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天涯比隣 ~怪画絵師の祈り~【全年齢版】  作者: 百合紫陽
第一章「生々(せいせい)」
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第一筆「別離」(一)


 吐いた息が、白く染まる。芦雪(ろせつ)は鼻先を赤くしたまま、ついと視線を上げた。


 朝日を受けて薄黄に輝く山々。連綿と続く峰上は、遠く彼方まで澄み渡っている。闇に陽が近づくたび、その淡いは若紫に、(とき)色にと染め変えられ、まるで瑞々しい柘榴(ざくろ)のようだ。

 大きく息を吸い込む。胃の腑を撫でるような、冴えた空気が心地良い。

 冷たい息がゆっくりと体内を巡っていく。芦雪(ろせつ)は目を細め、ほのかに口端を引き上げた。


(春はまだ遠い、か)


 水仙の香りがひとつ、ふたつと寒さを包み始めた今日この頃。寒の明けもそろそろだと思っていたが、少々気が急いていたようだ。

 足は霜を割って凜冽とした音をたたせ、描いた春を追い返した。


「おっかしいなぁ……」


 見立て違いに苦笑がこぼれる。ため息は凍てつき、芦雪(ろせつ)の視界を狭めた。

 これから長旅が始まるというのに。やはり、現実は思う通りにいかないものだ。


「何がおかしいんだ?」


 耳慣れた声が背後で響く。芦雪(ろせつ)は髪尾を揺らし、ゆっくりと振り向いた。

 一人の青年が立っている。その眉間には山峰(やまお)のような皺が寄り、薄い唇は小さく嘆息を漏らす。それでも、目元から垢抜けた印象が崩れることはない。

 彼が町娘にもてはやされるのもうなずける話だと、芦雪(ろせつ)は素直に感心した。


「別に何も。幸之介(ゆきのすけ)こそ、どうして不機嫌そうなんだ? あ、俺と離れるのが寂しい?」

「なんでそうなる」

「そうだと嬉しいなーって」


 男は目を眇めた。どうやら彼──幸之介(ゆきのすけ)の答えは否のようだ。あまりにつれない見送りである。

 幸之介のしかめ面は常だ。特に、幼馴染の芦雪(ろせつ)には顕著だった。見飽きたとすら思うのも、彼とはそれほどの年月を重ねてきたという裏付けに他ならない。

 けれど、この表情と顔を合わせるのも、今日で最後になるやもしれない。そう自覚した途端、美しかったはずの明けの空が、ずいぶんと物寂しく見えた。


 ──夜明けはいつだって、別れの気配を連れてくる。新しい出会いの気配もまた。

 芦雪(ろせつ)は、やわく目尻を緩めた。


「まぁいいや。お前が不機嫌なのは今に始まったことじゃないもんな。わざわざ三条大橋まで送ってくれてるだけでも、ありがたいことだよ」

「……なんだ。お前が素直に礼を言うなんて気持ち悪いな」

「そりゃあ、俺だって礼ぐらい言うさ。朝早くから付き合わせてるわけだし」

「ふん。お前の無茶に付き合うのも、それに振り回されるのもしばらくなくなるんだ。今日ぐらい別に構わん。おかげで清々しい朝を迎えられて、逆に礼を言いたいぐらいだ」


 幸之介は、やれやれと肩を竦めて続けた。


「お前のお母上やお父上が心配して、俺にここまで見送らせたのも分からんでもない。なんせ初めての一人旅だろ? 屋敷に引きこもりがちなお前が江戸までさ」

「何を言う。ここ五年は屋敷から出てるぞ!」

「俺のお供付きでな」


 芦雪(ろせつ)をよく知る男は、流れるように言い募った。


「いいか? 東海道の旅は危険なんだ。世間もろくに知らない、この世は義と人情で成り立っていると信じて疑わないお前みたいな武家の坊ちゃんなんか、その辺の賊にとっては良い獲物(かも)なんだからな」

「お前が言うほど、俺は育ちがいいわけでも、由緒正しい家柄なわけでもないけどな」

「うるさい。口答えするな」

「はいはい。してない、してない」


 両手を挙げておどければ、冴えた容貌が歪む。幸之介が感情を表出させる様は、いつ見ても気分が良い。


(……っは。怒ってる怒ってる。やっぱり幸之介はこうでないとな!)


 からかい甲斐のある男だ。説教を受けている身だというのに、自然と喜びがあふれる。

 幸之介の眉間に指を伸ばし、戯れに触れる。やはり彼は口端を歪め、芦雪(ろせつ)の手を払った。


「……とにかく! 道中はくれぐれも用心しろ。身の危険を感じたら、その腰の飾りをすぐ使え。いいな」


 彼の視線の先──芦雪(ろせつ)の左腰には、無銘の二本差しが据わっている。

 それらは芦雪(ろせつ)の身分を声高に宣言しているが、幸之介の言葉通り飾りに等しい。腰に当たる感触は、安堵ではなく違和感をもたらしていた。


「分かってる……。分かってるよ、大丈夫だ」


 芦雪(ろせつ)は苦笑とともにうなずいたが、舌先は鉛を引いたように重たかった。

 中身を伴わぬ返答だと理解したのか、幸之介は身体中の空気を全て吐き出してしまいそうな勢いで、息を放った。


「もー、そんな顔するなよ。本当に大丈夫だ。これでも一応、田宮流居合は修めたわけだしさ。変な輩が現れても応戦できる!」

「……その細っこくて、なまっ白い腕で?」

「悪かったな、貧弱そうな身体で」

「誰も悪いとは言ってない。事実を言ったまでだ」


 幸之介は皮肉を込めて刺々しく言うと、腕を組んで目を背けてしまった。


(相変わらず口は悪いけど、幸之介なりに心配してくれてるんだろうなぁ……)


 家族も相当に心配症だが、幸之介も大概だ。同年とはいえ、これまで兄弟同然に育ち、ずっとそばで芦雪(ろせつ)を見守ってきたからだろう。過保護になるのも仕方がないように思えた。


 だが、誰にどれほど心配されようが、引き留められようが、芦雪(ろせつ)の江戸行きは決定してしまったことだ。今さら覆すつもりもない。


 残された時間はたったの二年。一陣の風が吹き抜けるかのような。花弁が地に舞い落ちるまでのような、瞬きほどの歳月。芦雪(ろせつ)芦雪(ろせつ)のまま息ができる時間は、無常なまでに短い。

 その二年で、必ずや江戸で目的を果たす。それが、何も持たぬ芦雪(ろせつ)に与えられた唯一の選択であり、千載一遇の好機だった。


 ──だからどうか。これきりの別れの餞で良い。お前だけでも、「仕方がないな」と呆れたように笑って。それだけで、きっと俺は俺のまま江戸へ行ける。


 瞼を伏せる。音もなく、本音を隠すように。

 瞬きほどの沈黙を経て目を開く。眼前には、やはりふてくされたままの男がいる。

 芦雪(ろせつ)は、にひ、と口端を引き上げると、男に肩をぶつけた。


「なんだよ。痛いな」

「ふふ。幸之介」

「あ?」

「……いいや。呼んでみただけだ」

「用もないのに呼ぶな」


 乱暴に頭を撫で回され、芦雪(ろせつ)は声をあげて笑う。他愛もないやり取りさえ、今は名残惜しく思えた。


「……眞魚(まお)。くれぐれも無理はするなよ。お前は身体が丈夫じゃないんだから。薬入れの印籠(いんろう)は持ったのか? ほら、あの三椏(みつまた)の花の……」

「持ってるよ。子どもじゃないんだ、大丈夫だって!」

「お前なぁ……」

「本当に大丈夫だよ。自分のことだ。身体のことはよくわかってるし、無理はしない。……それに何度も言うが、俺の名は今日から芦雪(ろせつ)だ。幼名はいい加減忘れてくれ」

「良いじゃないか。お前の弱っちい身体を大事に守ってくれてた名なんだ。それにあやかって何が悪い。逆に、俺が今でも幼名で呼んでやってることに感謝して欲しいくらいだ」

「へぇ、それは初耳だ。どうもありがとさん」


 芦雪(ろせつ)は、ずい、と幸之介に顔を寄せた。


「けど、今日から心配には及ばない。なんと言っても、俺にはこの肌守りがあるからな!」


 胸元に提げた紐の先には、小さな木札がくくりつけられている。

 幾分早い春の風景が小指ほどの画面を彩る。薄紅色の蕾を一つ、二つとほころばせた花々が、見る者すべてに(わら)いかけていた。

 一瞬の春を謳歌し、次の季節を迎え入れんと花を散らす儚い絵に、何を祈ったのか。その真意は、この絵を描いた者のみぞ知ることだ。

 芦雪(ろせつ)は肌守りに触れ、遠き過去に想いを馳せた。


「……ふん。ま、江戸で見つかるといいな。その絵を描いてくれたっていう、ゆかり殿に」


 幸之介は口元を緩めて言った。彼の微笑は、不器用ながらに芦雪(ろせつ)への親愛を雄弁なほどに語っている。

 めずらしい、とからかうのも野暮に思えて。芦雪(ろせつ)は、へらっと調子の良い笑みを返した。


「引き留めて悪かったな。時間もないし、そろそろ行け」

「あぁ。……じゃあな。幸之介も達者で」

「……っ、眞魚(まお)!」


 無骨な手が、離別を含んだ手首を掴む。幸之介の真剣な眼と視線が交わった。

 山間から覗く淡い光を反射して、墨色の水面はかすかに輝いている。両親と同じ不安の色と歯がゆいと言わんばかりの焦燥が、瞳の水底で見え隠れしているように思えた。

 幸之介の真意をはかりかね、小首を傾げる。一方、男はばつが悪そうに目を逸らしたかと思いきや、刹那の逡巡とともに右の手のひらを向けた。


「なんだよ?」

「だから、手だよ手! 左手出せ!」


 問いただすように見つめても、幸之介は未だ唇を引き結んでいる。まるで玩具を取り上げられて、へそを曲げた童のようだ。

 沈黙の中、手は差し出されたままだ。二人の間にわずかな空白ができ、場の妙を強調する。


(……あ、なるほど。約束しよう……ってか。素直じゃないやつ)


 芦雪(ろせつ)はふと、その意味を解した。幸之介自身もらしくないとは思っているのだろう。彼の耳端は、寒さだけとは思えぬ紅色を差していた。

 緩む頬はそのままに、芦雪(ろせつ)は差し出された手のひらに左手を重ねる。冷えて固くなった手は冬の薄衣を溶かし、触れ合った熱を抱きしめる。隙間なくひとつに合わさった手は、離れていた天と地が重なり合ったかのようだった。


 幼き頃から自身を導き、また支えてくれた友の温もり。芦雪(ろせつ)にもたらされた懐古が、幸之介にも等しく訪れていたのか。彼は触れあった祈りの手をしばし見つめていたが、やがて呟くように誓いの言葉をたてた。


天涯比隣(てんがいひりん)。……天と地のように離れていても、心はいつもお前のそばにいる。忘れるな」

「もちろん。……巡逢雨花(じゅんあいうか)、だろ?」


 花へと降り立った天の雨が、地を伝い。いつの日かもう一度、雨となって再び花と巡り逢うように。


 ──君との再会を、ここに約束しよう。


 天涯比隣(てんがいひりん)巡逢雨花(じゅんあいうか)。それは親しい者と別れるための、優しい約束だ。幸之介との別れも永遠ではない。ほんの少し、離れるだけだ。


「心配するな。必ずまた会えるよ。二年の間にゆかり殿を見つけたら、すぐに京に戻る」

「約束したからな。天涯比隣の誓いは絶対だ」


 生唾が喉奥を伝っていく。己を射抜く視線に耐えかねて、芦雪(ろせつ)はまつげを下げた。


(すまない、幸之介……。お前に嘘をついてしまう俺を許してくれ)


 江戸でゆかりを探すのは、目的のひとつに他ならない。それよりも果たさねばならないことがある。

 たとえ、大切な家族や幼馴染に嘘を述べようとも。己の全てを賭そうとも。

 祈りの手が、ふたつに(ほど)けていく。手のひらに溶け込んだ温度を誰にも奪われぬよう、芦雪(ろせつ)は指先を強く握り込んだ。


 朝日が宵の衣を脱ぎ、もの言いたげな男の顔と、作り慣れた偽りの微笑を包む。


 ──どうか、達者で。


 別れの言葉は、一体どちらのものだったのか。別離の音の輪郭は橋の上に落ち、ひとつの背中とともに消えていった。

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