第五筆「友人」(一)
慌ただしい夜が明け、朝日が地平から顔を覗かせている。
江戸市中の彼方まで響く鐘の音に、芦雪は瞼を上げた。
手早く身支度を済ませ、軽い足取りで藤仁の自室へ向かう。
「藤仁! おはよう!」
意気揚々と襖を開けたが、部屋に彼の姿はない。布団が敷かれた形跡も、かといって片付けられた気配もなく、部屋は冬の冷気で満ちていた。
嫌な汗が背を伝う。まさかな、と藤仁の画室に足を伸ばすと、やはり予感は当たった。
「藤仁、朝餉の時間だぞ」
中に漂う人の気配に向け、芦雪は声を張った。昨日と同じく返答はない。どうやら居留守を使うらしい。
静かに襖を開ける。芦雪の視界を埋めたのは、昨日の昼間に見た通りのものだった。
藤仁は床に置いた紙面に向き合い、一心不乱に筆を動かしている。昨日と異なる部分があるとすれば、彼の周りに幾重にも紙が散らばっていることぐらいだろう。お陰で床の色は見えず、溶けぬ雪原が広がっている。
――予想していたとはいえ、まさかここまでとは。芦雪はその場に座ったまま、再び口を開いた。
「藤仁。朝餉の時間だ」
「……」
「藤仁殿ー? 作業を一度お止めになってくださりませぬかー?」
「……ん」
「ん、じゃなくて……。もしかして、二人で話したあの後からずっと描いてるのか? まさか寝てない……? なぁ、聞いてる?」
戸惑いはすでにない。幼馴染お墨付きの図々しさを持つ芦雪は、遠慮なく言い募った。
「藤仁が請け負っている客への納品は、だいぶ先のはずだ。何も、一晩中描くほど根詰めることはないだろう」
藤仁の納品日程は、既に把握済みである。今日から始まる絵屋の折衝役や目付けに備え、昨日店を閉めた後、松乃から聞き出していたのだ。
目付けとしては当然のことだ。藤仁の動きを把握しておくことで、不摂生な生活に口出ししやすくなる。
藤仁にとっては小言にも聞こえるだろうが、これは芦雪が松乃から与えられた責務だ。流屋の折衝役と目付役で、給金と衣食住を提供してもらうことになるのだから、嫌がられようが全うするほかあるまい。
藤仁は絵から目を外さない。芦雪は立ち上がって画室に入り、藤仁の真正面に座った。
何の絵を描いているのかと、しげしげと紙面を覗きこむ。
藤仁が描いているのは、どうやら下絵のようだった。桜や梅などの春の花木に、その枝々に留まる小禽たちが墨で緻密に再現され、とても本絵に入る前段階のものとは思えない。
辺りに散らばるどの紙上にも、十数個の下絵が描かれている。そのほとんどが、花鳥図や草花図で占められていた。
(絵の構想を練るためだけに、こんなに描いたのか……。それも一晩で……)
彼は一体、これから何の絵を描くつもりなのだろう。今描いているものを本絵にするとも限らないため、なおさら興味をそそられる。
そもそも、誰のために描く絵なのか。これほど根を詰めて描いているのだから、相当大切な……あるいは上客に違いない。
芦雪は、藤仁が受け持つ納品先をずらりと思い浮かべた。藤仁の後援者でもある大阪の蝋商人、もしくは最近納品の多い江戸の呉服屋か。けれど、そのどれもが納品の日程上は当てはまらないようにも思われる。
視線を宙に置いて考え込んでいると、藤仁の頭が目に入る。黒鳶色をかき分けるつむじが、瞳の代わりに芦雪を見つめていた。
藤仁に対する少しの不満と、それを発散させるための悪戯心が同時にくすぐられていく。
藤仁をからかったら、彼はどんな顔をするのだろう。想像しただけで、にんまりと口端が引き上がる。芦雪は欲のままに、人差し指を伸ばして藤仁のつむじに触れ、軽く押した。
「ふ・じ・ひ・と! あ・さ・げ!」
さすがに無視しようがなかったらしい。紙上を走っていた筆先は動きを止めた。
「……少し待て」
「そう言って、昨日も昼餉を食べてなかったんだ。夕餉も後から食べたんだって?」
「今食べなくても問題ない。腹が空いたら食べる」
「そういう問題じゃない」
一度止まったはずの絵筆は既に走り出している。妹の松乃が手を焼く理由が、ほんの少し垣間見えた。
こうとなれば、実力行使に出るほかあるまいて。
芦雪は、藤仁の手元に丁寧に並べられた数本の筆や、顔料がこびり付いた絵皿に手を伸ばした。彼に気づかれぬように、絵筆と絵皿を各々ひとつずつ、慎重に取り上げていく。
墨の乗った絵皿を手に取ったところで、藤仁はようやく手元の異変に気づいた。
「……芦雪。それを返せ」
藤仁と視線が交わる。それだけでなく、初めて名を呼ばれた。
些細な事実が何やら面映い。芦雪は調子よく人差し指を立てた。
「絵師と言えど、身体が第一だぞ。それを蔑ろにするのなら、ずっとここに居座って邪魔してやる」
「俺はお前の目付け役だからな」と付け加え、薄い胸板を張って見せた。
海よりも深く吐かれた男の息が紙上に落ち、筆が置かれる。芦雪の表情には、瞬時に明かりが灯った。
ようやく朝餉を食べる気になったのか。邪魔をした甲斐があったというものだ。
藤仁は部屋の隅にある文机のそばへ移動すると、なぜか机上の画帳を手に取った。違和感を覚える芦雪をよそに、男は軽やかに頁をめくる。
「──紫季。来い」
藤仁が名を呼んだ瞬間、開いた頁は紅の光で満たされ、赤錆色のもやが表出する。嫌な気配に後ずさりしてももう遅い。葛花の蔓が勢いよく顕現し、芦雪の身体は瞬時に絡めとられた。
両足をばたつかせるも空を切るばかりで、何の抵抗にもならない。芦雪は悔しまぎれに叫んだ。
「四魂を使うなんて卑怯だぞ!」
「紫季。このいたずら坊主をつまみ出せ」
「ちょ、藤仁!?」
芦雪は藤仁の四魂によって部屋から追い出され、廊下に転がされる。しまいには二度と開けるなと言わんばかりに、音をたてて襖を閉められてしまった。
「藤仁! 藤仁ってば! 癇癪起こしてないで飯を食え!」
「いらん」
すぐさま襖を開けようとしたが、一寸も動かない。大方、葛の四魂が邪魔をしているのだろう。
(くっ……。なんて頑固なんだ……!)
しばし開かずの襖と格闘したものの、開く気配はない。完敗である。
芦雪は襖にかけていた指を離し、肩を落とした。
ここまで頑なに籠城されては、手の出しようもない。芦雪も四魂を出して応戦しても良かったが、それでは意味がないような気がした。
いくら待っても、襖は静寂を保ったままだ。それが恨めしく、芦雪は襖向こうを睨みながら画室を後にした。
朝餉の時点でこうも抵抗されては、昼餉や夕餉もどうなるか分かったものではない。歩くたびに重さを増す鉛のような足を引きずり、芦雪は居間に向かった。
「あら、芦雪様。いかがなさいましたか? 兄上は……」
居間に入ると、膳を持った松乃が声をかけてきた。彼女を引き止めるのも憚られ、肩を竦めてみせる。
「……やはり、今朝も負けてしまったようですね」
松乃は二人分の膳を置き、苦笑を漏らした。
膳の上に腰をすえるのは、炊きたての白米と味噌汁、蕪の漬物に煮豆だ。
味噌汁からはほのかに柚子の香りがたつ。膳の前に腰を下ろし、汁の中をしげしげと観察する。菜のものと豆腐、納豆の頭がちらりと覗く。近頃江戸で流行しているという「納豆汁」仕様だった。
一方、艷めく白米もふっくらと山状に盛られており、やわい湯気を放っている。蕪の漬物とともに熱々のそれを口に含めば、絶妙な甘みを引き立てるに違いない。
西の方では昼に白米を一気に炊き、夜と翌朝に漬物とともに冷や飯を食べる。文化の違いとはいえ、朝から温かい白飯を食べるのは、贅沢なことのように思えた。
なぜ、かように美味そうなものをわざわざ抜くのか。到底理解できない。
「……大体、食うことは生きることだぞ。絵師だって、腕が動かせなけりゃ絵を描けない。腕を動かすには力がいる。その力は、食べることで生み出される。なのに……どうしてあんなにも頑ななんだ。このままでは身体を壊してしまう……」
芦雪の苦言に同意するように、松乃は対面に座ってため息をついた。
「おっしゃる通りです。でも、私が言っても聞かなくて……。兄上は一度自分の世界に入ってしまうと、それ以外、目に入らなくなる節がありますゆえ……」
とはいえ、藤仁の絵への入れ込み具合は異常だ。何が彼を絵の世界へ駆り立てるのか。
(絵師としての使命感? 絵への前向きな感情? それとも……強迫観念……?)
ここで様々な推測を立てようが、それらを事実と照合する術はどこにもない。芦雪は額に手を当て、「これは厄介だな……」と呟いた。
「それにしても……。家族以外の芦雪様がおっしゃるならあるいは……、とも思ったのですが……。あの不精具合は相当根深いようです。本当に困ったものだわ」
藤仁とよく似た目元が伏せられる。
困った人を見ると、どうにか助けてやりたいと気が急いてしまう。芦雪は、厚いとは言いがたい胸元をわざとらしく叩いてみせた。
「この芦雪兄さんに任せなさい。あの不精者の生活を何とかしてみせるさ」
「ふふ。頼もしい限りです。……失礼ですが、もう一人兄ができたようで嬉しいです」
「失礼なんかじゃない。むしろ嬉しいよ。俺にも年の離れた弟がいるから、こうしたやり取りも懐かしいしな。……そういや、藤仁と松乃殿はいくつ離れているんだ?」
「六つです。私が十五ですから、兄は今二十一です」
「お! ということは、三人の中では俺が一番兄上だな! 俺は二十三だから」
藤仁の落ち着いた風貌から、彼は芦雪と同い年か、むしろひとつ上かと思っていたが、どうやら違ったらしい。
――やはり兄貴分である己が、弟妹らの面倒をみてやらねばなるまいて。
芦雪は腹から湧き上がる熱を飲み込み、お節介な意気込みを新たにした。
「芦雪兄上様。では、私のことはお松と呼んでくださいな。兄上だけ呼び捨てで、私には敬称付きだなんて、なんだか寂しいもの」
「……それもそうだな。ではお言葉に甘えて。お松、改めてよろしく頼むよ」
「はい。兄共々、よろしくお願いいたします」
冬の淡雪が溶けてしまうような笑み。それは愛らしいと評すにふさわしいものだった。
もし、自分に妹がいたら。今のように手放しで愛いと、そう思ってしまうのだろうか。
明確な形を成しつつある情に突き動かされ、芦雪は郷里の弟にしていたように、松乃の頭に手を伸ばした。
(いや、まだ出会ったばかりの相手に対して、あまりに馴れ馴れしすぎるだろう……)
理性が耳元で囁く。半端に宙を彷徨っていた手は、膝上に引き戻された。
藤仁とも、兄弟のように仲良くなれたなら。これでもかというほどに可愛がって、頭を撫でてやりたいと思うようになるのだろうか。
(……まぁ、まずは仲良くなれるように頑張らないとだな)
先の見えない細い縁に息をこぼし、芦雪は膳に目を戻した。
「生憎と藤仁はいないが、冷めないうちに朝餉を頂こうかな。一人で飯を食うのも味気ないし、お松も一緒に食べよう。君たちの御母堂はまだ準備をされているのか?」
おっとりと微笑を湛える兄妹の母、野菊。兄妹と同じ黒鳶色の髪と瞳を持つ彼女は、血の縁をしみじみと感じてしまうほど、二人によく似た容貌をしている。なまじ二人の子を持つ母とは思えぬほどの瑞々しさもあり、年齢の淡いも曖昧なように思えるひとだった。
普段は松乃とともに絵屋で忙しなく働いているようで、絶えず彼女の隣にその身を置いている印象がある。今朝はその姿が見えない。
棟梁であり夫である琳也や番頭が店を不在にしているため、現状、野菊が店を切り盛りしている。今も、彼女は開店準備で慌ただしく働いているのやもしれなかった。
「店の準備をされているのなら、俺も手伝った方が良いだろう。その方が朝餉も皆で早く食べられるだろうし……」
「あぁ、いえ。母は既に朝餉を済ませたようですから、ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。それに、今は準備を終えて帳簿の確認をしているようです。お気遣い頂き、ありがとうございます」
松乃は瞼を伏せ、「少し寂しいですが、朝餉は二人で頂きましょう」と手を合わせた。
松乃の母ともなると、やはり働き者なのだ。芦雪が目を覚ますよりも前に早々と起き、二人の我が子や芦雪のために朝餉の支度に取り掛かっていたのだろう。今後受けていくであろう恩も合わせて、それに報いるだけの仕事はせねばなるまい。
芦雪も松乃と同様に手を合わせて箸を手に取ると、膳の上で待ちわびるものたちに箸先を伸ばした。
「明日こそ、藤仁に三食きっちり食べさせるぞ。こんなにも美味い朝餉を用意してくれている野菊殿や、お松にも失礼だからな。……ま、その前に、今日の昼餉と夕餉を食べさせるのが先だが」
白米を口の中に運びながら、頑固者の顔を思い浮かべる。藤仁と親しくなりたいという気持ちよりも前に、お目付け役としての使命感が湧きたち始めていた。
「今に見てろ、四魂で抵抗する暇もないくらいに俺が……」と呟いていると、松乃は箸先をぴたりと止めた。
「芦雪様。明日のご奉公はお休みですよ。昨日今日と、二日働いて頂くことになるので」
「二日に一度はお休みをして頂く、流屋のお勤め体制をお忘れですか?」と続けて尋ねられ、昨日聞いたばかりの言葉を思い出す。
「あー……」
出鼻をくじかれるとは、まさにこのことである。腹の底で煮えつつあった意気は、途端に萎んでしまった。




