第七筆「切願」(二)
二人は各々、桜の木々や花びら、地に天に花見客に、と視線を預け変えながら作業をこなす。しばし場を満たしていた沈黙は、音の外れた鼻歌によって均されていった。
朱塗りの仁王門、花見に興ずる人々の表情、地面に敷かれた花筵。芦雪は心のままに、軽やかな筆致で画帳の紙面を彩る。
(これでよし……と。うーん……。ここはもう少し、画面を近くに寄せて描いた方が良いだろうか。桜の花のほころび具合がどうにも表現しづらい。藤仁に聞いてみるか……)
桜の枝葉や花を描き終えたところで顔を上げ、隣の横顔を見る。そこには真摯に画帳と向き合う姿があり、声をかけるのも気が引けた。
(それにしても……。本当、作り物みたいだよなぁ……)
何をしても絵になる男とは、藤仁のことを言うのだろう。芦雪の素直な感想は周囲も同様に持っていたようで、彼は今も、年若い娘らからずいぶんと熱心な視線を浴びていた。
藤仁の成す集中は、どのような場においても外界と自身とを遮断してしまうらしい。娘たちの色めきだった密やかな声にすら、気付いていないようだった。
「あの……」
ほら来た。内心ため息が出る。芦雪は画帳を閉じると、愛想の良い笑みを浮かべて立ち上がった。
「おや。可愛らしい娘さんたち。どうかされましたか?」
「か、かわ!? ぇ、えと……そ、その……」
「可愛らしいだって! 大丈夫そうだよ。ほら、早く早く」
「頑張って……!」
芦雪の目の前には、三人のうら若き乙女が佇んでいた。花見のために仕立てたであろう上等な花衣が、彼女らの柔肌をより瑞々しく、溌剌とさせている。
友二人に挟まれた娘は振袖の袖口を握りしめ、頬をほんのり紅に染めて口ごもっていた。
「俺に何か用かな? それとも……後ろの俺の連れに用かい?」
「あっ、その……! は、はい……」
娘はますます顔を上気させ、縮こまってしまった。
歳の頃は松乃と同じか、それより少し上か。ちょうど、年上の男に憧れを持つ時期であろう。彼女も例に漏れず、藤仁の持つ怜悧な雰囲気と、誰もが目を引かれる美しい容貌に魅入られたようだった。
「い、一緒にお茶でもどうでしょうか……? 良ければ、あ、貴方もご一緒に……!」
「俺も誘ってくれるの? 可愛いうえに優しいね」
「か、や、やさ……!?」
「でも、ごめんな」
芦雪は少女の目線に合わせて腰を落とし、唇に人差し指をあてがった。
「あいつ、今逢い引き中なんだ。……俺とな」
「他の人には内緒だぞ?」とやわく眦を垂らす。刹那の静けさが場を包んだ後、三人の娘たちはようやく言葉の意味を咀嚼したらしい。彼女らの頬は、みるみる紅潮していく。
「あいつや俺にはもったいないお誘いだ。わざわざ声をかけてくれてありがとう」
後腐れのないよう笑みを深め、芦雪は当たり障りなく礼を述べた。
断られたというのに、三対の大きな瞳は惚けた様子でしばし芦雪を見上げていた。
三度、乙女の白い瞼が瞬く。頬に朱を差したまま互いに顔を見合わせると、少女たちは何度もうなずきながら背を向けて去っていった。
(……やれやれ。このやり取りも何回目だ?)
少なくとも、片手で足りぬほどには断りの文句を述べたはずだ。芦雪は長い前髪をかき上げ、黙々と絵を描く背後の男を見やった。
郷里にいた頃から、幼馴染と歩くたび遭遇したやり取りである。芦雪ではなく、隣に佇む幸之介が声をかけられ、その断り方も下手と言わざるを得ず、結果、場が乱れる。ゆえに芦雪が幸之介に代わって理由をつけては断り、場を収めてきた。今では慣れたものだ。
(断る理由は、結局これが一番なんだよな)
幸之介の時もそうだった。二人がそういう関係なのだと明示するのが最も手っ取り早いのだ。と言いつつも、この嘘と冗談を交えた文句は、断りと同時に態よく幼馴染をからかえたゆえ都合が良かった、というのもあるが。
藤仁を男色扱いするのは気が引けたが、結局はこの断り方が一番楽だ。なにより相手の娘も傷つけない。
芦雪は藤仁のもとまで舞い戻り、彼の隣に腰を落ち着けた。
(おーおー。俺が代わりに娘たちの誘いを断ってやってるってのに、聞こえもしてない。何度見てもどこから見ても、お綺麗な顔立ちのままだ)
内心それが腹立たしくもあり、また藤仁に声をかけてくる娘らにも嫌気がさす。これでは、ただの八つ当たりだ。
――全部、藤仁のせいだ。筆を指先で弄びながら、芦雪は画帳を開いた。
(あの娘たちは知らないだろうな。藤仁の不機嫌に満ちた表情が、どんなに冷たいか。案じるまなざしが、どれほど痛々しく哀しみにあふれているか。……羞恥に染まった膚が、どれほど美しいか)
墨に濡れた筆先が、過去の面影をなぞっては紙上に軌跡を残していく。描き上げたばかりの桜花のそばには、ひとつ、ふたつと藤仁の姿が現れる。これまで目にしてきた様々な表情を一望し、芦雪は密やかに笑う。
(でも……。藤仁が俺に笑いかけた顔だけは、ずっと知らないままだ……)
たとえ、藤仁の心の機微を理解していたとしても。最も欲しい顔だけは知らない。
初めはただ、藤仁が感情に振り回される様を見たかっただけだ。単純な好奇心だった。目論見通りとまではいかないが、今日も藤仁の新たな一面が垣間見え、心が躍った。本来ならそれで満足するべきなのだろう。だが、ひとつ手に入ると次が欲しくなる。
(今日だけでいい。俺だけのために笑いかけてくれたら……。そしたら、俺は……)
この胸中に巣食う哀思も、焦燥も、不安さえも。彼のほころぶような笑みさえ見られるなら、きっと何もかも薄れる。一体、どうすれば藤仁は笑ってくれるだろう。
春風が頬を撫でる。花宴に湧く人々の笑い声が、遠く耳奥に響いていた。
ふと、過去が月明かりに照らされる。藤仁と互いに名を呼ぶようになった夜、藤仁は芦雪が描いた子犬の四魂を目にし、触れ合い、かすかに笑んでいなかったか。
芦雪は画帳の頁を手繰り、何かに取り憑かれるようにして子犬の絵を描き始めた。
優しく弧を描くふくよかな足に、ころころと今にも転がってしまいそうな丸い身体。見る者全てのまなざしが慈愛に満ちる、愛らしいひとつの真白き命。
(この絵を見れば、きっと……。藤仁も笑ってくれる……)
仕上げに小さな尾を描き、筆先を離す。思った通りの出来栄えだ。きっと、これなら。
「……? このもや……」
子犬を縁取る墨の縁から、赤錆色のもやが煙のように表出している。子犬の胸元は見知った光に輝き、淡い翡翠色を宿して瞬いていた。
翡翠色の光輝は、墨色やもやの赤錆色と混じり合い、しだいに彩りを失っていく。子犬の魂はいつしか、闇に近い濃緑に変貌していた。
――良い出来じゃないか、眞魚。この奇魂の力さえあれば、お前の望みは叶うぞ?
聞き覚えのある声が囁く。目の前の出来事に心から悦ぶ、艶の滲む男の声。
懐古が胸中を占める一方、嘔気を促す嫌悪感も同時に掻き立てられる。誰、と問うこともできぬまま、芦雪は男の声に耳を傾けていた。
――さぁ、眞魚。私の魄の器よ。この四魂の名を唱えて顕現させてやれ。この子は、お前の願いを叶えるために生まれたのだから。
闇に閉ざされた思考が、薄明かりに照らされる。霞が晴れ、不鮮明だった男の顔が露わになる。春夜に浮かぶ、歪んだ繊月。それは三度、形を変え、翡翠の魂に刻まれた音を紡ぎ、芦雪の心臓を強く打った。
「……芦雪? どうした?」
藤仁はいつしか画帳から顔を上げ、微動だにしない芦雪を見つめている。怪訝そうに名を呼ぶ声は朧気で、芦雪の凪いだ脳裏をさざめかせた。それが、今はひどく不快だった。
藤仁の呼びかけには応えないまま、芦雪は子犬の絵に触れる。
「……常盤。俺の願いを……」
――叶えて。命が形を成す前に、怒号にも似た声が遮った。
「芦雪っ! その四魂を顕現させるな! 画帳から手を離せ!!」
乱暴に画帳が取り上げられたが、子犬の姿は既にない。藤仁の制止は意味を失っていた。
――ふん。眞魚の願いを叶えて何が悪い。……藤仁はまた、こうやって私たちの邪魔をするんだな。ひと月前もそうだった。この子は一体、何が気に入らないんだろうな?
男はくつくつと喉を鳴らす。芦雪の頭に何かが触れ、やわく撫でる。満足げな吐息が耳朶を食んだあと、男は一切の気配を消してしまった。




