第七筆「切願」(一)
「なぁ、もう食べないのか?」
「腹がいっぱいなんだ」
「相変わらず食が細いなぁ。そんなんじゃ肉が付かないぞ?」
「そっくりそのままお返しする」
芦雪が花見弁当に舌鼓を打つ中、藤仁は早々に食べ終わり、画帳に筆を走らせていた。
彼は芦雪に画帳の表紙を向けているため、何を描いているのかは不明だ。時折、桜の木や枝、宙を舞う花びらに視線を渡らせていることから、桜の写生をしているのだろう。
(俺も、そろそろ写生に取りかからないとな)
だが、弁当を掻き込むような無粋な真似はしたくない。いま手にしている弁当は、藤仁や松乃が今日のために作ったものだ。大切に味わうのが食す者の努めである。
芦雪はそう思い直し、悠然と箸先を動かした。
舞う花びらをぼんやり眺めていると、薄紅の隙間から男のまなざしが現れる。
「なんだ、俺の顔をじっと見て。……もしかして、何かついてる?」
言葉なく、それは何かを語っている。芦雪は自身の口元に触れたが、藤仁は小さく息をこぼしただけで、粛々と画帳に向き直った。
(俺の顔……、ため息をつくほどに残念な顔か!?)
確かに、藤仁に比べれば芦雪の見目は物足りなさを覚えるであろう。
娘たちの色めきだった声が脳裏に響く。郷里にて幸之介とともに受けたものだ。その大半は幸之介に向けられたものだったが。
苦い記憶がよみがえり、芦雪は顔をしかめた。
(もらった恋文の数も、幸之介の方が多かったもんなぁ……。ひとの想いに数をつけるなんて、無粋だけどさ)
芦雪は神仏に見限られている。藤仁らのように品の良い容貌を与えられず、ひいては皆が当然のように享受している健やかな身体さえ、授かることができなかった。
二重の瞼や厚いまつげは、淡墨の瞳と幼さを強調させ、陽の光に恵まれなかった白い肌は病弱さを肯定されているようで、未だ好きになれない。
芦雪を芦雪たらしめる容貌は普遍から逸脱している。それが時折、くすぶる不安を煽る。
麗らかな陽光が桜雲を透かし、芦雪の髪を照らす。冬を含んだ淡墨に彩はなく、春を深める今には不要だと言わんばかりだった。
――己が何者にも必要ない存在であることなど、とうに知っている。だと言うのに、周囲の優しさと向けられる慈愛に甘えて、今ものうのうと息をしている。
(……だから俺は、江戸に来たんだろう)
掌中に力を込める。隅に残った最後のかすてら玉子を口の中に放り、せり上がった暗鬱ごと飲み込んだ。
「ごちそうさま! いやー、美味かったなぁ」
芦雪は膨れた腹を大げさに撫で、努めて明るく述べた。
「おかげで腹がいっぱいだ。このまま桜の木の下でうたた寝してしまいそうだよ」
「写生しに来たんじゃなかったのか」
藤仁は画帳から目を離すことなく、淡々と返した。筆の動きによどみはない。流麗とも言える動作に、芦雪の肩は自然と跳ねた。
もし、流れるような彼の動きを止めたなら。彼に、どのような表情を向けられるのか。 疑問は純粋な好奇心となり、理性をそそのかす。芦雪は藤仁の隣に座り直し、身を寄せた。
「なぁなぁ。藤仁は今、どんな絵を描いてるんだ? お手本として見せてくれよ」
「嫌だ」
「どうして? 恥ずかしがることないだろ」
「恥ずかしがってない」
「じゃあ見せて。な?」
「断る」
距離を詰めれば詰めた分、藤仁は座ったまま距離を取る。言うまでもなく、画帳は彼の手の内に吸いつき、離れる気配はない。
芦雪は意地悪く口端を引き上げると、じりじりと這い寄る。藤仁も同じだけ後ずさるが、桜の幹が逃げる背を受け止めた。
しめた。芦雪は、覆いかぶさらんばかりの体勢で標的を追い詰めた。
「そう言わず。今日のお前は、俺だけのお師匠様だろ? 見せてよ、藤仁せんせ?」
上目遣いにねだってみるが、藤仁の眉間には見慣れた皺が刻まれている。構わず彼の掌中に手を伸ばせば、逞しくも長い腕は青褐の袖をともなって逃げていった。
「……こら。やめなさい」
藤仁は弟妹にかけるものと同じ物言いをしながら、眼前の悪童をたしなめる。それでも、じゃれ合うような奪い合いは続いた。
やわらかな春のまなざしを受け止めながら、藤仁と戯れを交わす。今の芦雪には、それが最上の幸福のようにも思えた。
「やりぃ! 取った!」
隙をついて、ついに画帳を手にした。芦雪は、これ見よがしに画帳を掲げ持ってみせる。
「……っ、返せ」
「やだね!」
男の眉間は陰を濃くするばかりである。それが愉快でたまらない。
「ふふ。取れるもんなら……」
――取ってみろ。その言は続かなかった。
手首を強く掴まれる。抵抗しようと身をひねるうちに均衡を崩し、芦雪は背を強かに地に打ちつけた。
「痛たた……背中打った……。おい、藤仁。いきなり掴むなよ……」
痛みに耐え、瞼を押し上げれば。整った男の顔が視界に満ちた。
鼻先が擦れ合うほどに顔が近い。耳をすませずとも互いの吐息が聞こえてくる。倒れた弾みに髪紐が緩んだのか、艶のしたたる藤仁の髪は流れ落ち、芦雪の頬をやわく撫でた。
拘束性のない檻に包まれ、ほのかにたつ藤の香に酔いしれそうになる。
「藤……仁……」
掠れた声で名を呼ぶ。それ以外に、何を口にすれば良いのか分からなかった。
藤仁は一瞬、唇を震わせたように見えたが、すぐに身を起こした。
触れそうで触れ合わなかった温もりが消え失せる。それを寂しいと、刹那でも思ってしまったのはなぜだろう。
着物に着いた土埃を払い、藤仁は画帳と髪紐を拾い上げる。背を向けて髪を結い直す姿は、後朝の朝のそれのようにも見え、背徳感が背をなぞった。
何を馬鹿なことを。芦雪もようよう身を起こすと、自身の乱れた衿元を整え始めた。
「……芦雪」
低い声音に名を呼ばれる。声の主はやはり背を向けたまま立っていて、芦雪を見ようともしない。
「絵は……、また今度見せる」
藤仁は呟くように述べた。声には情が宿り、平生のものとは似ても似つかない。男の首筋には一筋の朱が差し、髪間から覗く耳端はわずかに熟れて見えた。
(藤仁のやつ、まさか照れてる……?)
薄く口を開き、藤仁の背を見つめる。耳を刺す沈黙に、彼はようやく振り返った。
唇は固く結ばれたままだったが、視線を交わす目元は色めいている。藤仁は再び、気まずいと言いたげに目をそらした。
(あの藤仁が! 照れている!)
感情表現に乏しい藤仁が、明瞭に己が心を示している。意図的ではないものの、芦雪が引き起こした行為によって。
これを喜ばずしてどうする。芦雪の唇は、みるみる含みのある弧を描いていった。
「……写生。しないのなら帰るぞ」
「えっ、うそうそうそ! これからちゃんと描くってば! そんなに拗ねるなよ。な?」
芦雪は慌てて重箱を手早く片付け、愛用の矢立から筆を取り出して見せた。
藤仁はただ、芦雪を見下ろしている。もう一押しか。おまけで締まりのない笑みを向けてやると、彼は大きなため息をついた。どうやら、軍配は芦雪に上がったようだ。
藤仁の吐息が静かに春の陽に溶け、そよぐ風にさらわれていく。やがて二つの肩が並び、嗅ぎ慣れた墨の香りが一寸の間を結んでいった。




