第四筆「比隣」(一)
一寸先も見えぬ、闇で満たされた場所。ぬばたまの水面に身を浮かべ、芦雪の意識はあてもなくたゆたっていた。冬の湖面を漂う、小さな枯葉にでもなった気分だ。
(起き、ないと……)
不可思議な焦燥感が胸を巣食う。二度、三度と視界は瞬き、黒が歪んだ。
熱を失った指先をかすかに動かす。けれど、動く意思を強めるほど、自由は重しとなって芦雪の身体を水底へ導き始めた。
(寒い……)
口端からこぼれた息はきらめく粒となり、芦雪を置いて水面へと上がっていく。
光が遠い。このまま、身体は闇に溶けてしまうのだろうか。それもまた、ひとつの安寧の形なのやもしれない。
虚と寒さに身をゆだねる。と、背に一筋の温もりが触れた。
下へ下へと引き寄せられていた身体は、何かに抱き留められている。視界もままならぬ間に、乾いた唇には小さな熱が舞い降りていた。
ゆっくりと、愛おしむようになぞられる。何者かの指先のようだった。
それはやがて唇から頬へ、最後に芦雪の手に触れる。手のひらがやわく重なり合い、互いの感触を食む。冷えて固くなったはずの指先は、己以外の体温にほぐれていた。
(俺に触れる君は……)
――誰。手を伸ばした先に、求めた人影はない。見知らぬ木目調の天井が、淡々とした様子で芦雪を出迎えていた。
「……ここ……は……」
迫る闇も水の気配も消え失せ、ただ静謐のみが場を支配している。目に映る天井は宿のものではなかったが、どこか危険な場所に転がされているわけでもないようだった。現に、芦雪を丁寧に包む夜着が、それを物語っている。
薄闇に包まれた部屋は行灯の光に照らされ、人々の喧騒も鳴りを潜めている。昼は夜に呑まれて、地平に消えてしまったようだった。ずいぶんと長い間、夢の中にいたのだろう。
(あれは……誰、だったんだろう……)
見知らぬ者の足跡をたどるように、唇に触れる。
夢から出てこられたことへの安堵、不意に触れた温もりへの名残惜しさが、静かにそこに宿っていた。
「気がつかれましたか」
馴染みのない声にはっとする。目を向けた先には、一人の青年が端座していた。
青年の背後で明かりが揺れ、彼の輪郭に影を添える。目覚めたばかりの芦雪の様子を窺っているのか、青年はちいさく頭を傾げている。黒鳶色の長い髪がさらりと肩からしなだれ落ち、季節外れの藤花の香りがたった。
固く引き結ばれた薄い唇は、彼の性格を如実に表しているようだったが、髪色と同じ切れ長の瞳には熱が差し、矛盾を感じさせた。
「……誰……?」
青年はかすかに口端を緩め、ほっと息を吐いた。
「……私は住吉藤仁。松乃の兄です」
「松乃殿の……。ここは……」
「流屋の母屋です。写楽に呼ばれて私が居間に入った際、長澤様がお倒れに……」
「そう、だったか……。そうか……俺は、倒れたのか……」
波打つ面布の白と、柳色の背中が脳裏に浮かぶ。
写楽に導かれるまま、芦雪は流屋にたどり着いた。彼の紹介で松乃に出会い、彼女から今後の話を聞こうとした。真新しい記憶が、動きの鈍い思考にそう囁いている。
だが、以降の記憶は途絶えている。鮮やかな反物が裁断されたように間断しているのだ。
松乃の兄だと名乗る青年──藤仁が居間に入ってきた折に倒れたのだと聞かされたが、とんと思い出せない。なぜ倒れたのかすら。芦雪は、布団の中で小さく首を傾げた。
「旅の疲れが溜まっていたのでしょう。……貴方は元々、身体が丈夫でないようだから」
芦雪の夜着をかけ直しながら、藤仁は最もな推測を言って聞かせた。
「今はもう、夜も更けてきた頃です。今宵はそのままお休み下さい」
「でも……宿に、荷が……」
掠れた声が静かな部屋に落ちる。藤仁は長いまつげを伏せてそれを受け止めると、夜着の上にそっと手を置いた。
「ご心配なさらず。写楽が引き取り、既に宿の者にも話をつけたそうです」
「そうか……。ありがとう……」
「今は、ゆっくり身体を休めて。──夢も見られぬほどに」
瞼の上に手をかざされ、揺らめく明かりは消え失せる。作られた薄闇に導かれるままに、芦雪は目を閉じた。
ぬばたまに溶けていく夢を見たくはないが、温もりを分け合ったあの人影に、もう一度会えるのなら。それも悪くないのかもしれない。
芦雪は身体のしがらみから離れ、再び眠りについた。
意識を手放す直前、額に触れる無骨な手の影に、淡い翡翠色の光芒を見た気がした。
(ここは……)
鳥のさえずりが耳朶に触れる。開けたばかりの眼は霞んでいた。
ゆっくりと瞬きを繰り返せば、物の輪郭は徐々に鮮明になっていく。目覚めたばかりの芦雪を一番に出迎えたのは、やはり見慣れぬ天井だった。
(俺は……昨日、流屋に来て……。それから……松乃殿から奉公の話を聞こうとして……。藤仁殿が部屋に来た時に……倒れたんだ……)
昨夜告げられた事実が思考を巡る。同時に、倒れた折の畳の感触を思い出し、芦雪は顔をしかめた。
身を起こし、回る視界をしばし閉ざす。故意に作り出したひとときの闇の中で、なぜか藤仁の顔が浮かんだ。
意識を失う寸前に目にした、幼子にも似た表情。どこか心細そうな視線は頼りなげに揺れていた。それだけは、今でも鮮明に思い出せる。
(話した時は、そんな顔ひとつ見せなかったのに……。見た目は寡黙そうな青年だったが、案外繊細なひとなのか?)
美しい容貌と淡泊な表情の裏には、一体いくつの感情が隠されているのだろう。昨夜、はっきりと見せることはなかったが、芦雪が目覚めるまで深い不安を抱えていたのではなかろうか。出会ったばかりの他人に心を砕き、夜更けまで芦雪の様子を見ていたような人間だ。相当繊細な人物に違いない。
藤仁は今どこにいるのだろうか。部屋の中を見渡して枕元に目を下ろした時、竹筒と柳行李が視線を引き留めた。
それらは、芦雪が江戸までの道中で用いていたものだった。写楽が宿から荷を引き上げたと聞いたが、彼の整理による名残だろうか。
(……書き置き?)
柳行李の傍らには、小さな紙片が寄り添っていた。
芦雪はそれを手に取り、紙上に綴られた筆致を追う。蝶が舞うような、軽やかな文字の流れ。「お目覚めになられた際、お召し上がりください」と、無味簡潔に記されている。
ものの書き方とその印象から、女人が──松乃が用意したもののように思われた。
墨の導き通りに、行李の蓋に手をかける。待ち構えていたのは、行儀よく並んだ二つの握り飯だった。
(変な形……。三角……いや、丸……?)
これまで目にしてきたものとは幾分、様相が異なって見える。故郷では俵形が主流だったが、江戸の握り飯は三角に握るのだと耳にしたことがある。けれど、目の前の歪なそれはどちらでもない。三角と俵を混ぜた丸だ。
とかく形は不思議なものだったが、米の白き艶めきは巻かれた海苔によく映えており、芦雪の食欲を誘う。
喉が鳴る。理性と欲の狭間で揺れる背を押すように、腹の虫が声高に鳴き始めていた。
小さな手で握ったであろう松乃の姿を想像し、もう一度握り飯を見下ろして息を吐く。芦雪は「いただきます」と唱えてから、握り飯を口に運んだ。
「美味い……」
人が握った白米は、なぜかように美味だと感じるのだろう。味付けは塩と海苔のみの淡白なものだったが、それでも握った者の優しさや温度がじんわりと身に染みる。
手にあった握り飯をあっという間に平らげる。竹筒の中に入っていた水を口に含み、芦雪はようよう一息ついた。
「失礼いたします。芦雪様、お加減はいかがでしょうか?」
部屋の襖を飛び越え、鈴を転がすような声が響く。
「……松乃殿か。ありがとう。ちょうど起きたところだよ」
返答があるや否や襖が開き、少女が顔を覗かせる。芦雪のやわい笑みを目にして、彼女は胸を撫で下ろしていた。
松乃は芦雪のそばに静かに腰を下ろすと、深々と頭を垂れた。
「お目覚めになられたようで、ようございました。ご気分はいかがですか? どこか身体が痛むなどは……」
「大丈夫だよ。ありがとうな、わざわざ様子を見に来てくれて……。出会って早々に世話もかけてしまって、申し訳ない」
「とんでもございません! ……その、芦雪様は江戸に来られたばかりだとか。恐らく、長旅の疲労のせいだろうと写楽様が……」
「多分な。元々体力がなくて、疲れやすい体質なんだ」
寝起きで乱れた前髪をかき上げ、芦雪は呆れたように苦笑をこぼして見せる。
「一晩寝たら見ての通りだよ。今からでも働けるぐらい回復した。これも、松乃殿と藤仁殿が看病してくれたおかげだな。……そうそう! 握り飯もありがとう。美味しかった。わざわざ松乃殿が置いてくれたんだろう?」
「書き置きもありがとう」と居住まいを正し、続けて頭を下げた。
「それは……」
黒鳶色の視線が逡巡する。少女は柳行李と芦雪の顔を見比べてから、喉元までこぼしかけた何かを飲み込んだ。
「……いえ。大したことはしておりません」
礼を言われるとは思っていなかったのだろうか。松乃は身分をことさら気にする性格のようであったし、芦雪の感謝にいたたまれなくなっているのかもしれない。
やや不思議に思いながらも、芦雪はもう一度頭を下げた。
「藤仁殿にも礼と、挨拶をしたい。これから厄介になる身だしな。藤仁殿は今どこに?」
「兄ですか? 兄なら今、作業で画室に……」
少女の言が宙に浮く。かと思えば、彼女の愛らしいかんばせはみるみる明るくなっていった。
「そうでした、芦雪様! 兄にご挨拶して頂く前に、今後お任せしたいご奉公のお話をしてもよろしいでしょうか? 兄にも関わることなので」
「あ、あぁ……。それは構わないが……」
あまりに唐突な流れのように思われたが、少女の中では至極当然な順序のようだった。松乃の勢いに若干腰が引けつつも、芦雪は素直に耳を傾けた。
「当工房『流屋 翠雨庵』は、通称・流屋と呼ばれております。写楽様からお話は聞かれているかと存じますが、ここは工房と絵屋……いわば絵を制作する場と制作した絵を売る場の二つを兼ね備えた店です。芦雪様には、絵屋の方のご奉公をお頼みしたいのです」
松乃が言う芦雪に任せたい仕事とは、流屋の折衝役――つまり、工房に絵を注文するお客と店のやり取りを、店の顔として取りまとめるというものだった。それを慣しとして、最終的には流屋の後援者とのやり取りも任せたいとのことだ。
これらは棟梁である琳也や番頭が担ってきたようだが、現在、その二人が不在だという。
琳也の生まれ故郷である播磨国〔現在の兵庫県〕で火急の用ができたらしく、番頭を供として、二人で七日前に江戸を出たばかりのようだ。のっぴきならない御家事情というものらしい。
彼らが帰ってくる日取りも未定のため、「あとはよろしく」と慌ただしく後を任された松乃は、ほとほと困り果てていた。
当初は折衝役を松乃が引き受けようとも思ったようだが、何せ彼女はまだ十五の娘だ。
読み書きができ、それなりの教養も受けているとはいえ、顧客である豪商や武家を相手とする文のやり取りに慣れていない。対面しての会話など尚更だ。
ゆえに読み書きができ、やり手商人らを相手に物怖じせず、なおかつ愛想が良い人間で、外部の人間との折衝を一手に引き受けられる人材を探していたのだと松乃は語った。
「写楽様はその……尋夢庵への依頼方法が物語っている通り、人を選ぶ方です。包み隠さず申し上げるなら、人の好みがうるさい方なので……。そんな方が、芦雪様を流屋の折衝役にと推されたのです。きっと、このお役目は芦雪様に適任だと思います。我々が求めていたお人柄そのものだという意味でも」
知らぬ間に写楽に気に入られていたようだ。あの短い時間でどう判断したのかは不明だが、人の好みにうるさいとされる人間に太鼓判を押されて、悪い気はしない。
芦雪は再び、長い前髪をかき上げた。
「店は、朝五つ〔7時〕から七つ半〔17時〕まで開けております。店自体のお休みは毎月決められた三日間と正月、盆、五節句です。ですが、流屋に属する者は基本的に二日働いたら一日お休みする制度に従わねばなりませぬので、交代での勤務になります」
商家にしては柔軟というより、変わった制度である。本来、商家の奉公人は休みを取る際に番頭や当主の許可が必要な上、正月、盆、五節句以外は基本的に働く。
一方、流屋で敷かれている「二日働いて一日休む」形態は、琳也が独自に定めたもののようだ。商人というよりも役付きの武家奉公――いわば、城勤めのそれと同一だった。
(怠け者……なわけではないだろうな。やはり、絵師に限らず働き者は身体が第一だ。無理してまで働くなという考えの持ち主なのかもしれない……。定めた本当の意図は分からないが、人の上に立つ者としては、至極真っ当なお人なのだろう)
流屋の働き方に、ここにはいない琳也の人となりが見えた気がした。
奉公先としては上々だ。これ以上考えることも無駄だろうと、芦雪は湧いて出た小さな疑問を頭の隅に追いやった。
(とりあえず、任される仕事は書面のやり取りが主になるのか。店の接客じゃないのは残念だが……。とはいえ、書面上のやり取りでも接客には変わりない。……久しぶりになるんだ。気を引き締めなければ)
郷愁を誘う風景と幼馴染みの顔が脳裏をよぎる。かつて、芦雪は屋敷から抜け出しては幸之介のもとへ押しかけ、彼の実家が営む大店の手伝いをしていた。今となっては遠い記憶だ。
武士が表立って商売するなど、両親が聞けば卒倒してしまうだろう。だが、見知らぬひとやものと数多接する接客というものが、芦雪は存外に好きだった。
当時、小さな鳥かごのような屋敷で淡々と日々を過ごしていた芦雪を少なからず不憫に思っていたのか。幸之介は居座る芦雪を軽く睨みながらも、「客商売とはこうするものだ」と、手取り足取り指南を施してくれたのが懐かしい。
写楽に流屋を奉公先として紹介された時、芦雪はてっきり店の接客を任されるのだと勝手に想像していたうえに、そうであれば楽しみだな、などと暢気に考えていた。
仕事があるだけ恵まれた話だ。落胆する権利はないが、肩を落とさずにいられなかった。
だが、落ち込むのはまだ早いと言わんばかりに、松乃は続けた。
「それともうひとつ、重要なお仕事をお任せしたく……。これは芦雪様にしかできないことなので、大変申し訳ないのですが、追加でお頼みしてもよろしいでしょうか?」
「……! もちろん! 俺にしかできないことなんだろう? なんでもどんとこいだ」
「本当ですか? それはありがたいです!」
彼女は愛らしい唇をほころばせた。
「そうしましたら、兄上の……藤仁のお目付け役をお任せしてもよろしいでしょうか?」
瞼が二度瞬く。
「藤仁殿の……目付け? 俺が?」
「はい。我が愚兄は絵に打ち込むあまり、食事や私生活を疎かにする節がございますゆえ。現に、そろそろ昼餉の時間ですのに居間に訪れる気配すらありませんし……。兄がきちんとした生活を送るよう、見張って欲しいのです。流屋の筆頭絵師という身なのだから、もう少し自覚を持って生活して欲しいのですが、私では手に負えない部分も多々あり、困っておりまして……」
自らの頬に手を当て、松乃はわざとらしく大きなため息をついた。
(藤仁殿の目付け役が、俺にしかできない仕事……? そんなに難しいことなのか?)
己に追加で課せられたのは、藤仁に整った生活を送らせること。ただそれだけである。
しかし、彼に最も近い存在である妹が兄の日頃の生活に困り果てている。藤仁は、自身を蔑ろにするのが習慣化しているのだ。そばにいる人間の心配を意に介さぬほどに。
(あの几帳面そうなお人がなぁ……)
折り目正しく日々を送っていると明言するかのような青年が、私生活においては混沌を極めている。好奇心がくすぐられぬわけがなかった。
松乃は芦雪の返答を落ち着かない様子で待っていた。口元には変わらぬ微笑が湛えられていたが、瞳には不安にも似た色が滲んでいる。
彼女の様子に苦笑を漏らしつつ、芦雪は首肯した。
「承知した。では早速、今からでも挨拶がてら藤仁殿のところに行ってこよう。ひとまず、昼餉を食べてくれと声がけすれば良いんだな?」
「……! はい! 芦雪様の分も用意しておりますので、もし食欲がおありでしたら、ぜひ召し上がってください」
「何から何まですまない。ありがとう」
「とんでもございません! こちらこそお引き受け頂き、ありがとうございます」
瞳にたゆたっていた暗色は消え失せ、嘘偽りのない笑みが広がる。
やはり、松乃には笑顔がいっとう似合う。年下の子の曇った顔を見ると、芦雪は身を切られるような心地に駆られてしまう。まだこの世の道理や理不尽を知らぬ彼らには、時が来るまで無垢なままでいて欲しい。それが、大人の傲慢な願いだとしても。
「では芦雪様。お身体のこともありますし、今日は兄の様子だけ見て頂いて、明日から店のお手伝いをして頂けると大変助かります。その時に、また改めてご奉公の内容をお伝えしますね」
「あい分かった。本日からよろしく頼むよ、松乃殿」




