第1話 騙す者として
南蛮の湿気というのは、どうしてこうも肌にまとわりつくのだろうか。 アズラ地方、通称「ナラク」。鬱蒼とした密林に囲まれたこの地で、キバ族の少年ルオは、気だるげに欠伸を噛み殺した。
「おいルオ、ぼーっとしてないで手伝えよ」
声をかけてきたのは、同い年のトガだ。猪のような体格をした、考えるより先に手が動くタイプの少年である。 ルオは手元の蔓を編む作業に戻りながら、内心で舌打ちをした。 この世界で生まれ変わって十五年。鏡代わりの水面に映る自分は、褐色の肌をしたただの部族の子供だ。だが、中身は違う。
(……前の世界じゃ、こんな肉体労働とは無縁だったんだがな)
ルオには前世の記憶がある。 そこは、こことは違う言葉、違う常識、そしてもっと複雑な「嘘」が支配する文明社会だった。そこで自分が何をしていたか、詳細を思い出す必要はない。ただ一つ言えるのは、口先だけで他人を操るのが、ルオにとっての日常だったということだ。
そして今、その「特技」はこの世界でも妙な形で機能し始めていた。 ここ数日、喉の奥に奇妙な熱を感じる。言葉を発する際、意識的にスイッチを入れると、何かが起こる感覚。
(確かめておくか)
ルオは編みかけの籠を置き、トガを見た。 実験には、こういう単純な相手が一番いい。
『トガ、お前の後ろの茂みに、青い猪が隠れているぞ』
何気なく言った言葉に、奇妙な重みが乗った気がした。 その瞬間、トガの目から理性の光が消えた。
「青い猪か! よし、任せろ!」
トガは石斧を掴むと、猛然と茂みの中へ飛び込んでいった。 「青い猪などいるはずがない」という常識も、「なぜ今まで気づかなかったのか」という疑問も、一切挟まない。 ルオの言葉を、まるで神の啓示か何かのように、脳が即座に事実として飲み込んだのだ。
「どこだ! 出てこい!」
トガは泥まみれになりながら、いないはずの獲物を求めて藪をかき分けていく。 ルオはその背中を、冷めた目で見送った。
(……疑問すら抱かせないか)
自分でも呆れるほどだ。あんな荒唐無稽な嘘に対し、相手は否定どころか確認すらせず行動に移した。 さて、条件はどうなっている? ルオは通りかかった集落の長老に狙いを定めた。厳格で、冗談など通じない古株だ。
「長老、着ている服が裏返しですよ」
今度は意識して「スイッチ」を入れようとした。 だが、喉の熱さは感じない。言葉はただの音として空気に溶けた。
「……暑さで目が悪くなったか? ちゃんと縫い目を見ろ」
長老は不審そうに眉をひそめ、去っていった。 ルオは肩をすくめる。 不発だ。
(一日一回、ってところか。便利なのか不便なのかわからん能力だな)
***
翌朝。 ルオの検証は、トガの怒鳴り声によって完了した。
「おいルオ! 昨日のあれ、何だったんだよ!」
トガは全身泥だらけで、ひどく不機嫌だった。 「一日中探し回ったけど、猪なんて影も形もねえぞ! 親父たちに話したら『そんなもんいるわけねえだろ』って馬鹿にされた!」 トガは自分の頭をガシガシとかいた。 「くそっ、なんで俺はあんなもん信じて探し回っちまったんだ? どうかしてたぜ」
昨日の確信は消え失せ、残っているのは「なぜあんな嘘を信じたのか」という強烈な違和感だけのようだ。 ルオは「見間違いだったかな、悪い悪い」と適当に謝りながら、頭の中で冷静にルールを書き込んだ。
一、一日一回、どんな嘘でも相手に無条件で信じ込ませることができる。 二、ただし時間が経てば効果は切れ、相手は違和感に気づく。
(……使い所が難しいな)
万能の洗脳ではない。時間が来れば魔法は解ける。 下手に使えば、信用を失って村八分にされるのがオチだ。かといって、こんな未開の地で、そうそう命懸けの場面に出くわすこともないだろう。
(まあいい。いざという時の切り札として、黙っておくか)
ルオは手元の作業に戻った。 平和な村だ。この退屈な日常が続くなら、その能力を使う機会など一生来ないかもしれない。 前世のような騙し合いの世界に戻るつもりもなかったし、今のルオには、トガたちと獲物を追いかける生活もそこまで悪いものには思えなかったからだ。
もっとも、その「退屈」が長くは続かないことを、この時のルオはまだ知らなかった。
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