第七筆「切願」(三)
「芦雪……芦雪!」
「……! 俺は……今、何を……」
藤仁に肩を揺さぶられ、芦雪は我に返った。頭の中は常の静寂を取り戻している。
刹那の時の狭間で、己は一体何をしていたのだろう。つい今し方まで絵を描いていたはずだ。誰もが口元をほころばせるであろう、子犬の絵を。
(そこから俺は……どうした……?)
額に手を当て記憶に目を凝らすも、霞が晴れる気配はない。すがるものを探して視線を彷徨わせた時、藤仁の眼が芦雪をとらえた。
たったそれだけのことで、浮いた思考が地にとどまる。心の端がぬくもりを覚えたのも束の間、藤仁の背後に濃緑の影が忍び寄った。
「藤仁!」
咄嗟に藤仁の手を掴んで引き寄せようとしたが、それは彼の方が早かった。藤仁は芦雪を守るようにして肩を抱き、自らの片腕の中に閉じ込める。そのまま瞬時に振り返り、己が四魂の名を口にした。
「柳雨!」
緊迫した藤仁の声に従い、四魂は淡い縹色の光を羽織って、彼の胸元から飛び出す。濃緑の影を鞭打つ炸裂音が、芦雪の眼前で響いた。
細く、しなやかな肢体。長い黒檀のくちばしには雪のような白が映え、雪解けの景色を思い起こさせる。大きく翼を広げ、濃緑の影を威嚇する姿には覚えがあった。
(画室の前にいた……白鷺の、四魂……)
柳雨と呼ばれた白鷺は、胸元を縹の光輝で彩り、地面から柳の枝々を生やして影に突きつける。けれど、濃緑の影は怯むことなく、赤錆色のもやをまとわせて起き上がった。
(あれは……俺が顕現させた四魂……か……?)
もやの量が多く、姿は明確な形を成していなかったが、間違いない。赤錆の波間から覗く、短くもふっくらとした獣の手足は白き子犬のそれだった。
小さな身体は一面、赤錆色に覆われ、濃緑の濁った光を煌々と瞬かせている。愛らしさが先立つ姿は見る影もない。ただ異形のものとして、二人の前に悠然と立っていた。
藤仁は芦雪を解放し、袂から小さな短冊を取り出す。表面には白い萩の花と、水面に浮かぶ月の絵が描かれていた。
藤仁は自然な動作で絵に触れ、「水月」と名を呼ぶ。白萩の絵はやはり淡い紅色の光を瞬かせながら、絵中から蔓を顕現させた。
水月が蔓を一振りすると、周囲には白き花々が芽生える。それらは天に向かって手足を伸ばし、やがて空を覆っていく。
いつしか、芦雪らの足下は澄んだ水面で満たされ、薄紅の花雲も花見に興ずる人々の姿も消し去られている。闇に包まれた頭上では、小さな星々と白銀の月が姿を現し、芦雪らを見下ろしていた。
まるで、短冊に描かれた秋夜に招かれたような感覚。わずかに後ずさるが、砂利の感触が足裏を伝うことはない。冴えた水面が芦雪の姿を反射し、浩然と波紋を広げていた。
「ここ、は……」
「安心しろ。ここは水月の結界の中だ。水月が力を解かない限り、俺たちの姿が外界に映ることはない。何をしていようが、何者の目に留まることも、周囲の人間が四魂の影響を受けることもない」
藤仁は芦雪を背に隠し、子犬の四魂に目を向けた。
子犬は藤仁と目が合うや否や、大量のもやを表出させながら、狼にも似た遠吠えを弾き出した。地を這う低い鳴き声は夢幻の秋夜を軋ませ、空気を震わせる。耳朶を伝って脳を揺さぶられるような感覚が身体を這った。
「なんだ、これ……!?」
「っ……、これは奇魂の……! 柳雨、あいつを黙らせろ!」
藤仁は苦悶の宿る声で、白鷺に命ずる。白鷺――柳雨は、子犬を鞭打たんと地面から四方八方に柳の枝を生やして襲いかかるが、子犬は軽やかに身をかわし、じゃれつくように鳴き声をあげて笑っていた。柳の鋭い枝先が地面を穿っているというのに、それさえも愉快だと言いたげだ。
子犬の鳴き声は、いたいけな童の笑い声と女人の叫び声が反響し合うような、禍々しい音を奏でている。生みの親であるはずの芦雪でさえ力の余波を受け、嘔気が込み上げた。
(あんな、おどろおどろしいものを……俺は……!)
眼前に立つ青褐の背中が揺れる。芦雪は思わず手を伸ばし、藤仁の肩を抱いた。
彼の額には大粒の汗が滲み、薄い唇は荒い息を吐き出している。鳴き声が波打つたび、藤仁の目元には苦悶が宿り、瞼が伏せられる。生来の我慢強さがそうさせているのか、彼は奥歯を噛みしめるばかりで、呻き声ひとつ漏らさなかった。
この遠吠えのせいだ。俺がなんとかしなければ。芦雪は画帳を拾って駆け出した。
「っ! 芦雪っ、行くな!」
焦燥を含んだ声が袖を引く。だが、今の芦雪を止められる者はここにはいない。
あれは己が生み出したのだ。自身が為したことは、自身で片をつけなければならない。
腰に佩いた刀の柄に手を掛け、左脚に力を込める。濃緑の影が不意に振り返った瞬間、芦雪は白銀の光を勢いよく引き抜いた。
赤錆色のもやを宙に振り撒きながら、子犬の異形は悲鳴とともに地を転がる。芦雪は乱暴にその首根を掴むと、ずいと顔を寄せた。
「常盤。……絵の中に戻れ」
――藤仁を傷つけるために、四魂を生み落としたわけじゃない。ただ笑って欲しくて。なのに、どうして。
懇願にも似た主の命を、異形と化した四魂が受け取ることは最早ない。常盤はただ身をよじり、もがいていた。
「とき……」
名が途切れる。常盤は身に羽織るもやを瞬時に濃くし、芦雪の手に噛みついた。
「……っ!」
その一瞬の隙を逃すはずがない。常盤は拘束から抜け出すと、嘲笑うように再び遠吠えを発した。
声の輪郭が衝撃波のように波打ち、頭の中を掻き回す。そのたび、身体の中から何かが吸い取られていく。芦雪は刀を地面に突き立て、揺れる視界を収めようとするも、あまりの目眩に立っていられない。
膝が地面をついた時、下向く視界に濃緑の四肢が入り込んだ。芦雪が力なく顔を上げるも、そこに小さな異形の姿はなかった。芦雪の身体よりふた回りも大きな濃緑の獣が、芦雪の顔を覗き込んでいた。
喉から空気が消える。見たこともない巨大な怪物に、ただ呆然とする。
常磐だったものは音を立てて口を開き、黒々とした口腔を芦雪に向けた。
(あぁ……。喰われる……)
浅ましい欲への咎なのだと思った。芦雪は、その場にへたりこむことしかできない。
「ごめんな、藤仁……」
届いているかも分からぬ謝罪を、小さく口にする。京に残した家族も、志半ばで絶えてしまうであろう未来にも、不思議と未練はない。身に訪れる終焉を、ただ静かに待った。
「本当に、君が萎らしいと俺の調子が悪くなるな」
鞭打つ炸裂音が、力強く響き渡った。鳥の羽音が落ちると同時に、異形の身体はいとも簡単に吹き飛ばされ、遠く水面をさざめかせている。
「ふじ、ひと……」
「怪我……ないか……?」
濃緑の闇に埋まっていた視界は、見慣れた青褐の背に染め変えられる。高く結い上げられた黒鳶色の髪尾がたおやかに揺れ、美しい頬の輪郭が現れる。唇は安堵したようにやや緩んでいたが、それがこぼす息は荒く、速い。
芦雪が手を伸ばそうとするよりも前に、藤仁は地に膝をつき、その場に崩れ落ちた。
「藤仁! 大丈夫か!?」
「……問題、ない……」
「問題ないわけないだろ!? こんな時までお前は……!」
藤仁を抱え起こせば、彼は芦雪の肩口に顔を埋めた。
あやすように広い背中を撫でてやると、藤仁も芦雪の背に手を回し、指先に力を込める。
「……あの、遠吠えには……精神に感応、して……過去の、記憶を……引きずり出す力が、ある……。君は……」
「俺は大丈夫だ……。少し力が抜けてたけど、今はもう……。お前と、お前の四魂が守ってくれたからだよ、きっと」
藤仁から身を離し、彼の額に滲む汗を手拭いで拭う。藤仁は柳眉を震わせていたが、はやる呼吸は幾分落ち着いたようだった。
芦雪は手拭いを持った手を膝上に落とし、やわらかな布地に爪を立てた。
「今すぐあの四魂を絵の中に戻したいのに、命じても言うことを聞かない……。このままじゃ、お前が……」
「芦雪」
強く握りしめている手を、藤仁が力なく包む。温かいとは言いがたい、体温の低い手。
「藤仁……?」
「大丈夫だから……。そんな顔を、しないでくれ……」
黒鳶の双眸が、潤んだ光を宿して芦雪を見つめている。
「芦雪……。俺の手を……握っていてくれないか……」
「手?」
「君に触れていると、少し……頭痛が和らぐんだ……」
普段からは考えられぬほどの弱々しい声音に、喉が小さく上下した。
藤仁が言うに、子犬の四魂――常盤は、精神や過去の記憶に作用する奇魂としての力を揮っている。藤仁は過去の思い出したくもない記憶をも掘り返され、それに苛まれているのではないだろうか。
(……俺のせいだ)
込み上げる罪悪感で心は掻き乱され、おかしくなってしまいそうだった。
――せめて、藤仁の望みを叶えてやれることがあるのなら。
藤仁がささやかに願った通りに、彼の手を握る。数瞬の間があり、やがて無骨な手は芦雪の手を強く握り返した。




