第六筆「合縁」(三)
「はー……。ここは武家屋敷の区画だというのに、やはり春となると人が多いんだな。全員、花見客か?」
「……そうだろうな」
愛宕山の麓の大通り、愛宕下。芦雪と藤仁は、大仰な大名屋敷が連なる路を二人並んで歩いていた。道の先には、朱色の総門が据わっている。
愛宕山の総門の前は、通りを行き交う人々で賑わっている。その姿は、武士から商人まで統一感はなく様々だ。共通することと言えば、桜を見に来たぐらいのものだろう。
総門の前には濃紺の小川が流れ、朱色の太鼓橋が掛かっている。芦雪は軽やかに、藤仁は音のない静かな足取りで橋を渡った。小川は瀟々とせせらぎの音を奏で、他の行楽客と同様に二つの背を山へ送り出していた。
門をくぐった先で、石造りの鳥居が現れる。右手と左手に各々二つの階段があり、境内への道筋を指し示していた。
左手の階段、いわゆる男坂は、山頂へと一直線に伸びている。参道としては最短のものだが、勾配は空に届きそうなほど険しく、石段の一段一段が厚い。六十八段もの数が重なりあっているためか、頂上には雲のような薄い霧がかかっているようにも見えた。
高い。男坂を見上げながら、芦雪は小さく喉を上下させた。
その時、鋭く空を切る音がした。振り返るも、芦雪が視界に留める暇もないままに、数人の青年たちが横を走り抜けていく。
彼らは風の勢いに乗り、男坂の階段を駆け上がる。手には各々絵筆があり、自らの勢いで振り落とすまいと、力強く握りこんでいた。
唖然とする芦雪をよそに、いくつかの背中はあっという間に見えなくなる。階段には、再び薄霧がたちこめていた。
「……なぁ、藤仁。なぜ、あの男たちは男坂を駆け上がっていったんだ……? ゆっくり登れば良いじゃないか。それに、筆を握りしめたまま登っているのも妙だ」
藤仁は一瞬、息を詰めた。
「……愛宕山の頂上にある愛宕神社は、立身出世のご利益で有名な場所だ。それにあやかろうとする参拝客も多い。特に、御用絵試の前はな」
愛宕神社の由来は、今からおよそ百年ほど前。家光公の御代の時代までさかのぼる。
増上寺に参詣の折、愛宕神社の前を通りかかった家光公は、かの神社の梅花の香りに魅せられた。家光公は居ても立ってもおられず、供に「梅の花を手折ってこい」と命じた。
けれども、どの供も目の前に立ち塞がる急勾配の階段に怖じ気づくばかり。誰かいないのか、と再び声を張ると、四国丸亀藩の藩士・曲垣平九郎が名乗りを上げた。
彼は騎馬で男坂を駆け上がり、手折った梅の枝を家光公に見事献上した。その姿を見た家光公は、平九郎を日本一の馬術名人と讃え、自らの小太刀を褒美として与えて、出世の道を示したという。
この逸話は男坂が急坂ゆえに喧伝され、今では江戸っ子好みの話題となっているようだ。
特に、半月後に開催される御用絵試は「泰平の世の下克上」とも呼ばれる絵祭である。
今こそ出世の道を歩まんと、絵試に臨む男たちは皆絵筆を手にして、願掛けのためにこの急坂を駆け登るのだそうだ。
藤仁から青年たちの行動の謂れを聞き、芦雪は素直に賛嘆した。
「来年は、俺も……」
――御用絵試を突破できるよう、願掛けしに来ようか。
呟きかけた言葉は、吹き抜けた春風に攫われ、最後まで続くことはなかった。
「来年……?」
風になびく横髪を耳にかけながら、藤仁が問いかける。彼の声に振り返るも、芦雪の唇はただ、困ったように弧を描くことしかできない。
薄紅色の花びらが数枚、宙を舞い躍る。風に乗り、気まぐれに頂上から訪れた春の軽雲は、芦雪と藤仁の間に音もなく降り立った。二人の心の距離を、肯定するかのように。
藤仁は静謐を湛えた瞳で、迷いなく芦雪を見つめている。淡墨の眼を通し、心の奥深くまで見透かすかのような真摯さ。それに応えることもできず、芦雪は藤仁の肩を抱いた。
「さ! 早く登ろう。生憎、あの青年たちのように駆け抜けることはできないがな」
未だ疑念をまとった視線を振り切り、芦雪は意気揚々と男坂に足をかけた。
しかし、現実は時として思う通りにはいかないものだ。
男坂の階段を一段一段、時間をかけて踏みしめ、ようやく頂上の段に足を下ろす。芦雪は喜ぶでもなく、手すりの終わりにかじりついたまま、その場にへたり込んでしまった。
「……大丈夫か?」
「も、問題……ない……こともない……」
「どっちだ」
肩で息を放つ。喉奥から昇ってくる鉄のような味が口内を占め、嘔気さえした。
「身体が弱いのに、無理をするからだ」
藤仁は涼しい顔で言った。息一つ乱れていないのがまた憎らしい。
本当に芦雪と同じ階段を登ったのかと問いたいほどに、彼は平然としている。普段は部屋から一歩も出ることなく絵に向き合っているだけだというのに、この差は一体何なのか。
一抹の悔しさを噛みしめ、芦雪は荒波の気配が鎮まるのを待った。
「ほら。向こうで少し休もう」
藤仁が手を差し伸べる。浅い呼気で思考が霞んでいるせいか、明瞭な指の関節が妙に色っぽく見える。思わず、手を重ねるのに逡巡してしまった。
恐る恐る藤仁を見上げる。切れ長の瞳と視線がもつれ合うが、黒鳶の水面には情けない己の姿が映るだけで、彼の真意を汲み取ることはできなかった。
不意に、男の唇の結び目が、ほんのわずかに緩んだ。
「藤仁……? ……っ!?」
名を呼んだ次の瞬間、芦雪は手首を強く掴まれ、藤仁に引き上げられていた。
おかげで立ち上がれはしたものの、あまりに突然のことで身体は均衡を保てない。体勢を立て直そうと慌てているうち、あろうことか藤仁の胸元へ飛び込んでしまう。彼も思わず、といったように芦雪の腰に手を回したのが分かった。
藤仁は少し上背があるせいだろう。芦雪の身体は、藤仁の腕の中に収まっていた。
(藤仁の……藤花の香のかおりがする……)
荒波をたずさえていた呼吸は、いつしか凪いでいる。着流しに焚き染められた藤花の香りが、からかうように鼻先をくすぐる。視界は藤仁の着流しの色に染め上げられていた。
目の前の胸板に、そっと手を置く。芦雪のそれよりも広く、存外に厚い。
顔を上げれば、熱を孕んだ瞳と整った鼻梁が目に入る。その距離は、今にも互いの鼻先が擦り合いそうなほどに近い。
「……これで立てたな」
吐息に濡れた低い声が耳に触れる。芦雪は身を竦めた。
「あ、あぁ……。ありがとう……」
藤仁の胸元を軽く押しやる。芦雪の腰に回っていた手は小さく跳ね、ゆっくりと離れていく。再び、二人の間には人一人分の距離が作られていた。
(……何を恥ずかしがっているんだ、俺は……)
相手は可愛い弟分で、純粋な気遣いから芦雪の身体を支えたに過ぎない。
いくら端正な顔立ちをしているとはいえ、藤仁は男だ。傾城の美女でもあるまいに。
芦雪は前髪をかきあげ、細く長く、息を吐いた。
ふと、凪いだ思考の湖面に、魚の銀鱗が閃く。
――身体が弱いのに、無理をするからだ。
藤仁の過去の言が飛沫となり、水面に跳ねては波紋を広げる。芦雪は小首を傾げた。
「そういえば……。俺は身体が弱いって、お前に言ったことがあったか?」
「……いや。松乃に聞いたんだ」
藤仁は静かに瞼を伏せる。瞳を縁取る長いまつげが、頬に小さな影を落としていた。
果たして、自身の身体の虚弱さについて、松乃に語ったことがあっただろうか。
記憶違いでないなら、身体のことを明かしたのは写楽にのみである。それも尋夢庵へ依頼を出す折、ゆかりを探している事情を説明するためにやむを得ずだ。
松乃に「疲れやすい体質だ」と漏らしたことはあっても、持病や身体に関しては明らかにしていない。とすると、藤仁は写楽から聞いたということになる。それと混同し、松乃から聞いたものだと勘違いしているのだろう。
(まぁ、いいか。今さらだな……)
藤仁は芦雪が病弱だと知っても、両親や松乃のように過度な気遣いは見せないはずだ。現に、芦雪への接し方が如実に物語っている。
互いに気を遣わない、今の関係が心地良い。藤仁の隣なら安心して息ができるのだ。
芦雪は陽を羽織ったそよ風に導かれるまま、重箱包を掲げた。
「……さて。先に腹ごしらえといこう。腹を膨らませておかないと、存分に絵に向き合えないからな」
なおも静謐をまとい、その場から動かぬ藤仁を先へと促す。
「ほら、早く!」
痺れを切らして藤仁の手首を掴むと、芦雪は軽やかな足取りで仁王門をくぐった。




