第五筆「友人」(三)
どんなに抵抗しても、もしくは期待で今か今かと首を長くしていても、時の経過というものは誰にでも平等だ。芦雪にとって初めての休暇日も、自ずと訪れていた。
「長澤殿。お身体に大事ないでしょうか? 流屋にご案内したあの後、お倒れになられたと伺いましたが……」
「あぁ、あの時は多大な心配と迷惑をかけてしまって申し訳ない。宿の荷を持ち出したり、宿を引き払う手配もしてもらって……。もう今ではぴんぴんしてて、おかげで流屋でも働けてるよ。ありがとう、写楽殿」
働き者もしばしの休息を取る、昼八つ〔15時〕の頃。芦雪は約束通り尋夢庵を訪れ、写楽と向かい合って座っていた。
相変わらず、写楽の顔は白い面布で覆われており、彼の表情が窺えるのは口元だけだ。
それでも芦雪を慮る様子は、やや強ばった唇の形だけで十分に汲み取れた。
「お元気そうで安心いたしました。流屋でも、くれぐれもご無理はなさらぬように」
「あ、あはは……。そうするよ……」
どこに行っても、己は他人に心配をかけてしまう性らしい。両親や幸之介と同様に釘を刺され、苦笑いする他ない。
「……さて。では本題に移りましょう」
写楽の咳払いが場を均す。彼は横に控えていた巻物を手に取って巻緒を解き、隠された紙面を晒していく。
「こちらが、本日納品させて頂く絵になります」
写楽の声とともに差し出されたのは、一幅の花鳥図だった。
うっすらと雪がかった白椿と、その枝先に止まって花を見つめる一羽の小禽。左画面を中心として、穢れを知らぬ白き花々がひとつ、ふたつと花弁を開いている。下方には淡く雪をまといながらもなお、まだ見ぬ季節を夢見る蕾が顔を覗かせていた。
緑青で彩られた葉々は、雪明かりを受けてより瑞々しさを、墨でやや濃く太めに描かれた枝は、冬の寒さを耐え忍ぶ強さを感じさせる。
溶けゆく雪に凛と咲く白椿。春の訪れを思わせる一品だ。透明感のある豊かな彩色にも、麗らかな陽のまなざしを想起させる。絵を見る者と同じく、画中の小禽も新たな季節を心待ちにしているに違いなかった。
「なんて……美しい……」
自然と漏れ出た感嘆の声。こんな時、人並みの語彙しか出せぬ己が情けない。
口惜しさに歯噛みしているうち、芦雪の視線は小禽の胸元に絡め取られた。
「これは……四魂の、輝き……」
小禽の絵には、煌々と輝く黄金色の魂が宿っていた。芦雪にとっては見慣れた光輝であり、また写楽も己と同じ景色を見ているのではないかという疑問への答えだった。
「写楽殿……。やはり、貴殿も俺と同じ……」
「……あぁ。申し遅れておりましたね」
面布の端を小さく揺らし、写楽はやわく微笑んだ。
「藤仁から話は聞いておりました。……そうです。私も、貴殿や彼と同じ直霊の絵師。藤仁とは、同じ異能者同士ということで親交を重ねております」
確信と期待が深まっていく。当初の見立て通り、写楽は直霊の絵師だったのだ。
「直霊の絵師は、市井では稀有な存在ですから。出会った時には手を取り合い、助け合って生きていくものなのです。……それこそ、江戸では特に」
ならばと、芦雪はすがりつかんばかりに言葉を重ねた。
「なら、ゆかり殿のことを知らないか!? 肌守りを見せたからわかるとは思うが……。彼も直霊の絵師なんだ……!」
「申し訳ございません。藤仁にも聞いてみましたが、私と同様、知っている直霊の絵師の中に、ゆかりという名の者はおりませんでした」
これ以上ないほどに降り積もっていた期待が、音をたてて崩れていく。芦雪は分かりやすいほどに肩を落とし、うなだれてしまった。
否。それでも諦めるにはまだ早い。手元には写楽の――四魂の宿った絵がある。
「どんな困り事や願い事でも叶う」と噂されている絵だ。彼の四魂が、ゆかりの行方を掴む手がかりを運んできてくれるやもしれない。
芦雪は、膝上に置いた指に力を込めた。
「そう、か……。でもまぁ、写楽殿の四魂が宿った絵があるんだ。わずかでも、ゆかり殿の足跡を掴めると信じてる。俺も直霊の絵師とは言っても、力は不安定で……。身を守ることぐらいでしか、四魂を生み出せないから……。本当にありがとう、写楽殿」
「いえ……。しかし、その絵もどこまで貴殿のお力になれるか分からぬゆえ、私の方でもゆかり殿の行方を個人的に調べておきます。藤仁にも話を通しておきましょう」
写楽は芦雪の肩に手を置き、穏やかな声音で慰めの言をかけた。
一抹の優しさと気遣いをありがたいと思うと同時に、心の隅にうずくまっていた何かが顔を上げて囁く。
――写楽は、彼を「藤仁」と気軽に呼べるほど、彼と良好な仲を築けているのだな、と。
昨日、藤仁との会話で感じた悋気が、再び湧き立っている。さほど藤仁と関係を深めているわけでも、歳月を重ねているわけでもあるまいに。浅ましいにも程がある。
「藤仁と……仲が良いんだな」
言うつもりもなかった本音が、庵の沈黙に響く。無意識に口走ったそれにはっとして、芦雪は慌てて口を塞いだ。
写楽の唇が、かすかに開く。しばしの間を持て余した末、彼は苦笑をこぼした。
「藤仁とは腐れ縁です。仲が良いわけでもありません。……むしろ、嫌いに近しい」
最後の評に妙な暗色を感じたものの、信頼しているからこその言葉の綾なのだろう。でなければ、写楽が流屋を奉公先として紹介するはずがなく、藤仁もそれを受け入れることはない。何より、流屋の母屋にも好きに出入りできるぐらいの人物だ。
それこそ、写楽の言葉なら藤仁も素直に耳を傾けるのではないだろうか。
「ただの腐れ縁とおっしゃるが、写楽殿は彼が笑った顔を見たことがあるのだろう?」
「笑った顔?」
「……妹のお松に対してだとか。ふとした拍子に藤仁が笑んでいるのを見かけはするが、俺相手にはその……笑ってくれなくて。昨日も、写楽殿のことを話した時は表情を崩していたものの、それ以外では見たことがなく……。俺は嫌われているのではないかと……」
「それはありえない」
写楽は否定を重ねた。
「藤仁は、貴殿のことを何よりも大切に想っている。それだけは信じて欲しい」
――まだ出会って数日と経っていない相手が、自分を大切に想っている?
――それも、己に微笑みかけることすらなく、常に淡々としているあの男が?
到底、信じられる話ではなかった。
依然、面布の下に潜む表情を読み取ることはできない。だが、写楽の紡ぐ言葉の端々には、嘘偽りはないと断言できるような真摯さが滲んでいた。
「……ありがとう、写楽殿。たとえ気遣いの言葉だとしても嬉しいよ。どこまでも話を受け止めてくれる貴殿だからこそ、藤仁も貴殿を信用してるんだろうな」
「長澤殿、これは本当の……」
「写楽殿に話してよかったよ。藤仁が信頼している貴殿が言うんだ。俺も、彼に信頼されるように地道に頑張るさ」
まだ何か言い足りないのか、写楽は唇を薄く開いては閉じている。やがて彼は視線を落とし、口を閉ざした。
「……して、絵の報酬はいかがいたそう? こんなに素晴らしい絵を描いてもらったんだ。いくら銭を払っても足りないぐらいだが……。なぁに、今まで貯めた分があるんだ。どんと報酬額を言ってくれ!」
重い空気を散らすように、芦雪は慌てて人差し指を立て、大切なことを問うた。
写楽は少し考えるように顔を伏せる。しばし黙したあと、彼は顔を上げた。
「では、貴殿の髪紐を頂けますか?」
「俺の髪紐? それは構わないが……」
淡墨の長い髪を高く結い上げた千歳緑の髪紐は、江戸の小間物屋では類を見ない、めずらしいものだ。数年前、芦雪が幸之介の実家の店を密かに手伝っていた折、初めて手にした給金で幸之介から買い取ったものだった。
元々、千歳緑の紐は髪を結うには長く、帯紐にするには短い無用の品だった。出島から取り寄せた品箱の中に偶然まぎれていたのだ。
絹とはまた違った光沢と艶があり、光の加減で色味が変わって見える。外つ国由来のそれが、芦雪には宝玉の欠片を編み込んだように、たいそう美しく思えた。
――売り物にもならないものを欲しがるとは、お前ももの好きだな。
幸之介が呆れた様子で髪紐を寄越した記憶が、わずかながらに懐古を掻き立てた。
髪紐を解く。小さな衣擦れの音とともに、淡墨の髪が肩に流れ落ちる。芦雪は皺が寄った結び目を手で伸ばし、丁寧に畳んでから写楽に差し出した。
「めずらしい髪紐ではあるけど……。この絵に比べれば安価なものだぞ? いいのか?」
「はい。私はこの髪紐が良いのです」
念を押すように何度も尋ねるが、写楽は髪紐の表面を優しく撫で、唇を緩ませるだけだった。
「なぜ、報酬が髪紐なんだ?」
「……それは、秘密です」
口元でしか窺えぬ穏やかな笑みが、心の足裏をくすぐる。
写楽の人としての優しさも勿論だが、報酬の髪紐を手にした彼の素顔とその理由を、もっと知りたい。芦雪は、刹那でもそう願ってしまった。
「写楽殿。また……貴殿に会いに来ても良いか?」
髪紐を撫でていた男の指先が、かすかに跳ねた。
「その、今度は同じ直霊の絵師……いや、違うな……。そう、友人として。ただ、他愛もない話をしたいんだ。それから藤仁のことも、相談に乗ってくれたら嬉しい……」
指先を遊ばせ、しどろもどろに尋ねる。肩肘に緊張の糸を張り巡らし、返答を待てば。
「……はい。お待ちしております」
面布の下で、春月の弧がやわくほどけていく。写楽は、どこか楽しげにうなずいた。




