第4話 日陰者の天秤
夜の帳が下りると、集落は重苦しい沈黙に包まれた。 いつもなら狩りの成果を祝う太鼓の音や笑い声が響く時間だが、今夜聞こえるのは、あちこちから漏れる怪我人の呻き声と、祈祷師が焚く薬草の爆ぜる音だけだ。
「……う、ぐ……」
熱にうなされるトガの額に、ルオは濡らした布を置いた。 あの頑強なトガが、高熱で震えている。傷口に入ったバイ菌か、あるいは「グレイグル」の爪に何らかの毒素があったのか。 隣ではサリが、祈るようにトガの手を握りしめていた。
「どうしよう、ルオ。トガちゃん、このままだと……」 「大丈夫だ。トガは馬鹿みたいに丈夫だからな。今夜が山だ」
ルオは努めて平静に答えたが、内心は冷ややかだった。 (いや、まずいな) この湿気と衛生環境だ。化膿すれば、キバ族の生命力をもってしても死ぬ可能性がある。 助けるには栄養と、清潔な環境、そして何より「安心」が必要だが、今の村にはその全てが欠けている。
ルオは水瓶を替えるため、小屋を出た。 夜風が冷たい。 広場では、首長と大人たちが焚き火を囲み、深刻な顔で話し合っていた。
「狩場を変えるしかない」「だが北は他の部族の縄張りだ」「戦う余力はない」 聞こえてくるのは、八方塞がりの嘆きばかり。
ルオは闇に紛れて、一人溜息をついた。
(……俺が出る幕じゃない)
それが、元詐欺師としての冷静な判断だった。 相手は生態系の頂点に立つ化け物だ。前世の知識があるとはいえ、ルオの体は貧弱そのもの。失敗すれば命はない。 それに、下手に知恵を出して目立てば、「弱い子供」という安全な立場を失う。期待され、責任を負わされ、最前線に立たされるリスクがある。
(いざとなれば、逃げればいい) 村が飢えても、俺一人なら小動物や昆虫を食べて生き延びられる。サリだけ連れて逃げる手もある。 冷徹な計算が脳裏をよぎる。情に流されて破滅するのは、二流の詐欺師だ。
だが。
「……くそっ」
ルオは自身の掌を見つめた。 脳裏に浮かぶのは、震えるトガの姿と、泣きそうなサリの顔。 彼らは「異端」であるルオを、一度として排除しようとしなかった。力がないことを馬鹿にしつつも、当たり前のように食料を分け与え、守ってくれた。 その借りを踏み倒して逃げるのは、詐欺師の美学に反する気がした。
その時、小川のほとりで何かが動く気配がした。 ルオは気配を殺して近づく。
月明かりの下、一人の少女が槍を振るっていた。 キヤだ。 包帯だらけの身体で、何かに取り憑かれたように槍を突き出している。
「はぁっ……! はぁっ……!」
鋭い突き。だが、いつものキレがない。 傷の痛みのせいか、それとも恐怖か。切っ先が僅かに震えている。 彼女は悔しげに唇を噛み、泥地面を拳で殴りつけた。
「なぜだ……! なぜ届かない……!」
部族最強の誇り。それが、正体不明の暴力の前に粉々に砕かれたのだ。 彼女の肩が震えている。その背中は、昼間に見た時よりもずっと小さく、脆く見えた。
(……彼女でも勝てないのか)
ルオは理解した。 力と技だけでは、あの怪物には勝てない。 キヤのような正攻法の戦士は、規格外の「理不尽」に弱い。彼女が折れれば、この村は終わる。
必要なのは、正々堂々とした武勇ではない。 相手の習性を読み、罠を張り、卑怯な手を使ってでも殺す「狩り」の論理だ。 そして、この村でそれを持っているのは、皮肉にも「最弱」の自分しかいない。
(……割に合わない賭けだな)
ルオは闇の中で自嘲した。 リスクは高い。リターンは、せいぜいトガたちが死なずに済むことくらい。 だが、天秤は既に傾いていた。
ルオは踵を返し、小屋へ戻った。 小屋の入り口で、サリが不安そうにこちらを見ている。
「ルオ、どこ行ってたの?」 「ちょっと、考え事だ」
ルオはトガの枕元に座り直し、新しい水を絞った。 その瞳から、迷いの色は消えていた。
「サリ。明日、朝になったらキヤ様のところへ行く」 「え? どうして?」 「あの猫っかぶり(グレイグル)を殺す算段がついた。……手を貸してくれ」
サリが目を見開く。 いつもの「弱いルオ」ではない。その横顔には、かつて数多の人間を言葉巧みに操った、詐欺師の冷徹な知性が宿っていた。
夜明けまであと数時間。 ルオの脳内では既に、灰色の悪魔を屠るための絵図が描かれ始めていた。




