第四筆「比隣」(二)
松乃の案内によりたどり着いた先で、芦雪は立ち尽くしていた。
二人のいた客間から、薄暗く長い廊下を渡らねば現れぬ部屋。母屋の中でも、さらに人目から隠すような位置にそれはあった。
「芦雪様。こちらが兄の画室です」
部屋の襖は、主の性格を表すかの如く固く閉ざされている。本当に中に人がいるのかと疑いたくなるほど、画室は森閑としていた。
(この襖の向こうに……藤仁殿が……)
藤仁は今、部屋の中でひとり、注文を受けた絵を描いている最中のようだった。
流屋では店の二階が工房に当たり、流屋に属する絵師らは工房に集まって絵を制作する。
だが藤仁だけは、母屋の画室で絵を描くことになっているのだと松乃は説明した。
「兄は先生……棟梁である琳也の唯一の内弟子で、筆頭絵師として大口のお客様を数人請け負っておりますから、先生が特別にお部屋を与えてくださったのです。私たち兄妹が先生の養子だから、というのもあるとは思いますが……」
言葉尻には、「琳也は可愛い養子に甘いのだ」と苦笑が混じっているのが見て取れた。
彼女は開かずの襖に目を向け、満足気に笑みを深くすると、「では、あとはよろしくお願いいたします」と言い残して店に戻って行った。
部屋の前にひとり残され、芦雪は廊下に腰を下ろした。
恐る恐る、襖の縁に指を掛ける。喉奥を生唾が伝い、儚げな表情が脳裏によみがえる。
もし、再びあの顔を向けられたら。自分はどうするべきなのだろうか。明確な答えは、芦雪の中に欠片すら存在していない。だからと言って、部屋の前でたたらを踏んでばかりもいられまい。
簡単なことだ。襖を桟に沿って引き、声を掛けるのみ。頭を悩ませるほど難しいことではない。己が恐れている藤仁の未来の反応も、暗鬱としたものではなかろう。看病の際の芦雪への接し方を鑑みるに、むしろ前向きなものが返ってくる可能性の方が高い。
歳も近そうであったし、幾らか言葉を交わせば自ずと先行きも推し量れよう。彼が江戸で初めての友になることも十分にありうる。
募る期待を裡に宿し、芦雪は意を決して声を投げた。
「……もし! 藤仁殿はおいでか?」
しばし反応を待つ。三度瞬きができる程の時が経つも、返事はない。
再び大きく息を吸い込む。芦雪は、隔たれた襖越しにもはっきりと通る声を発した。
「本日から流屋で世話になる芦雪だ。改めてご挨拶をしたく!」
用件を伝えるが、やはり返答はない。
「藤仁殿?」
名を呼ぶも、彼が応えることはなかった。
(……まさか、倒れてたりしないよな?)
寝食を忘れて絵に向き合うような人間だ。彼も気づかぬうちに空腹や心労がその身に忍び寄り、音もなく襲いかかっていやしないだろうか。
――それこそ、誰かに悟られることもなく、ひとり倒れ伏しているのではないだろうか。
恐ろしい想像が頭の中を占め、嫌な汗が芦雪の背中を伝った。
「すまない、開けるぞ!」
芦雪は、指をかけるのさえ戸惑っていた襖を勢いよく開け放った。
和紙を透かした薄黄が淡く視界を埋める。目を眇めて部屋を見渡せば、求めていた青年の姿があった。
紙上を走る清冽な音が画室を漂う。男は床に横たわる大きな紙面に向き合い、乱れのない流麗な動作で筆先を動かしている。彼の面持ちは横顔からでも分かるほどに真剣味を帯び、何者も寄せつけぬ空気をまとっていた。
(……綺麗だな)
ごく素直な感想だった。心の湖面をかすかに震える。黒鳶の瞳に鋭利な冷たさをも孕ませつつ、ただ静かに、ひたむきに絵を描く藤仁の姿こそが一枚の絵のようだった。
芦雪は襖の縁に指をかけたまま、しばらく眼前の光景に見惚れていた。
「……長澤様。何かございましたか?」
藤仁は芦雪に目を向けた。
彼の耳にかかっていた一房の髪が、はらりと流れ落ちる。自然に引き起こされたその動作すらも、浮世のものではない幽玄さを醸し出しているようだった。
「あっ、いや……。邪魔をしてすまない。改めての挨拶と礼を……そうだ、昼餉はどうするのかと、松乃殿から仰せつかってな!」
見惚れていた、などと本人に言えるはずもない。その場しのぎの笑みは、きっとひどい形に歪んでいるに違いなかった。
けれど、藤仁は顔色を変えることもなく絵に目を戻しながら言った。
「……昼餉はいらないと、松乃にお伝え頂けますか。しばらく集中したいので」
飾り気のない態度で断りを口にすると、藤仁は芦雪に見向きもしなくなった。芦雪がその場に座り込んでいようが、見つめていようが、顔を上げる気配はない。
(……それだけ?)
藤仁に「心配した」と言って欲しかったわけではない。だが、他に何か言うことはないのだろうか。
身体はもう大丈夫なのか、とか。これからよろしく、だとか。……元気そうな顔を見られて良かった、とも。
(なんだ……。あれは見間違いだったのか……)
ひとときとはいえ、泣き出しそうな顔をするほどに芦雪のことを案じていた。そう思い込んでいた。気を失う前に目にした彼は、夢幻だったのだ。
現実の藤仁にとって、芦雪はやはりたまたま助けてやっただけの人間に過ぎないのだろう。出会ったばかりなのだから当然だ。一体、何を期待していたのか。
「承知、した……」
身勝手な暗雲が心に影を落とす。芦雪はまた声をかけると一言付け加え、襖を閉めた。
(馬鹿みたいだ……)
襖に背を預ける。強ばった身体から力が抜けていくと同時に、このやり取りがきっかけで仲良くなれるやもと夢想していた先刻までの自分が、あまりに滑稽に思えた。
「本当に恥ずかしいやつだな、俺は……」
吐き出す自嘲の声すら恥ずかしい。頬の熱を移そうと、両手で顔を覆い隠す。「お前は、少し好意を向けられただけですぐ調子に乗るところが駄目なんだ」と、頭の中で郷里の幼馴染が小うるさく説教を垂れていた。今日ばかりはその通りとしか言えず、芦雪はますますため息を深くした。
(……あー。もう考えるのはやめだ、やめ。松乃殿の所へ行こう。今からでも手伝えることがあるなら、手伝った方が良いな。……うん、それが良い)
いつまでも熱が冷めないのなら、何も思考できぬほどに身体を動かしたい。今すぐに。
芦雪は、松乃が消えた方へと歩を進めた。




