十行で神童、十五行で才子、二十行過ぎればただの人
朝日が薄暗い森を照らし始めた頃、ラノは静かに目を開けた。
まだ十歳に満たない幼い容姿ながら、すでに周囲では「神童」と謳われている。
ラノ自身、なぜ自分ができるのかはわからなかった。
けれど魔術の理を理解する速度も、剣の扱いを習得する動きも、普通の子どもとはまるで違う。
彼はそれを特別だとは思わず、単に「知らないことを試しているだけ」と感じていた。
「ラノ、今日も町の兵士たちから、魔法を教えてほしいって頼まれてるよ」
姉代わりに世話をしてくれるルミアが、焚き火のそばで声をかけてくる。
ラノは首をかしげて、「あの人たち、もう覚えたはずなのに」とつぶやいた。
火を熾すより容易に風を巻き起こせるラノにとって、基礎魔法は息をするより自然なものだ。
周りはその才能に喝采を送り続け、ラノはそれを受け止めるほかなかった。
十歳が過ぎて五年。
ラノは日々王立学院で新たな術式や呪文を学びながら、ますます頭角を現していた。
図書塔に積まれた古い魔道書を一度読むだけで、次々にその術を再現してみせる。
周囲はただ驚嘆するばかりだったが、ラノにとっては当たり前のように感じられた。
その輝かしい姿を目にして、いつしか嫉妬の眼差しを向ける者も増えていることに、ラノはほとんど気づいていなかった。
ラノは「神童」から「才子」と呼ばれるようになっていた。
王都に招かれ、王の前で儀礼魔法を披露すると、さらに名声は高まるばかりだ。
「いやあ、将来が楽しみだ」と喝采を浴びながら、ラノは嬉しさよりも薄い不安を感じた。
今は順調だが、この先ずっと同じように成長できるとは思えなかったからだ。
剣の腕では同世代の王子にすでに追い抜かれそうだったし、魔術も師匠の教えに頼らねば次の段階へ進めない。
そして二十歳になった頃、ラノは町角でどこにでもいる青年と同じように暮らしていた。
魔術の基本はそこそこ使えるが、かつてほど周囲を驚かすような力は見せられない。
「ラノ、お前は昔みたいにすごい魔法を見せてくれないのか」と旅の客に聞かれても、「うまくいかないんだ」と力なく笑うしかなかった。
気づけば周りにいるのは自分と同じくらいの腕前の人間ばかりで、かつてのような特別視はどこにもなかった。
「君は今でも、努力を惜しまない強さを持っているよ」
そう励ましてくれる人はいるが、昔のように爆発的な才能が降ってくる感覚はもう感じられない。
ある日、ラノはいつものように森を歩きながら、かすかな風を起こす魔法を試していた。
若い頃の自分なら、もっと強い風を簡単に呼び出せたかもしれない。
けれど今は小さな旋風を巻き起こすのが精一杯だ。
「それでもいいか」と、ラノはぽつりとつぶやいた。
彼は生まれながらにして注目を浴び、そしてそれを失った。
だけど、力がなくなったわけではない。
特別ではなくなったとしても、彼は自分なりに魔法と剣に向き合おうと思った。
上手くできなくなったことを嘆く日もある。
それでも、かつての栄光が幻だったわけでもないと信じていた。
ラノは森を抜けると、光の差し込む草原に足を進める。
木々のざわめきに耳を澄ませながら、ひとまず風の精霊たちに挨拶を送った。
「また、少しずつ学び直そう」
それが奇跡の再来を呼ぶかどうかはわからない。
だが、どこにでもいるただの人になったラノにも、きっとまだやれることはあるはずだ。
草原を抜けた先にある泉へ近づくと、一人の少女が楽しそうに水面に魔力を落としていた。
ぱしゃ、と小さく波が広がると、そこには見たこともないような透明な魔法陣が一瞬だけ浮かび上がる。
驚いたラノが声をかけようとした時、その少女は恥ずかしそうに笑いながら言った。
「今はうまくできないんです。でも、いつかあなたみたいに呼ばれる日が来るかもしれないと思って」
ラノは一度立ち止まり、ほんのわずかに息をついてから微笑んだ。
「最初から何でも出来過ぎると、後がつらいんだ。君はこれから伸びる可能性があるよ」
少女は目を丸くして、「そんなふうに言ってもらえて嬉しいです」と照れたように笑った。
一度は高みにいた自分にも、これから見える景色があるかもしれない。
そう感じながら、ラノは再び歩き出した。