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天涯比隣 ~怪画絵師の祈り~【全年齢版】  作者: 百合紫陽
第二章「八重(やえ)」
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第五筆「友人」(一)


 慌ただしい夜が明け、朝日が地平から顔を覗かせている。

 江戸市中の彼方まで響く鐘の()に、芦雪(ろせつ)は瞼を上げた。

 手早く身支度を済ませ、軽い足取りで藤仁の自室へ向かう。


「藤仁! おはよう!」


 意気揚々と襖を開けたが、部屋に彼の姿はない。布団が敷かれた形跡も、かといって片付けられた気配もなく、部屋は冬の冷気で満ちていた。

 嫌な汗が背を伝う。まさかな、と藤仁の画室に足を伸ばすと、やはり予感は当たった。


「藤仁、朝餉の時間だぞ」


 中に漂う人の気配に向け、芦雪(ろせつ)は声を張った。昨日と同じく返答はない。どうやら居留守を使うらしい。

 静かに襖を開ける。芦雪(ろせつ)の視界を埋めたのは、昨日の昼間に見た通りのものだった。

 藤仁は床に置いた紙面に向き合い、一心不乱に筆を動かしている。昨日と異なる部分があるとすれば、彼の周りに幾重にも紙が散らばっていることぐらいだろう。お陰で床の色は見えず、溶けぬ雪原が広がっている。

 ――予想していたとはいえ、まさかここまでとは。芦雪(ろせつ)はその場に座ったまま、再び口を開いた。


「藤仁。朝餉の時間だ」

「……」

「藤仁殿ー? 作業を一度お止めになってくださりませぬかー?」

「……ん」

「ん、じゃなくて……。もしかして、二人で話したあの後からずっと描いてるのか? まさか寝てない……? なぁ、聞いてる?」


 戸惑いはすでにない。幼馴染お墨付きの図々しさを持つ芦雪(ろせつ)は、遠慮なく言い募った。


「藤仁が請け負っている客への納品は、だいぶ先のはずだ。何も、一晩中描くほど根詰めることはないだろう」


 藤仁の納品日程は、既に把握済みである。今日から始まる絵屋の折衝役や目付けに備え、昨日店を閉めた後、松乃から聞き出していたのだ。

 目付けとしては当然のことだ。藤仁の動きを把握しておくことで、不摂生な生活に口出ししやすくなる。

 藤仁にとっては小言にも聞こえるだろうが、これは芦雪(ろせつ)が松乃から与えられた責務だ。流屋の折衝役と目付役で、給金と衣食住を提供してもらうことになるのだから、嫌がられようが全うするほかあるまい。

 藤仁は絵から目を外さない。芦雪(ろせつ)は立ち上がって画室に入り、藤仁の真正面に座った。

 何の絵を描いているのかと、しげしげと紙面を覗きこむ。

 藤仁が描いているのは、どうやら下絵のようだった。桜や梅などの春の花木に、その枝々に留まる小禽たちが墨で緻密に再現され、とても本絵に入る前段階のものとは思えない。

 辺りに散らばるどの紙上にも、十数個の下絵が描かれている。そのほとんどが、花鳥図や草花図で占められていた。


(絵の構想を練るためだけに、こんなに描いたのか……。それも一晩で……)


 彼は一体、これから何の絵を描くつもりなのだろう。今描いているものを本絵にするとも限らないため、なおさら興味をそそられる。

 そもそも、誰のために描く絵なのか。これほど根を詰めて描いているのだから、相当大切な……あるいは上客に違いない。

 芦雪(ろせつ)は、藤仁が受け持つ納品先をずらりと思い浮かべた。藤仁の後援者でもある大阪の蝋商人、もしくは最近納品の多い江戸の呉服屋か。けれど、そのどれもが納品の日程上は当てはまらないようにも思われる。

 視線を宙に置いて考え込んでいると、藤仁の頭が目に入る。黒鳶色をかき分けるつむじが、瞳の代わりに芦雪(ろせつ)を見つめていた。

 藤仁に対する少しの不満と、それを発散させるための悪戯心が同時にくすぐられていく。

 藤仁をからかったら、彼はどんな顔をするのだろう。想像しただけで、にんまりと口端が引き上がる。芦雪(ろせつ)は欲のままに、人差し指を伸ばして藤仁のつむじに触れ、軽く押した。


「ふ・じ・ひ・と! あ・さ・げ!」


 さすがに無視しようがなかったらしい。紙上を走っていた筆先は動きを止めた。


「……少し待て」

「そう言って、昨日も昼餉を食べてなかったんだ。夕餉も後から食べたんだって?」

「今食べなくても問題ない。腹が空いたら食べる」

「そういう問題じゃない」


 一度止まったはずの絵筆は既に走り出している。妹の松乃が手を焼く理由が、ほんの少し垣間見えた。

 こうとなれば、実力行使に出るほかあるまいて。

 芦雪(ろせつ)は、藤仁の手元に丁寧に並べられた数本の筆や、顔料がこびり付いた絵皿に手を伸ばした。彼に気づかれぬように、絵筆と絵皿を各々ひとつずつ、慎重に取り上げていく。

 墨の乗った絵皿を手に取ったところで、藤仁はようやく手元の異変に気づいた。


「……芦雪(ろせつ)。それを返せ」


 藤仁と視線が交わる。それだけでなく、初めて名を呼ばれた。

 些細な事実が何やら面映い。芦雪(ろせつ)は調子よく人差し指を立てた。


「絵師と言えど、身体が第一だぞ。それを蔑ろにするのなら、ずっとここに居座って邪魔してやる」


「俺はお前の目付け役だからな」と付け加え、薄い胸板を張って見せた。

 海よりも深く吐かれた男の息が紙上に落ち、筆が置かれる。芦雪(ろせつ)の表情には、瞬時に明かりが灯った。

 ようやく朝餉を食べる気になったのか。邪魔をした甲斐があったというものだ。

 藤仁は部屋の隅にある文机のそばへ移動すると、なぜか机上の画帳を手に取った。違和感を覚える芦雪(ろせつ)をよそに、男は軽やかに頁をめくる。

「──紫季(しき)。来い」

 藤仁が名を呼んだ瞬間、開いた頁は紅の光で満たされ、赤錆色のもやが表出する。嫌な気配に後ずさりしてももう遅い。葛花の蔓が勢いよく顕現し、芦雪(ろせつ)の身体は瞬時に絡めとられた。

 両足をばたつかせるも空を切るばかりで、何の抵抗にもならない。芦雪(ろせつ)は悔しまぎれに叫んだ。


「四魂を使うなんて卑怯だぞ!」

「紫季。このいたずら坊主をつまみ出せ」

「ちょ、藤仁!?」


 芦雪(ろせつ)は藤仁の四魂によって部屋から追い出され、廊下に転がされる。しまいには二度と開けるなと言わんばかりに、音をたてて襖を閉められてしまった。


「藤仁! 藤仁ってば! 癇癪起こしてないで飯を食え!」

「いらん」


 すぐさま襖を開けようとしたが、一寸も動かない。大方、葛の四魂が邪魔をしているのだろう。


(くっ……。なんて頑固なんだ……!)


 しばし開かずの襖と格闘したものの、開く気配はない。完敗である。

 芦雪(ろせつ)は襖にかけていた指を離し、肩を落とした。

 ここまで頑なに籠城されては、手の出しようもない。芦雪(ろせつ)も四魂を出して応戦しても良かったが、それでは意味がないような気がした。

 いくら待っても、襖は静寂を保ったままだ。それが恨めしく、芦雪(ろせつ)は襖向こうを睨みながら画室を後にした。

 朝餉の時点でこうも抵抗されては、昼餉や夕餉もどうなるか分かったものではない。歩くたびに重さを増す鉛のような足を引きずり、芦雪(ろせつ)は居間に向かった。


「あら、芦雪(ろせつ)様。いかがなさいましたか? 兄上は……」


 居間に入ると、膳を持った松乃が声をかけてきた。彼女を引き止めるのも憚られ、肩を竦めてみせる。


「……やはり、今朝も負けてしまったようですね」


 松乃は二人分の膳を置き、苦笑を漏らした。

 膳の上に腰をすえるのは、炊きたての白米と味噌汁、(かぶ)の漬物に煮豆だ。

 味噌汁からはほのかに柚子の香りがたつ。膳の前に腰を下ろし、汁の中をしげしげと観察する。菜のものと豆腐、納豆の頭がちらりと覗く。近頃江戸で流行しているという「納豆汁」仕様だった。

 一方、艷めく白米もふっくらと山状に盛られており、やわい湯気を放っている。(かぶ)の漬物とともに熱々のそれを口に含めば、絶妙な甘みを引き立てるに違いない。

 西の方では昼に白米を一気に炊き、夜と翌朝に漬物とともに冷や飯を食べる。文化の違いとはいえ、朝から温かい白飯を食べるのは、贅沢なことのように思えた。

 なぜ、かように美味そうなものをわざわざ抜くのか。到底理解できない。


「……大体、食うことは生きることだぞ。絵師だって、腕が動かせなけりゃ絵を描けない。腕を動かすには力がいる。その力は、食べることで生み出される。なのに……どうしてあんなにも頑ななんだ。このままでは身体を壊してしまう……」


 芦雪(ろせつ)の苦言に同意するように、松乃は対面に座ってため息をついた。


「おっしゃる通りです。でも、私が言っても聞かなくて……。兄上は一度自分の世界に入ってしまうと、それ以外、目に入らなくなる節がありますゆえ……」


 とはいえ、藤仁の絵への入れ込み具合は異常だ。何が彼を絵の世界へ駆り立てるのか。


(絵師としての使命感? 絵への前向きな感情? それとも……強迫観念……?)


 ここで様々な推測を立てようが、それらを事実と照合する術はどこにもない。芦雪(ろせつ)は額に手を当て、「これは厄介だな……」と呟いた。


「それにしても……。家族以外の芦雪(ろせつ)様がおっしゃるならあるいは……、とも思ったのですが……。あの不精具合は相当根深いようです。本当に困ったものだわ」


 藤仁とよく似た目元が伏せられる。

 困った人を見ると、どうにか助けてやりたいと気が急いてしまう。芦雪(ろせつ)は、厚いとは言いがたい胸元をわざとらしく叩いてみせた。


「この芦雪(ろせつ)兄さんに任せなさい。あの不精者の生活を何とかしてみせるさ」

「ふふ。頼もしい限りです。……失礼ですが、もう一人兄ができたようで嬉しいです」

「失礼なんかじゃない。むしろ嬉しいよ。俺にも年の離れた弟がいるから、こうしたやり取りも懐かしいしな。……そういや、藤仁と松乃殿はいくつ離れているんだ?」

「六つです。私が十五ですから、兄は今二十一です」

「お! ということは、三人の中では俺が一番兄上だな! 俺は二十三だから」


 藤仁の落ち着いた風貌から、彼は芦雪(ろせつ)と同い年か、むしろひとつ上かと思っていたが、どうやら違ったらしい。

 ――やはり兄貴分である己が、弟妹らの面倒をみてやらねばなるまいて。 

 芦雪(ろせつ)は腹から湧き上がる熱を飲み込み、お節介な意気込みを新たにした。


芦雪(ろせつ)兄上様。では、私のことはお松と呼んでくださいな。兄上だけ呼び捨てで、私には敬称付きだなんて、なんだか寂しいもの」

「……それもそうだな。ではお言葉に甘えて。お松、改めてよろしく頼むよ」

「はい。兄共々、よろしくお願いいたします」


 冬の淡雪が溶けてしまうような笑み。それは愛らしいと評すにふさわしいものだった。

 もし、自分に妹がいたら。今のように手放しで愛いと、そう思ってしまうのだろうか。

 明確な形を成しつつある情に突き動かされ、芦雪(ろせつ)は郷里の弟にしていたように、松乃の頭に手を伸ばした。


(いや、まだ出会ったばかりの相手に対して、あまりに馴れ馴れしすぎるだろう……)


 理性が耳元で囁く。半端に宙を彷徨っていた手は、膝上に引き戻された。

 藤仁とも、兄弟のように仲良くなれたなら。これでもかというほどに可愛がって、頭を撫でてやりたいと思うようになるのだろうか。


(……まぁ、まずは仲良くなれるように頑張らないとだな)


 先の見えない細い縁に息をこぼし、芦雪(ろせつ)は膳に目を戻した。


「生憎と藤仁はいないが、冷めないうちに朝餉を頂こうかな。一人で飯を食うのも味気ないし、お松も一緒に食べよう。君たちの御母堂はまだ準備をされているのか?」


 おっとりと微笑を湛える兄妹の母、野菊。兄妹と同じ黒鳶色の髪と瞳を持つ彼女は、血の(えにし)をしみじみと感じてしまうほど、二人によく似た容貌をしている。なまじ二人の子を持つ母とは思えぬほどの瑞々しさもあり、年齢の淡いも曖昧なように思えるひとだった。

 普段は松乃とともに絵屋で忙しなく働いているようで、絶えず彼女の隣にその身を置いている印象がある。今朝はその姿が見えない。

 棟梁であり夫である琳也や番頭が店を不在にしているため、現状、野菊が店を切り盛りしている。今も、彼女は開店準備で慌ただしく働いているのやもしれなかった。


「店の準備をされているのなら、俺も手伝った方が良いだろう。その方が朝餉も皆で早く食べられるだろうし……」

「あぁ、いえ。母は既に朝餉を済ませたようですから、ご心配なさらずとも大丈夫ですよ。それに、今は準備を終えて帳簿の確認をしているようです。お気遣い頂き、ありがとうございます」


 松乃は瞼を伏せ、「少し寂しいですが、朝餉は二人で頂きましょう」と手を合わせた。

 松乃の母ともなると、やはり働き者なのだ。芦雪(ろせつ)が目を覚ますよりも前に早々と起き、二人の我が子や芦雪(ろせつ)のために朝餉の支度に取り掛かっていたのだろう。今後受けていくであろう恩も合わせて、それに報いるだけの仕事はせねばなるまい。

 芦雪(ろせつ)も松乃と同様に手を合わせて箸を手に取ると、膳の上で待ちわびるものたちに箸先を伸ばした。


「明日こそ、藤仁に三食きっちり食べさせるぞ。こんなにも美味い朝餉を用意してくれている野菊殿や、お松にも失礼だからな。……ま、その前に、今日の昼餉と夕餉を食べさせるのが先だが」


 白米を口の中に運びながら、頑固者の顔を思い浮かべる。藤仁と親しくなりたいという気持ちよりも前に、お目付け役としての使命感が湧きたち始めていた。

「今に見てろ、四魂で抵抗する暇もないくらいに俺が……」と呟いていると、松乃は箸先をぴたりと止めた。


芦雪(ろせつ)様。明日のご奉公はお休みですよ。昨日今日と、二日働いて頂くことになるので」

「二日に一度はお休みをして頂く、流屋のお勤め体制をお忘れですか?」と続けて尋ねられ、昨日聞いたばかりの言葉を思い出す。


「あー……」


 出鼻をくじかれるとは、まさにこのことである。腹の底で煮えつつあった意気は、途端に萎んでしまった。

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