第六筆「合縁」(二)
春はあけぼのも良いが、夕暮れも捨てがたい。
沈みゆく陽が、薄絹をかけたような薄明を作り出す頃合い。眠たげな空に季節の風情を感じながらも、「今日はこんなことがあったな」と漫然と考えられるのが良い。
いにしえの時代、己が和歌を詠む歌人であったなら、きっと「春は夕暮れ」と記すだろう。芦雪は浮き足立った思考でひとり笑った。
流屋に帰宅するや否や、芦雪は画室の襖を勢いよく開け放った。
「藤仁! 俺と花見に行こう!」
「行かない」
「待って、襖を閉めないで!」
藤仁は芦雪を一瞥すらせず、慣れた様子で四魂を呼び出した。忠実な葛の四魂は、蔓で芦雪の背を押し、部屋から追い出しにかかる。
まずい。このままでは常の流れになってしまう。今日は負けてなるものか。
芦雪は、必死に入口の縁にしがみついた。
「今、愛宕山の桜が見頃だと聞いたんだ!」
襖に掛かった手が止まる。その一瞬を利用しない手はない。
「絵の練習も兼ねて、桜の写生をしたいと思っているんだが……。一流の絵師である藤仁に絵の指南を請えたらなー、なんて……。それにほら、一人で花見は味気ないしさ。一人より二人の方が楽しいだろ?」
巡らせていた考えを滔々と連ねる。だが、藤仁の眉間には皺が寄ったままだ。
「君には、ゆかり殿という大層なお方の弟子になる夢があるだろう。俺では役不足だ。他を当たれ」
「待て待て待て! ……そう! ついでに四魂の扱い方も教えてくれよ。最近、なぜか力が前よりも安定しないんだ……。一度、開けた場所で俺の四魂を見てもらいたい」
「……」
「な? 頼む、この通り!」
藤仁の前で両手を合わせ、神仏を崇めるように深く頭を下げた。
実際は瞬きほどの間であろう長い沈黙が、二人の上に舞い降りる。
(……今日も、色良い返事はもらえないだろうなぁ……)
滑稽だとでも思っているのだろうか。しつこい奴だと、いよいよ辟易し始めている可能性もある。
芦雪は口内に溜まる生唾を飲み、床板の木目を数えてその場をやり過ごした。
「……いつ行くんだ、その花見とやらは」
凛とした声が降る。芦雪は勢いよく顔を上げた。
藤仁は入口の柱に肩を預け、嘆息をこぼしている。襖を閉める気配はない。
「え、えぇと……俺の次の休みが明明後日だから、早ければ明明後日とか……?」
「わかった。明明後日だな」
「いいのか!?」
「いいと言わないと、君はどうせまた部屋の前に居座るだろう」
ただ芦雪を無視して過ごしていたわけではないようだ。藤仁は芦雪の性分というものをよく理解している。
「……なんだ、わかってるじゃないか!」
「なんで君が偉そうなんだ」
「歳だけなら俺はお前より兄貴だからな! 偉くて当然だ」
湧き上がる喜びに乗り、芦雪は薄い胸板を反り返して見せた。
「……三日後、昼四つ〔10時〕に出る。それまでに準備をしておけ」
「分かった。二人で出かけるのは初めてだから、なんだかそわそわしてしまうな」
素直な気持ちを言葉にすると、藤仁はふいと目を逸らした。
「約束はした。……今日はもう、話しかけてくるな」
言いたいことは言ったと言わんばかりに、今度こそ一寸の隙間もなく襖が閉められた。
「……ふふ。三日後が楽しみだ」
拒絶を示す境界を前にしても、口元の緩みは留まることを知らない。芦雪は締まりのない顔のまま、自室へ戻った。
日頃の行いだろうか。待ちに待った花見の日は、運良く麗らかな陽気に包まれていた。空には薄雲がかかっているものの、気にならない程度には陽が顔を出しており、まさに行楽日和だった。
「はい! お弁当です。きっと人も多いでしょうから、お二人ともお気をつけて。いってらっしゃいませ」
「あぁ。ありがとう、お松」
花見にともに行けないはずの松乃は、なぜか上機嫌であった。彼女に重箱の包みを手渡され、芦雪もつられて笑顔で受け取る。途端に、石の如き重みに両手が支配され、足がわずかに前に出た。
二人分の弁当にしては重量がある。一体何が入っているのか。
芦雪が首を傾げる一方、隣では耳慣れた兄妹の会話が飛び交っていた。
「夕七つ〔16時〕までには戻る」
「あら兄上。たまには時間のことは気にせず、夜遊びのひとつでもされて来てくださいな。芦雪様とのせっかくの外出なのですし」
「……今朝は早く起きたから、早く帰って寝たいんだ」
「まぁまぁ、健康的だこと! いつもは夜更かしばかりなのに……」
「松乃?」
「なんでもありません。……芦雪様とのお花見、たくさん楽しんできてくださいませ。お土産話を楽しみにお待ちしております」
松乃はここぞとばかりに兄をからかっていた。面倒見の良い妹が不精者の兄に茶々を入れる光景は、いつ見ても和む。
「芦雪様」
「ん? どうした」
悪戯を思いついたように、大きな瞳が煌めいている。松乃の手招きに応じ、芦雪は腰を少し落として彼女の口元に耳を寄せた。
「実はね、このお弁当……兄上が作ったんですよ」
思わず松乃を見る。彼女は屈託なく笑った。
(弁当を作った? 藤仁が?)
何も口にできなかった。ただ、告げられた裏語りを繰り返すことしか。松乃は笑い声を絶やすことなく、「おかずはほんの少しだけ、私も手伝いましたが」と付け加えた。
「それは……つまり……」
藤仁も花見の日を楽しみにしていたのだと……そう思っても良いのだろうか。
わざわざ眠い目を擦ってまで早起きをし、二人分の花見弁当をこしらえるぐらいだ。芦雪との花見にわずかでも心惹かれていたのだと期待しても、罰は当たらないだろう。
「私が言ったってこと、兄上には内緒ですからね」
松乃は芦雪の身体を藤仁の方へ押し出し、手を振って二人を送り出した。
「なぁ、藤仁」
「なんだ」
「お松は良い娘だなぁ」
振り返って、遠く小さくなった少女を見る。芦雪が大きく手を振れば、こちらに向けて手を振り返してくるのがわかり、なんとも言えぬ心地になる。
一方、藤仁は手を振るでもなく普段以上に固く口を結び、美しい眉宇に険しい陰を宿していた。幼子がふてくされているような表情である。
「……嫁にはやらんぞ」
ようやく絞り出された言葉は、妹の嫁入りを阻むものだった。なぜ、ここでその発言が出てくるのか。芦雪にはとんと分からない。
「嫁ぇ? 俺だってやりたくないさ。お松は可愛い妹分だ。俺が認める奴でないとな」
至極当然のことを述べたところで、ふと腑に落ちる。瞳の奥で辛酸を滲ませながら、なぜ藤仁がその言葉を放ったのか、その意味に。
「もしかして……。俺がお松に惚れてるとでも思ったのか?」
「……だったら何だ」
藤仁は、さらに低い声で開き直った。ようやく、彼の年相応の顔が垣間見えたような気がして、芦雪は吹き出した。
「そうだよなぁ、お松はお前の大事な大事な妹だもんな。そりゃ心配にもなるか!」
芦雪は腹を抱え、ひとしきりその場で笑い転げる。笑いすぎて涙がにじむ。藤仁は不服そうに芦雪を見下ろし、やはり口噤んでいた。
発作染みた笑い声をあげた後、芦雪は馴れ馴れしく藤仁の肩に腕を回した。
「確かにお松は良い娘さ。気立てが良くて見目も良くて、おまけに商人の出とは思えぬほどの知性がある。流石はお前の妹だ」
藤仁の肩に体重を預けたまま、芦雪は歌うように言を継いだ。
「けどな、お松はお前の妹である前に、俺の大切な妹分なんだよ。妹を娶ろうと思う兄がこの世にいると思うのか?」
「それは……いない、が……」
「だろ? だから、俺がお松を嫁に取るようなことは永遠にない。ふふっ、安心した?」
「……それはそれで腹立たしいな」
「理不尽!」
何を言っても、今の藤仁は気に入らないようだ。機嫌を直せと言わんばかりに、芦雪は彼の頭を撫でた。
「そう言うなよ。もちろん、お前だって俺の大切な……」
大切な……何だろう。自然と紡がれるはずだった縁の名は、理由もなくほつれてしまった。針の穴に入ることは叶わず、玉になったように喉奥で留まっている。
しばし舌上で転がす。理由もなく転がしたとて、形を成し名がつくわけでもない。
「……藤仁も俺の……俺にとって大切な弟だと……、そう思ってるよ」
刹那の思考の末、芦雪は最も近しいと思われる形を選び取り、藤仁に渡した。
目付け役、あるいは友のような存在であるよりも前に、藤仁を弟のように見ている。ゆえに彼の身を強く案じ、笑って欲しいと願ってしまうのだろう。この欲は、兄貴分という年上の立場から生まれたものなのだ。
ようやくしこりが解消できたように思えて、芦雪はひとりうなずいた。
「ま、お前の場合は、お松と違って可愛くないが付く弟だけどな!」
軽やかに頬笑しながら、藤仁の背中を叩く。常のように邪険に振り払われるかと思いきや、藤仁はその場に足を止めた。
「……弟、か……」
「藤仁?」
男の顔を覗き込む。帳の上がったばかりの瞳が、じっと芦雪を見つめ返す。黒鳶色はかすかに熱を孕み、芦雪の中を探っている。一方で、己が奥深くに隠している何かをいっそ暴いてくれと、すがっているようにも見えた。
「俺は……君の……」
藤仁は、思い留まったように口を閉ざした。
首を傾げて続きを待ったが、藤仁はただ指を強く握りこむばかりで、結局、引き結んだ唇を緩めることはなかった。
「藤仁? なぁ、どうしたんだよ……って、なんで急に早歩きになるんだ? そんなに弟扱いされたのが嫌だったのか?」
「うるさい」
藤仁は再び歩き始めた。芦雪を振り払わんばかりに、歩調を早めながら。
「あぁ、もう! 待てってば、藤仁!」
――やはり、藤仁は可愛くない弟だ。
たおやかに髪尾が揺れる。その軌跡を追いながら、芦雪はひそかに歯噛みした。




