵師の祈り~【全年齢版】  作者: 百合紫陽
第二章「八重(やえ)」
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第七筆「切願」(四)


芦雪(ろせつ)……」

「うん? どうした?」

「君は毎日、どれだけ俺が無視しても……。飽きもせず、声をかけてくるだろう……?」


 一瞬、視界が瞬く。


「それはっ、今言うことじゃ……」

「日向みたいに温かい、君の声に……。俺が、毎日……どれだけ救われているか……。君は……、知らないだろうな……」


 藤仁は呆れたように、かすかに口端を引き上げた。

 それはまるで。これまでずっと、襖の向こう側で芦雪(ろせつ)を気にかけていたと言わんばかりのものだった。


「それは、どういう……」


 問いは続かなかった。異形たちの攻防を眺める藤仁を見ていると、問うことも憚られてしまったのだ。先刻の言葉は、水月が作り出した幻だったのではないか、と。

 四魂が争う音の他に、夢幻の秋夜を震わすものはない。藤仁はしばし場に倣って黙していたが、やがて口を開いた。


「君は……、あの絵に何の願いを込めた?」

「願い……?」

「あぁ……。四魂は、直霊(なおひ)の絵師の祈りと願いが具現化された存在だ……。他者への祈りには幸魂(さちみたま)和魂(にぎみたま)が、自己への願いには荒魂(あらみたま)奇魂(くしみたま)が絵に宿る……」


 目の前で柳の枝を振るう白鷺の四魂、柳雨(りゅうう)は「何者にも侵されぬ力が欲しい」と藤仁が自身に願ったことで生まれた荒魂(あらみたま)なのだという。一方で、結界で外界との繋がりを断絶する白萩の四魂、水月は「大切なひとを守りたい」と他者のために祈ったことで生まれた和魂(にぎみたま)であった。


「君が顕現させたのは奇魂(くしみたま)……。奇魂(くしみたま)荒魂(あらみたま)と同じく、絵師の自身への願いで生まれる……。とりわけ、奇魂(くしみたま)は自身に精神的な変化を求めた時に宿るんだ……」


 奇魂(くしみたま)には、荒魂(あらみたま)のような矛の力はない一方、絵師本人の精神に感応する力がある。

 人に優しくなりたい。賢くありたい。何者にも惑わされぬ強い心が欲しい――。絵師が精神的な変化を己に願った時、奇魂(くしみたま)は生まれる。早い話、奇魂(くしみたま)は絵師が願う「理想の自分」になるよう精神に力を波及させ、操るのだ。ある種の洗脳に近い。

 だが、奇魂(くしみたま)として生を受けた常盤(ときわ)は、どういうわけか芦雪(ろせつ)の精神に力を及ぼしておらず、他者である藤仁へとその力を波及させている。

 それはなぜか。答えは藤仁が知っていた。


「強すぎる願いや欲は、四魂の本質を歪ませる。絵の器に収まらない願いは呪いとなり、他者へとその力を及ぼして暴走するんだ。……(あるじ)である君から力を吸い取り、あそこまで肥大化してしまっては、四魂を生み出した君自身でも、もう制御できない」


 ──君は、あの絵に何を願った? 藤仁はもう一度、芦雪(ろせつ)に問いかけた。


 常盤(ときわ)に望んだことは、ただひとつだ。ささやかでありながら、身勝手な願い。


(まさか……。『藤仁が、俺だけのために笑ってくれたら』と願ったことが……?)


 あれは、自身が変わるための願いではない。他者(ふじひと)が変わることを望んだ欲望(のろい)だった。常盤(ときわ)奇魂(くしみたま)としてそれを素直に受け止め、変容し、暴走に至ったのだ。

 藤仁が笑わないのなら、その精神を操ってしまえば良いのだと。過去の記憶を掘り起こし、藤仁が頑なに笑わぬ理由や原因を、なかったことにしてしまえば良いと。


(俺は……なんてことを……)


 四魂が行使する力は、主の祈りと願いに直結する。常盤(ときわ)は何も悪くない。無意識に、醜い願いを吐露した自身に怖気が立った。


 ――彼の手を握る資格など、今の己にありはしない。芦雪(ろせつ)は、藤仁から手を離した。


「……暴走を止める方法は、二つしかない」


 おぼつかない足取りで、藤仁が立ち上がった。


「二つ? 一つ目は?」

「……松乃の力がいる」


 悪戯っ子のように笑んだ少女が脳裏をよぎった。なぜ、彼女の名が出てくるのか。理由はひとつしかなかろう。


「まさか……お松も直霊(なおひ)の絵師なのか!?」

「いや。松乃は絵師じゃない。あの子には他人の四魂に直接語りかけ、それを使役する力がある。少し……特殊な存在なんだ」

「それは……」


 思わぬところで松乃の秘密を知ってしまい、芦雪(ろせつ)は何を口にするべきか分からなかった。

 絵師ではないのなら、彼女は一体何者だというのだろう。松乃と初めて出会った時に感じた、異様な懐古感と関係があるのか。そもそも、他人である自分が耳にして良かった事実なのだろうか。

 芦雪(ろせつ)(かぶり)を振った。今は余計なことまで思考するべきではない。

 松乃はここにはいない。とすると、一つ目の方法は難しい。ならばと、芦雪(ろせつ)は尋ねた。


「二つ目は……?」

「……最も簡単な方法。四魂の本体を破壊することだ」

「四魂の本体?」

「あの四魂が抜け出した絵。今回はその画帳だ」


 藤仁が指し示したのは、芦雪(ろせつ)が手に持った画帳だった。彼の視線はかすかに伏せた瞼に遮られ、陰を含んでいた。


「じゃあ……!」

「だが本体を破壊すれば、直霊(なおひ)の絵師本人の精神や身体にも反動が来る。……君が、傷つくことになる」


 藤仁は眉根を寄せ、大きく息を吐いた。

 芦雪(ろせつ)はようやく理解した。藤仁が迷いの滲む瞳で、二つ目の方法を告げた意味に。

 彼はどこまでも不器用で、心優しい青年だ。芦雪(ろせつ)の四魂に今も苦しめられているというのに、それを口にすらしない。


(そういうお前だからこそ、俺はお前を……)


 こんなことで自覚するなんて。芦雪(ろせつ)は言葉もなく画帳を開き、目を落とした。

 探し当てた頁には、常盤(ときわ)が確かに息づいていた証しである、不自然な空白があった。

 常盤(ときわ)は、ただ芦雪(ろせつ)の願いを叶えるために生まれてきただけだ。なんの罪も咎も受ける必要はない。身をもって罪を贖うべきは、己だけであるはずなのに。

 温もりの輪郭をなぞるように、芦雪(ろせつ)は頁の表面を撫でる。


「……ごめんな」


 我が子同然の者へ、懺悔の言葉を呟く。芦雪(ろせつ)は頁にかけた手を、迷いなく引き下ろした。

 紙が裂ける。繋がっていた縁が解けていく。命の途絶えゆく音が争いの音と混ざり合う。遠吠えはいつの間にか止まっていた。

 静かに佇む白鷺の前で、異形は悶え苦しんでいた。澄んだ水面に身体を伏せ、肥大した手足で宙を掻いている。終わりに抗うように、大量のもやを噴出させていた。


(すまない……。もう、無駄に苦しませない。ひと思いに壊してやる……!)


 画帳の頁が、三つ、四つと音をたてて裂けていく。水面に舞い落ち、わずかながらに波紋を生む紙片は、桜の花びらのようだった。粉々になった紙片は全て、凍てついた夜風にさらわれ、芦雪(ろせつ)の手から離れていく。

 常盤(ときわ)は原形を失い、やがて獣の唸り声とともに、もやとなって霧散した。


「……っ、あっ……ぐ……ぅ……!」


 心臓を刺すような痛みがのしかかり、喉元が狭まる。肺から空気が消え、力の抜けた手からは音もなく画帳が滑り落ちた。


芦雪(ろせつ)……!」

「……いい……っ、触るな……! これは、罰なんだから……」


 藤仁を傷つけてしまったことへの。四魂の願いを叶えてやれなかったことへの。醜い願いを生み出してしまったことへの(とが)なのだ。

 瞼を閉じ、襲い来る嵐に身をゆだねる。早鐘を打つ鼓動が、耳鳴りのように頭の中を掻き回していく。

 芦雪(ろせつ)は肌守りを握りしめ、赦しの時が訪れるのを待つことしかできなかった。――否。赦されずとも構わないとさえ思った。


芦雪(ろせつ)……」


 不安げな声。目を開けた先で、薄く露を宿した眼が芦雪(ろせつ)を見つめていた。


「もう、大丈夫だ……」


 芦雪(ろせつ)は、弟を安心させるように笑みを浮かべた。

 神仏も満足したのだろう。心臓を突き破りそうだった鼓動と痛みは、形を残すこともなく消え去っていた。

 藤仁の四魂はいずれも消えており、夢幻の秋夜は麗らかな春の喧騒に変わっている。四魂たちが大立ち回りを繰り広げていたというのに、周囲は依然として明るい笑い声と表情に満たされ、誰も二人のことを気に留めていない。芦雪(ろせつ)は胸を撫で下ろした。

 不意に、目の前を通り過ぎようとする幼子と目が合う。彼女は不思議そうに芦雪(ろせつ)に視線を返したあと、己の手を引く母親を見上げた。


「ねぇ、かかさま! ここだけ、お花の雪が積もってるみたい! きれいだねぇ」

「あら、本当ねぇ。……この桜の木だけ、せっかちさんなのかもしれないわね」

「せっかちさん!」


 可愛らしい親子の会話に導かれ、芦雪(ろせつ)は頭上を見上げた。


「……っは。俺のせいで、桜の花も台無しだな」


 見上げた先には、今し方まで花見に興じていた桜の木が佇んでいる。四魂の乱闘に巻き込まれたせいか、花はそのほとんどを散らしていた。葉桜でもない木は若葉も少なく、ひどく殺風景だ。

「ごめんな、藤仁。……もう、帰ろうか」


 花びらがひとつ、涙のように落ちていく。それを受け止め、芦雪(ろせつ)は隣に立つ男を見た。

 藤仁は何も言わなかった。芦雪の精一杯の笑みを目にしてようやく、「……そうだな」と、ただ小さくうなずいた。

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