第7話 死の速度
森が凪いだ。 風が止まり、鳥のさえずりが途絶える。張り詰めた静寂の中、ルオの心臓の音だけが嫌に大きく響いていた。 (……来る) ルオは柵の前に立ち尽くしたまま、森の奥の闇を凝視した。 恐怖で足が震える。だが、頭の中は冷え切っていた。 相手は言葉も理屈も通じない、純粋な殺意の塊だ。だからこそ、動きは予測できる。獣は「逃げるもの」を追う。そして「最短距離」を走る。
ふと、視界の端でシダ植物が揺れた。 音もなく現れたのは、灰色の絶望だった。 グレイグル。 全長は三メートルを優に超えている。岩のように隆起した肩の筋肉。そして、無機質なまでに冷徹な金色の瞳。 怪物が、ゆっくりと顔を上げた。その双眸が、障害物の前に立つルオを捉える。
「……ッ」 ルオの喉がひきつる。本能が「逃げろ」と警鐘を乱打している。 だが、まだだ。 今逃げ出せば、奴は本能的に追撃に移り、罠ではない場所でルオを殺すだろう。奴を、この「狭い回廊」の深部まで招き入れなければならない。
(見ろ。俺は武器も持たない、ただの肉だ。美味しそうだろ?)
ルオは震える手で足元の石を拾い上げ、渾身の力で投げつけた。 「来いよ、デカブツ!」 石は怪物の鼻先に当たり、コツンと乾いた音を立てて落ちた。
瞬間。 世界から色が消えた。 咆哮はない。灰色の塊が、爆発したように視界いっぱいに膨れ上がった。 速いなんてものではない。瞬きをする間に、死が目の前まで迫っていた。
「うおおおおっ!」 ルオは弾かれたように背を向け、柵の隙間へと飛び込んだ。 直後、背後で凄まじい衝撃音が轟く。 ドォォォォン!! 丸太で作った入り口の支柱が、一撃でへし折られ、宙を舞った。
ルオは迷路のように入り組んだ通路を走る。 左右には、サリたちが打ち込んだ乱杭。上空には枝葉が密集し、跳躍を阻む。 完璧な計算だ。この狭さなら、奴は減速せざるを得ないはず――。
だが、現実は計算を嘲笑う。 バリバリバリバリ! 背後から迫るのは、木材が破壊される音の奔流だった。 減速? していない。 グレイグルはその圧倒的な質量と筋力で、邪魔な杭をねじ伏せ、へし折りながら突進してきているのだ。障害物を避けるのではなく、障害物ごと獲物を踏み潰す。それが王者の狩りだった。
(嘘だろ……っ!? あの太さの丸太だぞ!?)
ルオの顔色が蒼白になる。 物理演算が甘かった。この獣の突進力は、こちらの想定の上限をぶち破っている。 このままでは、キヤの待つ「必殺のポイント」に着く前に、背後から追いつかれる。
熱い息が首筋にかかる。 振り返らなくてもわかる。死神の爪は、もう数センチ後ろまで迫っている。
「……計算通りにはいかねえな、畜生!」
ルオは悪態をつきながらも、走る速度を緩めない。 想定外だ。だが、「想定外の事態」すらも想定しておくのが詐欺師の仕事だ。 前方の地面。枯れ葉が不自然に積もった一画が見える。
(あと三歩!)
背後で爪が風を切る音がした。 ルオは迷わず地面を蹴り、前方へと身を投げ出した。 スライディングではない。跳躍だ。 空中で体を捻り、背後の怪物を見据える。
グレイグルが、ルオを空中で迎撃しようと踏み込んだその一歩。 そこは、ルオが飛び越えた「枯れ葉の山」の上だった。
バシィッ!!
乾いた音が森に響く。 地面に隠されていたのは、ルオが編み上げた**「特製の網」**だ。 強靭な蔦を、絶対に緩まない結び目で編み込み、両端を太い木の根に固定した簡易の足止め(スネア)。 踏み込んだグレイグルの前足が網に絡まり、全速力の運動エネルギーが、そのまま足元への負荷へと変換される。
「ギャッ!?」
さしもの怪物も、物理法則には逆らえない。 足を取られたグレイグルの巨体が、凄まじい勢いで前のめりに転倒した。 ズザザザザザッ! 泥と葉を巻き上げながら、灰色の塊が地面を滑っていく。
ルオは受け身を取って着地し、すぐに起き上がった。 倒したわけではない。ただの足止めだ。あれほどの筋力なら、網など数秒で引きちぎるだろう。 だが、その「数秒」こそが、ルオが勝ち取るために必要としていた時間だった。
「キヤァァァッ!!」
ルオは裂帛の気合いで相棒の名を呼んだ。 転倒したグレイグルの滑っていく先。 そこは、丁字路の待ち伏せポイント。
その角から、黒曜石の槍を構えた少女が、弾丸のように飛び出した。




