第六筆「合縁」(四)
門が落とす大きな影を抜けていく。麗らかな光と桜雲が視界を埋め、芦雪は賛嘆の息を漏らした。
桜の群生が広大な緑地を覆っている。敷地の奥には愛宕神社の社殿が腰を据えていた。佇まいに宿る寂れは満開の桜によって取り払われ、幾分明るく見える。祀られた神々も花宴を楽しんでいることだろう。
くぐったばかりの仁王門の横には物見台の東屋が建ち、人々で賑わっている。その前には小さな茶屋があり、花見弁当を売る掛け声が遠く響いていた。
東屋に並ぶ床几に腰掛け、眼下の景色と桜の共演を眺める者もいる一方、気に入った桜の下で敷物を広げ、弁当に舌鼓を打つ者もいる。花見の楽しみ方は皆それぞれのようだ。
「藤仁。あの桜の木にしよう。あそこなら人も少なそうだ」
芦雪が指し示したのは、社殿の近くに根を張る大きな桜の木だ。運が良いことに誰にも占拠されておらず、行楽客の喧噪からも離れている。
藤仁は素直にうなずいたが、芦雪に掴まれた手首はやや強ばっていた。
「あ、わ、悪い……!」
芦雪は慌てて手を離し、ほど良い距離を改めて刻み直してから、桜の下へ足を運んだ。
緩やかな風が頬を撫でる。薄紅の花びらがいくつも宙を舞い、風花のように幻想的だ。
手を差し出すと、一片の春の雪が儚い軌跡を描いて降り立った。
「これはまた見事だなぁ……。愛宕山は毎年こうなのか?」
「あぁ……」
隣に立つ藤仁も、芦雪と同じように桜の木を見上げていた。
横顔なぞ、とうに見飽きているはずなのに。花弁がなぞる整った輪郭から、芦雪はなぜか目が離せなかった。春の薄紅が、彼の冷淡な美しさに温度を与えているせいだろうか。
「綺麗だな……」
――桜の下に佇む、お前の姿が。
紡ぎかけた言を慌てて飲み込んだ。
(なんだ今のは……。これじゃ口説き文句じゃないか。藤仁は男だぞ)
自然と口をついて出そうになったそれに、芦雪は混乱を極めていた。
「……そうだな」
芦雪の思考をなだめるように、男の声が応える。
視線の先に桜はない。ただ真っ直ぐに芦雪を見据え、彼は唇を緩めていた。
花弁を孕んだ春風が強まり、音が遠のく。ひくり、と芦雪の喉が上下した時、藤仁は芦雪から重箱を取り上げた。
「飯にするんだろう。早く広げよう」
「あ、あぁ……。そうだな」
意識が揺らいでいると悟られぬよう、芦雪は持参した敷物を慌てて地面に広げた。
「……君。今日はどうした?」
「何が?」
「いつもより静かだから。体調でも悪いのか?」
「それ、俺がいつもうるさいってこと?」
「違うのか?」
ややからかい染みた、やわさを含んだ声が耳端をなぞる。
今日は散々だ。藤仁が見せるほんの小さな変化に、芦雪の調子は驚くほどに狂っている。
――全部、お前のせいだ。
そう言いたいのをどうにか堪え、芦雪は「違いますー」とおどけながら返した。
敷物を広げ終え、二人はようやく腰を落ち着けた。力が抜けたせいか、脚には疲労が舞い戻る。できることなら、この場で大の字になりたい気分だった。
藤仁は顔色を変えることもなく、重箱の包みをほどいていく。現れた漆塗りの地を前に、芦雪は咄嗟に男の手を掴んだ。
「俺が開けても良い?」
「それは構わないが……」
「ふふ、やった!」
「何がそんなに楽しいんだ」
「楽しいだろう! 俺は花見の中でも、弁当を開ける瞬間がいっとう好きなんだ」
「……花より団子なんだな、君は」
「うるさいな。ほっとけ」
間断なく軽口を交わしつつ、芦雪は三段から成る重箱を一つ一つ下ろしていった。
「これはまた……」
重箱に詰まった色彩に目を奪われる。結ばれかけた言葉は、あっという間にほどけた。
早竹の子の旨煮に、かすてら玉子の黄色。かまぼこの紅白、早わらびの緑。花見にあやかったであろう桜鯛の刺身の薄紅に、若鮎の色付け焼き。帯に赤唐辛子を巻いた干大根、つくしと嫁菜のひたし物。春の彩りに富んだ並びは、弁当だということを忘れてしまいそうなほどに美しい。旬の食材も余すことなく贅沢に使われ、胃の腑がやわく刺激される。
一介の町人や下士では到底口にすることも、ましてや弁当にする機会などない高級な食材たちが芦雪を見上げており、目が回りそうだ。
流石は日本橋の豪商、流屋の筆頭絵師である。絵屋の威光が花見仕様の弁当にさえも映し出され、つくづく良い奉公先に恵まれたと、芦雪は感じ入ってしまった。
(食材もそうだけど、それよりも……。すごく、丁寧に作られてる……)
やや端が焦げているものもあったが、凝視しなければ気づかない程度だ。眠たげに目を擦っていた藤仁を思い出し、芦雪は微笑んだ。
「……ずいぶん、彩り豊かな弁当だな。食べるのがもったいない」
「大げさだ」
「本当のことだ。何よりこの弁当は……」
――私が言ったってこと、兄上には内緒ですよ。
少女の声がよみがえる。芦雪は、こぼれかけた言を咳払いでかき消した。
「……そう。この弁当は、お松が作ってくれたんだから。大切に頂かないとだろう」
「……」
「なんだよ?」
「別に」
安堵したようで、拗ねているような。藤仁は何とも形容しがたい表情を浮かべていた。
藤仁と出会って、ひと月と半月。感覚的にではあるものの、芦雪は彼の心の機微が少しばかり分かるようになった。だが、その意味までは未だ掴めないでいる。
いずれ、藤仁の真意にも気付けるようになるだろうか。
――そうであればいい。芦雪はそっと息を吐き、三段目の蓋を開けた。
重箱の三段目には、握り飯たちが理路整然と並んでいた。海苔で丁寧に巻かれたものもあれば、表面を焼いて味噌を塗ったものもあり、米の香ばしいかおりが鼻腔をくすぐる。
おかずと同様に味の種類に富んでおり、食欲をそそる姿であることに間違いないが、芦雪の関心は握り飯の形に引き寄せられていた。
俵型と三角を混ぜたような、やや歪な輪郭。手馴れていない者が握ったようにも見える立ち姿には、覚えがある。
(この握り飯……。流屋に来たばかりの頃、枕元に置かれていた……)
芦雪の身を案じる書き置き。柳行李に並べられた二つの握り飯。
炊きたての白米を乗せた手が脳裏に浮かぶ。空気に溶けゆく湯気を内に閉じ込め、慎重に形を与えていく手は、いつしか少女のものから無骨な男のものへと変わっていた。
(……藤仁のやつ。不器用すぎだろう)
芦雪は重箱の蓋を持ったまま、何も口にできなかった。形にすると、ようやく見えた藤仁の優しさが儚く消えてしまいそうで。それは、あまりにもったいない。
「……どうかしたのか?」
「ふふ。いや、なんでも」
「変なやつだな、君は」
藤仁の皮肉めいた嘆息は、花弁とともに地面に落ちていく。藤仁の素顔を垣間見た今、それすらも可愛らしいと思えてしまう。
「そう言うお前は良いやつだよ、藤仁」
芦雪は歪な握り飯を手に取り、口端をもたげた。




