第六筆「合縁」(一)
「なぁ。聞いてくれよ、写楽殿」
「聞いておりますとも。藤仁が笑ってくれない話ですよね?」
「そうだ」
尋夢庵の縁側に寝転がり、芦雪は暇をもてあます両足で宙を掻いた。
漂う陽気は、宥めるように身を包んでいる。重ねた両腕を枕に、このまま昼寝でも始められそうだ。せっかくの休日だ。それも良いやもしれぬと、芦雪は行儀悪く考える。
一方、写楽はそれを咎めることもない。真昼間からやって来た芦雪を迎え入れ、面布の端を小さく揺らしながら苦笑をこぼしていた。
「藤仁はさ。仕事の時は話してくれるんだ。けど、それ以外では全くで。俺がずーっと名を呼んでも、遊びに誘っても、渾身の悪戯を仕掛けても、あいつは無視だぞ、無視!」
「まぁまぁ。……藤仁にも、何か考えがあってのことなのでしょう」
「どんな考えがあるって言うんだ。雑談のひとつやふたつ、そろそろ笑ってしてくれたって良いじゃないか……。俺は、藤仁の笑った顔が見たいだけなのに……」
芦雪は唇を尖らせ、頬を膨らませた。
藤仁の目付け役を任されてから、早ひと月とその半分が過ぎている。季節は待ち望んでいた春になり、尋夢庵の水仙は雪解けとともにどこかへ攫われてしまった。春風は藤棚に寄り添い、次々に若葉を芽吹かせては凍えた庭を温めた。
新たな季節の息吹は、内にこもる者を連れ出そうと手招いている。今が盛りの桜を見ようと出かける行楽客もその一つだ。日本橋は、ますます人で湧きたっていた。
世間では目に見えた変化があるなか、芦雪と藤仁の関係は相変わらずだ。流屋の看板を背負う絵師と、その目付け役。それ以上でも、それ以下でもない。
にこりともしない藤仁が小憎らしく、なんともつまらない奴だと、芦雪は小さな反感を募らせるばかりだった。
ゆかりの足跡も未だ掴めていない。普段は流屋での奉公があり、来年の御用絵試に向けた準備もある。ゆかり探しに躍起になるわけにもいかず、結局変わり映えのない日々が続いていた。
数ある不変に囲まれ、無為に日々を過ごしているようにも思えるが、徐々にわかってきたこともまたある。
――藤仁兄さんのこと? あの人があまり口を開かないのは、僕たち弟弟子や兄弟子たちに対しても一緒だよ。ね、大兄さん?
――そうさなぁ。俺は藤仁が十三の頃から知っちゃあいるが、あいつは昔からあまり思ってることを口に出さねぇ。琳也先生に正式に弟子入りして、『住吉藤一』の雅号〔絵師としての名〕をもらってから、それはますます顕著になったかもな。
――あまり画室から出てこられませんものねぇ……。末の弟弟子である僕も、お話ししたことがあるのは片手で足りるくらい。たまーに画室にある顔料が足りなくなって、藤仁兄さんが工房に来られることがあって。その時に絵の助言を頂くことはありますよ!
芦雪が幼馴染みから「図々しいやつ」とお墨付きをもらい受けているように、藤仁もまた、周囲からお墨付きをもらうほどに寡黙な青年であるらしかった。
藤仁の人柄をつぶさに話す兄弟子や弟弟子たちは、「藤仁に愛想がなく、人付き合いも淡々としているのは、いつものことだ」と肩を竦めていた。
そばで話に聞き耳を立てていた他の絵師らも皆一様にうなずいている。藤仁と彼らの交流の少なさが浮き彫りになっているようにも思えた。
――最初は『怖そうな人』って印象でしたし、苦手な兄弟子でしたねぇ……。
――……お前、そんなこと考えてたのか。
――だって。藤仁兄さんは何を言ってもうなずくか首を横に振るかで、滅多に言葉を返して下さらないんだもの。普段から工房で一緒に絵を描いてるわけでもないし。何考えてるか分からなくて、そりゃ怖いですよ!
末の弟弟子は手のひらを握りしめ、隣に立つ兄弟子に力説していた。
――でも……。藤仁兄さんは寡黙な分、絵に己の感情を雄弁なほどに乗せておられます。それが何にも代えがたいほどに繊細で美しい一方、嵐の中で何かを叫んでいるような激しさもあって……。だからですかねぇ。今は藤仁兄さんのことが怖くなくなりました。彼の絵を見れば、その人となりも分かりますから。今では、僕の尊敬する兄弟子の一人ですよ。
藤仁の寡黙さや彼がまとう冷淡さに対する不満など、完成した絵を前にすれば瑣末なことに思えてしまう。むしろ、何者も寄せつけぬ孤高さがあるからこそ、このような絵が描けるのではないか。弟弟子は笑ってそう言った。その言葉にもまた、どの絵師も一様にうなずいていた。
これらの話や藤仁との普段のやり取りを通して、芦雪はようやく理解した。藤仁は冷淡な人間のように見えてその実、不器用なだけなのだ。心の在り方を言葉にするのが苦手なのだろう。
そう写楽に語ると、彼は安堵したように息をついた。
「なら良いではないですか。特別、芦雪殿にだけ冷たいわけではないようですし……」
「それがどうも違うらしい」
「というと?」
「他の弟子たちは、藤仁の画室を訪ねても締め出されたりしないらしいんだ……」
芦雪は両腕に顔を伏せ、両足をばたつかせた。
――藤仁! なぁ、藤仁ってば!
開かずの襖を前に、芦雪は日々声をかけ続けている。食事の声かけはもちろん、なんとなしに気になったり思い出したりすれば、すぐに声をかけた。
藤仁は何が好きなのだろう。春は好き? 花はどうだろう。菓子は好むだろうか。そんなことを考えるほどには、藤仁のことを何も知らない。笑った顔でさえも。話さなければ何もわからない。
彼への声かけは、そんな癇癪染みた欲求を叶えるためでもあった。もはや目付け役のことなど忘れかけている。
しかし悲しいかな、藤仁が反応することはほとんどない。飯時の呼びかけに素直に応じることもあるが、ごくたまにだ。襖が開いたと思っても「……うるさい」と一言言うだけで、襖は再び固く閉じられてしまう。
あまりにもそれが癪に障ったため、芦雪はつい先日、悪戯を仕掛けた。
画室前の壁一面に「飯を食え」「夕餉も食いに来い」「味噌汁」「握り飯」「今日の夕餉は蕪漬け」「春画でも読んでるのか」「何でもいいから飯」「次飯食べなかったら春画読んでるって言いふらす」などと書いた紙を貼り付けたのだ。
藤仁はどのような反応を見せるだろう。幼馴染の幸之介なら、烈火の如く顔を赤に染め上げ、芦雪を追い回すに違いない。
藤仁のまだ見ぬ表情を思い浮かべながら、芦雪はくすくすと吐息をこぼしていた。彼が画室から出てくるであろう時機を見計らい、近くで今か今かと様子を窺う。
やがて藤仁が出てきた。壁一面の悪戯書きを無言で一瞥する。芦雪の期待は最高潮に達したが、藤仁はさっさとそのすべて剥がし、四魂を呼び出して燃やしてしまった。その時でさえ、彼は眉一つ動かさなかった。
悪戯が失敗に終わる時ほど、あふれる口惜しさは尋常ではない。その日の夜、芦雪が夕餉の蕪漬けを親の仇のように噛んでいると、藤仁が居間に現れた。なんと夕餉を食べに来たのだ。
めずらしいこともあったものだ。悪戯がきいたのだろうか。わずかに胸を踊らせ、隣の男を盗み見る。すると彼は、長いまつげをかすかに伏せて言った。
――……君は暇なのか。
(暇なわけがあるか!)
今思い出しても、言いようのない悔しさが募る。
ならばやり方を変えよう。芦雪に諦めるという二文字は存在しない。
思い立ったが早いが昨日、藤仁が好んで飲むという煎茶と巷で流行っていると聞いたきんつばをたずさえ、画室を訪ねた。
――藤仁くん、藤仁くん。お時間よろしい? 芦雪お兄さんとすこーしお話ししない?
――しない。
瞬く間に襖を閉められてしまった。明快な拒絶の音をたてて。
「はぁ……。相変わらず前途多難だ……。他の弟子たちは、藤仁に笑いかけてもらったことがあると言うんだ。俺にはないのに……」
ひと月と半月のやり取りを一通り思い返し、芦雪は唸り声をあげた。他人事である写楽は、軽快に笑うばかりだ。
「彼が笑わないのが、そんなに気に入りませんか」
「気に入らん」
「なぜ?」
――なぜ。それはこちらが聞きたい。芦雪自身も明確な答えは持ち合わせていなかった。
小峰の陰が刻まれた眉間。底冷えするような冷淡なまなざし。色を宿さぬ愁眉な顔付き。
悲しいかな、記憶を掘り起こしても鮮明に思い出せるのはそれだけだ。
常とは異なった表情が見てみたいと、単純な興味から思うのはおかしなことだろうか。もはや意地になりかけている部分もある。
(あいつは……。どんな顔して笑うんだろ……)
――もし。やわらかな春花の微笑が、己だけに向けられたなら。笑った顔でなくとも良い。驚きに満ちた顔や、慌てふためく顔も知りたい。
(……そうか。俺は藤仁の……)
感情に振り回されている姿が見たいのだ。あわよくばそれが、己が引き出した感情であれば良い。芦雪は心のどこかでそう願っている。
「……よし、決めたぞ」
芦雪は伏した身を起こした。思い切り伸びをすれば、凝り固まっていた考えもほぐれていく。今なら迷いもなく、湧き出た思惑も行動に移せるような気がした。
「……? 何を?」
「内緒だ。上手くいったら教える」
訝しげな写楽を前に、芦雪は弾けんばかりの笑みを浮かべた。




