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天涯比隣 ~怪画絵師の祈り~【全年齢版】  作者: 百合紫陽
第二章「八重(やえ)」
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第五筆「友人」(二)


 やはり慣れないことをすると、一日というものは慌ただしく過ぎていく。

 芦雪(ろせつ)は、(ふみ)をしたためていた手を止め、障子向こうの景色を見上げた。

 自室から見える空はいつしか橙、茜、紫へと染め変えられ、活気ある人々の声も徐々に薄れ始めている。


(……もう黄昏時か。流屋の馴染みへの挨拶も書き終えたことだし、そろそろ藤仁の様子を見に行かないとな)


 筆を置き、一息こぼして腰を上げると、芦雪(ろせつ)は画室に向かった。

 昼餉の時分にも「飯を食え」と催促をしに行ったものの、結果は蓋を開けるまでもなかった。部屋の前に、藤仁の四魂と思しき白鷺(しらさぎ)が佇んでいたのだ。

 白鷺の四魂は床からしだれ柳の木を生やし、しなやかな枝先を向けて芦雪(ろせつ)を威嚇する。襖を開ける者は問答無用で鞭打つと言わんばかりであった。

 芦雪(ろせつ)には手の打ちようもなく、また藤仁が昼餉を食べに居間に現れることもなかった。


(普通、ここまでするか?)


 下絵を本絵に描き起こしている最中なのか、よほど集中を切らしたくないと見える。一体誰のために、何の絵を描いているのだろうか。

 当然ながら答えは出ない。そもそも答えがなんだろうが、芦雪(ろせつ)のやるべき事が変わるわけでもない。結局、芦雪(ろせつ)は考えることを諦めた。

 画室へ足を運ぶのは本日三度目だ。何ら変わり映えのない光景が広がっているであろうと思いきや、昼間に見た四魂の姿はなかった。画室は静謐を保ち、固く口を閉ざしている。

 芦雪(ろせつ)はそぞろ歩きで襖の前に腰を下ろし、一度息を整える。そして、朝や昼と変わらぬ調子で口を開いた。


「藤仁、今いるか?」


 返事はないが、中で何かが身じろぐ音がする。


「いるな? 開けるぞ」


 返答も待たず、芦雪(ろせつ)は襖を引いた。

 夕暮れの光を返す床板と、色濃く落ちるひとつの影。藤仁はひとり、部屋の中央に座してぼんやりと宙を見据えていた。

 手元には朝見た時のような絵道具は一切なく、綺麗に片付けられている。


「なんだ、絵はもう描き終わったのか?」


 男の顔が向く。茜が影を濃くし、整った鼻梁と目元の美しい彫りを強調している。

 しばしの間をともなって、藤仁は小さく首肯した。


「いつ?」

「……半刻〔1時間〕ほど前だ」

「そうか。それは良かった。その様子じゃ、昼餉も食べなかったんだろ。昼間に見に来た時は、『部屋に入るな』と四魂に睨まれてしまったし」

「描き終えた時に、握り飯は食べた」

「ふーん……。まぁ良くはないが、ものを口にしたなら及第点だな。作業が終わったなら夕餉にしよう。今、お松が準備してくれているようだから」


 藤仁はやはりうなずいた。朝や昼に苦戦していたのが嘘のように素直だ。

 単に作業が終わったゆえなのだろうが、幼子のような純粋な素直さが、今の芦雪(ろせつ)には嬉しく思われた。

 朝は日の出とともに起き、夜は闇が濃くなる前に眠る。三食の飯で腹を満たすことを常として、休息時にはおやつを口にする。そんな当たり前の生活が、目の前の青年には難しい。彼が筆を握り続ける限りは。

 このままでは、いつ藤仁の身体が悲鳴をあげるともわからない。壊れてからでは遅いのだ。せめて、春になる前には生活を正しておきたいのが本音だった。

 そうは言っても、彼をそこまで導く明確な方法があるわけもない。未だ先行きは暗く、不鮮明なままだ。ため息をつかずにはいられなかった。


「……あー、そうだ。言うのを忘れていたが。明日、早速だが規定通り一日暇(いとま)を頂くことになった。藤仁には関係ないことかもしれないけど、念のため知らせておくな」

「……わかった」

「本当は、休みの日でもお前についていたいのは山々なんだが……。明日は外出の予定があるから、そうもいかないし……」


 明日は、写楽に依頼した絵の納品日だ。ついに、ゆかりの行方を掴むための糸口を手にすることができる。

 まだ見ぬ絵に一縷の希望を託し、芦雪(ろせつ)は口端をもたげた。


「どこへ出かけるんだ?」


 藤仁の唇には訝しみが宿り、眉間には小峰の陰が刻まれている。出会った日以来、芦雪(ろせつ)に関心を向けることも、表情すらも崩さない男が問うてくるとは。


尋夢庵(じんむあん)の……写楽殿のところだよ。頼んでた絵を受け取りに行くんだ」

「そうか、写楽の……。そうだったな」


 藤仁の唇がやわく緩む。ほんの少しだけ、安心したような。あふれる喜びを隠すような微笑みだった。


(笑った……。写楽殿と仲が良いんだな……)


 流屋を奉公先にと紹介したのは、他ならぬ写楽だ。仲が良いのも当然だろう。

 慣れた様子で流屋の裏口に回ったり、松乃と親しげに言葉を交わしていた。それだけで、彼が兄妹と築いた関係の強さが窺えた。

 写楽なら、その名ひとつで無骨な藤仁から笑みを引き出してしまえる。それをほんの少しでも羨ましいと感じて、芦雪(ろせつ)は自身のみっともなさに目を伏せた。


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