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天涯比隣 ~怪画絵師の祈り~【全年齢版】  作者: 百合紫陽
第二章「八重(やえ)」
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第七筆「切願」(一)


「なぁ、もう食べないのか?」

「腹がいっぱいなんだ」

「相変わらず食が細いなぁ。そんなんじゃ肉が付かないぞ?」

「そっくりそのままお返しする」


 芦雪(ろせつ)が花見弁当に舌鼓を打つ中、藤仁は早々に食べ終わり、画帳に筆を走らせていた。

 彼は芦雪(ろせつ)に画帳の表紙を向けているため、何を描いているのかは不明だ。時折、桜の木や枝、宙を舞う花びらに視線を渡らせていることから、桜の写生をしているのだろう。


(俺も、そろそろ写生に取りかからないとな)


 だが、弁当を掻き込むような無粋な真似はしたくない。いま手にしている弁当は、藤仁や松乃が今日のために作ったものだ。大切に味わうのが食す者の努めである。

 芦雪(ろせつ)はそう思い直し、悠然と箸先を動かした。

 舞う花びらをぼんやり眺めていると、薄紅の隙間から男のまなざしが現れる。


「なんだ、俺の顔をじっと見て。……もしかして、何かついてる?」


 言葉なく、それは何かを語っている。芦雪(ろせつ)は自身の口元に触れたが、藤仁は小さく息をこぼしただけで、粛々と画帳に向き直った。


(俺の顔……、ため息をつくほどに残念な顔か!?)


 確かに、藤仁に比べれば芦雪(ろせつ)の見目は物足りなさを覚えるであろう。

 娘たちの色めきだった声が脳裏に響く。郷里にて幸之介とともに受けたものだ。その大半は幸之介に向けられたものだったが。

 苦い記憶がよみがえり、芦雪(ろせつ)は顔をしかめた。


(もらった恋文の数も、幸之介の方が多かったもんなぁ……。ひとの想いに数をつけるなんて、無粋だけどさ)


 芦雪(ろせつ)は神仏に見限られている。藤仁らのように品の良い容貌を与えられず、ひいては皆が当然のように享受している健やかな身体さえ、授かることができなかった。

 二重の瞼や厚いまつげは、淡墨(うすずみ)の瞳と幼さを強調させ、陽の光に恵まれなかった白い肌は病弱さを肯定されているようで、未だ好きになれない。

 芦雪(ろせつ)芦雪(ろせつ)たらしめる容貌は普遍から逸脱している。それが時折、くすぶる不安を煽る。

 麗らかな陽光が桜雲を透かし、芦雪(ろせつ)の髪を照らす。冬を含んだ(うす)(ずみ)に彩はなく、春を深める今には不要だと言わんばかりだった。


 ――己が何者にも必要ない存在であることなど、とうに知っている。だと言うのに、周囲の優しさと向けられる慈愛に甘えて、今ものうのうと息をしている。


(……だから俺は、江戸に来たんだろう)


 掌中に力を込める。隅に残った最後のかすてら玉子を口の中に放り、せり上がった暗鬱ごと飲み込んだ。


「ごちそうさま! いやー、美味かったなぁ」


 芦雪(ろせつ)は膨れた腹を大げさに撫で、努めて明るく述べた。


「おかげで腹がいっぱいだ。このまま桜の木の下でうたた寝してしまいそうだよ」

「写生しに来たんじゃなかったのか」


 藤仁は画帳から目を離すことなく、淡々と返した。筆の動きによどみはない。流麗とも言える動作に、芦雪(ろせつ)の肩は自然と跳ねた。

 もし、流れるような彼の動きを止めたなら。彼に、どのような表情を向けられるのか。 疑問は純粋な好奇心となり、理性をそそのかす。芦雪(ろせつ)は藤仁の隣に座り直し、身を寄せた。


「なぁなぁ。藤仁は今、どんな絵を描いてるんだ? お手本として見せてくれよ」

「嫌だ」

「どうして? 恥ずかしがることないだろ」

「恥ずかしがってない」

「じゃあ見せて。な?」

「断る」


 距離を詰めれば詰めた分、藤仁は座ったまま距離を取る。言うまでもなく、画帳は彼の手の内に吸いつき、離れる気配はない。

  芦雪(ろせつ)は意地悪く口端を引き上げると、じりじりと這い寄る。藤仁も同じだけ後ずさるが、桜の幹が逃げる背を受け止めた。

 しめた。芦雪(ろせつ)は、覆いかぶさらんばかりの体勢で標的を追い詰めた。


「そう言わず。今日のお前は、俺だけのお師匠様だろ? 見せてよ、藤仁せんせ?」


 上目遣いにねだってみるが、藤仁の眉間には見慣れた皺が刻まれている。構わず彼の掌中に手を伸ばせば、逞しくも長い腕は青褐(あおかち)の袖をともなって逃げていった。


「……こら。やめなさい」


 藤仁は弟妹にかけるものと同じ物言いをしながら、眼前の悪童をたしなめる。それでも、じゃれ合うような奪い合いは続いた。

 やわらかな春のまなざしを受け止めながら、藤仁と戯れを交わす。今の芦雪(ろせつ)には、それが最上の幸福のようにも思えた。


「やりぃ! 取った!」


 隙をついて、ついに画帳を手にした。芦雪(ろせつ)は、これ見よがしに画帳を掲げ持ってみせる。


「……っ、返せ」

「やだね!」


 男の眉間は陰を濃くするばかりである。それが愉快でたまらない。


「ふふ。取れるもんなら……」


 ――取ってみろ。その(げん)は続かなかった。

 手首を強く掴まれる。抵抗しようと身をひねるうちに均衡を崩し、芦雪(ろせつ)は背を強かに地に打ちつけた。


「痛たた……背中打った……。おい、藤仁。いきなり掴むなよ……」


 痛みに耐え、瞼を押し上げれば。整った男の顔が視界に満ちた。

 鼻先が擦れ合うほどに顔が近い。耳をすませずとも互いの吐息が聞こえてくる。倒れた弾みに髪紐が緩んだのか、艶のしたたる藤仁の髪は流れ落ち、芦雪(ろせつ)の頬をやわく撫でた。

 拘束性のない檻に包まれ、ほのかにたつ藤の(こう)に酔いしれそうになる。


「藤……仁……」


 掠れた声で名を呼ぶ。それ以外に、何を口にすれば良いのか分からなかった。

 藤仁は一瞬、唇を震わせたように見えたが、すぐに身を起こした。

 触れそうで触れ合わなかった温もりが消え失せる。それを寂しいと、刹那でも思ってしまったのはなぜだろう。

 着物に着いた土埃を払い、藤仁は画帳と髪紐を拾い上げる。背を向けて髪を結い直す姿は、後朝(きぬぎぬ)の朝のそれのようにも見え、背徳感が背をなぞった。

 何を馬鹿なことを。芦雪(ろせつ)もようよう身を起こすと、自身の乱れた衿元を整え始めた。


「……芦雪(ろせつ)


 低い声音に名を呼ばれる。声の主はやはり背を向けたまま立っていて、芦雪(ろせつ)を見ようともしない。


「絵は……、また今度見せる」


 藤仁は呟くように述べた。声には情が宿り、平生のものとは似ても似つかない。男の首筋には一筋の朱が差し、髪間から覗く耳端はわずかに熟れて見えた。


(藤仁のやつ、まさか照れてる……?)


 薄く口を開き、藤仁の背を見つめる。耳を刺す沈黙に、彼はようやく振り返った。

 唇は固く結ばれたままだったが、視線を交わす目元は色めいている。藤仁は再び、気まずいと言いたげに目をそらした。


(あの藤仁が! 照れている!)


 感情表現に乏しい藤仁が、明瞭に(おの)が心を示している。意図的ではないものの、芦雪(ろせつ)が引き起こした行為によって。

 これを喜ばずしてどうする。芦雪(ろせつ)の唇は、みるみる含みのある弧を描いていった。


「……写生。しないのなら帰るぞ」

「えっ、うそうそうそ! これからちゃんと描くってば! そんなに拗ねるなよ。な?」


 芦雪(ろせつ)は慌てて重箱を手早く片付け、愛用の矢立から筆を取り出して見せた。

 藤仁はただ、芦雪(ろせつ)を見下ろしている。もう一押しか。おまけで締まりのない笑みを向けてやると、彼は大きなため息をついた。どうやら、軍配は芦雪(ろせつ)に上がったようだ。


 藤仁の吐息が静かに春の陽に溶け、そよぐ風にさらわれていく。やがて二つの肩が並び、嗅ぎ慣れた墨の香りが一寸の間を結んでいった。


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