第二章 今はまだ消えない傷痕・前編
「わ、雪だー! お姉ちゃん、雪だよ!」
「……そうね、もう十二月だもの。雪くらい降るかしら」
一ヶ月。私がこの世界へ来てから、もうそれだけの時間が経っていた。
少しだけ白く染まる地面に、なおも降り積もる雪。寒さに構わずその中ではしゃぎまわるエディに微笑み、少しだけ視線を空に向ける。
地図を見ると南にあるようにしか見えないこの国でここまで本格的に降るのは珍しいのではないか、とも思うけれど、実際はそうでは無いらしい。
と言うのも、どうやらこっちの世界では、向こうで言う『地球の公転面に対して地軸が~』とかそういうことは季節の移り変わりには関係無いらしく。関係があるのは……あまり詳しく書かれたものは無かったけど、四種類の精霊とやら、かしら? まぁそこら辺はこれから調べるつもりだし、今は深く考える必要は無いか。
そもそもこの世界は構造なんかも未だ良く分かっていないらしく、地球のように自転しているのかも止まっているのかも不明なのだ。もしかしたら星が丸かったりすらせず、ずっと歩いていればいずれ世界の果てとかに辿り着くのかもしれないし。
……まぁ長く考えてはみたけれど、要するにこの世界では地域によって極端に暑かったり寒かったりはしない……寒暖の差こそあるもののせいぜい日本国内でのそれと同程度で、だからこの国で雪が降るのも別におかしくは無い、というだけだ。どうしてこの結論に至るのにこんなに難しく考えたのかしら、私。
「ねぇ、お姉ちゃんってば!」
「え? ……ああ、ごめんなさいエディ、どうしたの?」
「えっとね、大したことじゃないんだけど……あのねー、今日寒いし、夜はあったかいものが食べたいなって思って」
「ふふっ、もう夕食の話? でも、良いわね。何にしようかしら」
「あ、エディも作るよ!」
「ええ、ちゃんと手伝ってもらうわ」
張り切るエディにそう返し……不意に私の心の中に、一月ほど前に聴いた、アレスの言葉が響いた。
他ならぬ、この少女のこと。私がここに居続ける事にエディが拘る、その理由。
『あの子は――実の両親に、精霊術のことを理由に嫌われ……違うな、そんな優しいものじゃない。虐待されて、捨てられているんだ』
彼はそんな彼女を拾ったのだという。まだ物心付いて間も無い、それなのに実の親に嫌忌され侮蔑され忌避され仇視され拒絶され、絶望に暮れる幼い少女を。
考えてみれば、納得……とまではいかないけれど、少しは分かることだった。生まれつきの精霊術者というのはとても珍しいらしく、その上このイグレシア王国は他国に比べて精霊術者の迫害が目立つ。当時……5年前には既にそれを止めさせようという動きもあったらしいけれど、そう簡単に無くなるような浅いものではないのだろう。
そんなことよりも、不思議なのはこの子の態度だった。
それだけ親に自分の存在を否定されて、受け取るべき感情を与えられずに育って、本来誰よりも愛してくれるはずの人間に愛を教わらずに……それなのに。
何故、この少女はここまで明るく振舞えるのか。
何故、この少女はこんなに笑っていられるのか。
私は……失ってしまったとは言え、一時期は自分を理解してくれる存在が隣にいても、こうなってしまったというのに。
「エディ……貴女は、どうして」
「ふぇ?」
きょとんと私を見上げる少女に、返すのは微苦笑。
「いいえ、何でも無いわ」
「……?」
それでも首を傾げるエディを促して、屋敷の中へと入る。……訊く必要なんて、本当は無かったから。
心の奥の奥、その答えを知っていると声を上げる私がいた。
***
「あの子はきっと、誰よりも怖がりなんだわ」
その日の夜のこと。
不意にそう呟いた私に、何やら書類を書いていたアレスが顔を上げて答えた。
「エディのことか?」
「ええ。あの子はきっと、嫌われることが何より怖くて、だから好かれようと必死なのよ」
「よく分かるな」
感心するような彼に、ぽつりと。
「……貴方はきっと、両親に愛されていたのでしょうね」
一ヶ月もの間共に過ごしているのだ、彼にはもうそう呼べる存在がいないことは知っていた。けれど、それでもあえて踏み込む。
アレスは驚いたように目を見開き……そしてその目を細めた。懐かしさと哀しみの入り混じった、そんな表情。
「そう、だな……両親だけじゃない。傍にいた大人、皆が俺のことを想ってくれた。それは覚えている。忘れちゃ、いけないことだ」
「そう。それじゃ、分からなくても無理はないかしら」
「何がだ?」
「自分を愛してくれる人間っていうのは、とても尊いものよ。特に、それを知らなかった人間にとっては」
「……エディのことなのかエレナのことなのか、判断に困る言い方だな」
「あら、エディの話をしていると思ったのだけど」
私は微笑み……しかしそれでも、心の底に浮かぶ思いは抑え切れず、歪む表情は見せたくなくて俯く。そして、恐らく震えているであろう声で、訊ねた。
「ねぇ。どんな、気持ちなのかしら。愛される、って。愛してくれる人がいる、って……どんな気持ち、なの?」
それを聞いて、彼は驚いたような表情を浮かべ……そして苦笑。
「何だ、やっぱりエレナのことでもあったんじゃないか」
「いいえ、違うわ。だってあの子は、自分を愛してくれる人を見つけたから。だから、それを失うことを恐れるのでしょう」
私は首を横に振る。そう、それが境遇の似ている私とあの子の、最大の違い。
「私にはまだ、そんな相手はいないもの」
その言葉に、何故かアレスは呆れるような怒るような微妙な表情を浮かべて口を開きかけ、けれど何も言わずに閉じて嘆息。そしてその表情のまま、訊ねてきた。
「エディは? それにテオやカイルもだ、十分エレナを慕っているだろう。分かっていると思うが珍しいぞ、あいつらにそこまで好かれるのは」
「そうね。慕われているのは知っているし、嬉しいし、ありがたいわ。けれど……愛情と尊敬は、違うものでしょう」
後半は目を伏せて、呟くように。
本当は、私にもそんなことは分からない。いいえ、『私には』分からない。愛情も尊敬も、その違いすらも、私は知らない。正の感情など分からない。かつてある少女が教えてくれたそれらは、彼女が姿を消した時に全て失ってしまった。本来誰よりも愛情というものを私に向けてくれるはずの両親からは、常に負の感情の羅列のみが向けられていた。
ああ、だから。
だから私は、逃げ出そうとしたのだっけ。それに歪められる前に、最早薄れて見失いそうな『自分』を保ちたい一心で。
彼らに出会った途端に向けられた、それまで知らなかった正の感情。私が私を取り戻す……どころか、かつて彼女がいた頃以上に明るくなったのは、きっとそれにあてられたからなのだろう。
そんなことを考えていると、突然目の前から笑い声が聞こえた。顔を上げると、アレスがおかしそうに肩を震わせている。
「ど、どうしたの?」
「エレナでも悩むことがあるんだな」
「失礼ね、私だって人間なのよ?」
嘆息混じりに言い返すが、アレスは笑うことを止めず、おかしそうに訊ねてきた。
「俺がそうだとは、考えなかったのか?」
「へっ?」
思いも寄らぬ問いに、私は思わず普段なら出さないような間抜けな声を出してしまう。慌てて口を押さえると、それがまたおかしかったのかアレスはまた笑い出す。
「あ、アレスっ!」
「いや、すまない……エレナがそこまで取り乱すとは」
「誰のせいかしら」
赤面しているのを自覚しながら睨むと、彼はようやく笑うのを止め、けれどそのおかしそうな表情はそのままに私を見る。
「変な意味で言ったんじゃない。俺にとってエレナは、大切な友人だから。愛情も友情も、信頼も尊敬も同じだよ。相手を愛していることは変わらないさ。愛の種類こそ違うが、本質は同じだ」
「……分から、ないわ」
そんな彼に私が返すのは、返せたのは捻くれた言葉。
だって、知らない。愛情も友情も信頼も尊敬も、それ以外の感情も、私は何一つ知らないのだ。それなのに、どこが違うとか、どこが同じとか、そんなこと分かるはずがないのに。
「ごめんなさい、変なこと訊いて。私、もう寝るわね」
「エレナ」
逃げるように立ち上がり、扉に向かう私を、アレスは呼び止める。そっと振り向いた私に、彼はいつの間にか笑みを消して、真剣な表情で。
「エディに……教えてやってくれ。自分が愛されているのだと。自分が大切にされているのだと」
「っ」
言い返そうとした。誰よりもそれを知らない私に、そんなことが出来るわけないと。あの子とずっと一緒に過ごしてきたのは貴方なのだから、貴方がやれば済む話だと。
けれど、同時に心のどこかで理解してしまっていた。これは、私にしか出来ないことなのだと。あの子と同じ痛みを知る私にしか、出来ないことなのだと。
親を愛し、親に愛されて育ったアレスでは、駄目なのだ。
「……おやすみなさい」
彼の言葉には答えず、私は部屋を出る。そして、彼に悟られないよう、そっと嘆息した。
「でも……一体私に、何が出来るの」
室内とは違い、寒気のする廊下で。その呟きは、白く宙に消えていくばかりだった。
***
「お姉ちゃんおはよーっ!」
「朝から元気ね? おはよう」
苦笑しながら、自分に抱き着くエディの頭を撫でるエレナ。その彼女の表情が、俺に向けられたところで僅かに強張った。
俺はそれに気づかないふりをして、普段通りの笑顔を浮かべる。
「おはよう。毎朝律儀にエディの相手をする必要はないんだぞ、エレナ?」
「……ええ、おはようアレス」
「あーっ、お兄ちゃん酷い! お姉ちゃんとは大違いー!」
今度はこっちに走り寄ってくるエディを受け止め、再びエレナに目を送る。……今度は気まずそうに逸らされた。
そんな俺たちを見て、エディは何か言いたそうにしながら、しかし何も言わずに席に着く。一瞬だけ居心地の悪い静寂に包まれるが、それはドアの開く音で壊された。
「ふあぁー、おはよ」
「……おは、よう?」
「あ、テオもカイルも遅いよー! おはよ!」
「いやエディが無駄に早いだけだろ……いただきます」
「早っ! 食べ始めるの早いよテオぉ~! いただきまーすっ!」
我先にと食べ始める二人をちらりと見て、カイルがこっちに視線を寄こす。その意味を汲み取ったのか、エレナは苦笑。
「そうね、私たちも食べましょうか」
「う、うん……いただきます」
「いただきます」
俺もまた席に着き、テーブルに並べられた、相変わらず異様に完成度の高い料理を口に運ぶ。ふと見ると子供たちが何事か視線を交わし合い……やがてテオが諦めたように嘆息し、しばらく続いた無言を打ち破るかのように口を開いた。
「えっと……アレス兄とエレナ姉、喧嘩でもしたのか?」
「テオ、直球すぎーっ!」
エディが呆れたようにテオを叩く。その横で、躊躇いがちに口を開くカイル。
「でも……今日、変。お兄ちゃんも、お姉ちゃんも」
……と、断言されてしまうと反論のしようがないわけで。
どう返そうか考え込む俺とは逆に、エレナは彼らの言葉を聴いた瞬間笑顔を浮かべていた。
「喧嘩、というほどでもないの。三人とも、気にしないで」
「本当に? お兄ちゃんもお姉ちゃんも、喧嘩したわけじゃない?」
「ええ、大丈夫」
なお訊ねてくるエディに対してエレナが笑顔を浮かべると、テオたちから不安そうな表情は消えた。
……彼女の笑顔の裏にとても暗い何かがあるように感じたのは、どうやら俺だけだったらしい。
「喧嘩だったら、ここまで気まずくはならないだろうな」
朝食を終えると同時、子供たちは外へと駆け出して行った。現在子供たちに勉強を教えるのは俺とエレナが一日おきに交代で行い、三日目は休みということにしている。今日はその休みの日に当たるため、彼らのテンションはいつもより少しだけ高い。
逆に、後片付けを終えて再び俺の対面に座ったエレナは、居心地の悪そうな表情を隠そうともせずに苦笑した。
「そうね」
「……やはり俺のせい、か?」
何気なく呟くと、エレナは一瞬驚いたように俺を見た後、苦笑交じりに首を横に振った。
「いいえ、違うわ。……そうね、貴方の言葉も、原因の一つではあるのでしょうけど。一番の原因は、やっぱり私」
僅かに。その笑顔が、自嘲の色を帯びる。
「エディを助けたのは貴方だけれど、貴方では本当の意味であの子を救うことは出来ない。私でなければ、きっとあの子を救えない。それは、分かっているの。救ってあげたいと、思うの。……それなのに、分からない」
テーブルの上で組まれた白い手に、ぎゅっと力が込められる。見ただけで分かるほど、強く。
「どうすればいいの? どうすれば、あの子を救えるの? どうすればあの子は、自分に向けられた愛に気づいてくれるの? 自分のことすら分からない私が、どうやってそれをあの子に伝えればいい? ……そうやって、考えているうちに、どんどん分からなくなって」
「難しく考えすぎだ」
思わず笑うと、エレナが困ったように俺を見た。
「真面目に言っているのよ、私」
「ああ、知っているさ。だが、そこまで難しく考える必要はない」
「……でも」
「急がなければいけないわけではないだろう? 時間はたくさんあるんだ、ゆっくり気づかせてやればいい。少なくとも、今のエディは笑顔でいることが出来るのだから」
「あら、それは私への当てつけかしら」
僅かに拗ねたような表情を浮かべるエレナに対し、俺は苦笑する。
……彼女が笑わなかったのは初対面の頃だけで、むしろ最近に至っては常に微笑を浮かべているし、時にはこうしてそれ以外の表情も見せてくれるのだが、それは口に出さず。
俺が何も言わないのを見て、エレナは嘆息。
「そう……そう、ね。焦る必要なんて、どこにも無いのよね……」
ぎこちなく、笑顔を浮かべる彼女。今朝までその裏にあった暗闇が薄れたのを確認して、俺もまた笑みを返す。
……そんな俺たちを、嘲笑うかのように。
異変が起きたのは、その日の夜のことだった。
***
「ごちそうさま……」
小さく、まるで呟くようなエディの声。驚いて彼女の方を見ると、その前には殆ど手を付けていない食事があった。
「いらないのか? エディ」
「んー、食べたくない……ごめんね、お姉ちゃん」
アレスの問いに首を振り、申し訳なさそうに私を見るエディに、苦笑を返す。
「いえ、それは良いのだけれど……」
席を立ち、エディの方に歩いていく。近づいてみると、やはり顔色が悪いのが見て取れる。だるそうな表情を浮かべて私を見るエディの額にそっと手を当てて、私は嘆息した。
「やっぱり……熱いわ。ただの風邪だと良いのだけれど……立てる? エディ」
「うー……」
こくん、と頷いて立ち上がるエディ。途端、不安定に傾ぐ小さな体を、私は慌てて支える。
「ごめんなさいアレス、部屋まで連れて行ってあげてくれるかしら」
「ああ」
躊躇いなくエディを抱き上げ、出ていくアレス。それを見送って、私は息をついた。
薬を取りに行こうとしたその時、つんと服を引っ張られる感覚。そちらに視線を向けると、カイルが泣きそうな顔で私を見上げていた。テオもまた、心配そうな表情で私を見ている。
「……エディ、大丈夫……なの?」
そんなカイルの問いに私は苦笑し、彼の頭を撫でた。
「ただの風邪だと思うわ。安静にしていれば治るから、貴方たちは心配しなくて大丈夫」
「でも、エディが風邪なんてひくの、初めてだ」
「人は意外に繊細なのよ、テオ。少し環境が変わっただけでも体調を崩すことはあるの。そうね、例えば……日常生活に紛れ込んだ、私というイレギュラー、とか」
「っ! エレナ姉は……っ」
反論しようとしたテオに対し、私は人差し指を口に当てて、『静かに』の仕草。
「エディが眠れなくなるわ、テオ」
「……それに、お姉ちゃんが来たとき……一番警戒してたの、テオだったくせに」
「お前らいつまでそれを引っ張るんだよ……」
僅かに落ち込むテオに、私は微笑を向けた。
「ふふっ、テオはただ、家族想いなだけよね。そう言ってあげれば良いじゃない」
「……エレナ姉、嬉しいけどそれ自分で言ったらただの嫌な奴だと思う」
呟き、テオは「よしっ」とカイルの腕を引く。
「ほら、さっさと食べるぞカイル。エレナ姉はさっさとエディのとこ行って、早く治してやってよ。やっぱエディがいないとつまんないし。ここは俺とカイルが片付けるからさ!」
「まあ、大丈夫なの?」
「か、片付けくらいなら、多分……」
「ぼく、出来るよ」
自信なさげなテオと、逆に嬉しそうなカイル。そんな二人の少年に、私は笑いかけた。
「じゃあ、お願いするわね」
薬と水を手に、エディの部屋に向かう。
この世界には、元いた世界のように市販されている薬など無い。薬屋に行けば薬草を調合した薬は手に入るけど、自分で調合する知識があった方がいざというときに便利だし、その方が安心だろう。だから、私が今持っているものも少し前に自分で調合したものだった。
部屋の前に着くと、ちょうどアレスが部屋から出てきたところだった。彼は私の姿を認め、ほっとしたように息をつく。
「エレナか、ちょうど良かった。着替えさせるの、頼んで良いか」
「ああ……それがあったわね。そうね、私がやるわ」
頷き、アレスの横を通って中に入る。
ベッドに横たわる小さな体は儚く、今にも消えてしまいそうに見えた。まるで、初めてこの子に出会った時のように。
僅かに歪む少女の表情から、彼女が悪夢を見ていることを悟る。けれど、それを私がどうにかしてあげることは出来ない。出来るのは、ただ看病することくらい。だから私はアレスに頼まれた通り、彼女を着替えさせようとエディの身体を起こす。エディが目を覚まさないように、そっと。
服を脱がせかけたところで、私は『それ』に気づいた。
「……何、これ」
思わず、息を呑む。知らず、エディの服を掴んでいた手が震え、眠る彼女への配慮など忘れて上半身の服を剥ぎ取った。
その下にあったのは、無数の傷跡。
消えかけた痣。いくつも残る、大小様々な裂傷。火傷の痕。
……この子は虐待されていた、というアレスの言葉が蘇る。彼女の身体に刻まれているのは、紛れも無くその痕だろう。小さな身体で背負うには、きっと重すぎるであろう過去の、爪痕。
「ふふっ」
だけど、それを見た私の口元は、自嘲気味に歪んだ。だって、私の方が――
「――っ」
不意に、エディが呻く。慌てて視線を戻すと、ばちっと見開いた少女の瞳とぶつかった。
「あ……」
呟いたのは、どちらか。エディは自分の姿に気づくと、慌てて私を突き飛ばし、身体を隠す。恥じらい……というよりは、むしろ傷を隠すように。
「見た、の?」
俯いたまま、けれどどこか呆然とした口調の、エディの問い。私が黙っていると、聡い少女はそれだけで答えを知ったようだった。
謝りたかったけれど……エディがそれを望まないのは、私がよく知っている。私だって、同じ。謝られたら、そんな傷を持つ自分自身の存在が、許されていないように思えるから。
「……出てって」
「エディ」
「ごめんね、お姉ちゃん。一人になりたいの」
呟くようなその言葉に含まれる、拒絶。一筋縄ではいかないことを悟り、私は息をついて彼女に微笑みかけた。
「そう。それじゃ、着替えはここに置いておくわね。薬も、苦くは無いはずだから。私は部屋にいるから、何かあったら呼んで」
答えないエディを残し、部屋を出る。扉を閉める間際、耳に届く囁き声。
「……もう、やだよ……や、なんだよ」
常人には聞こえないほど小さなその声は、けれど恐ろしいほどはっきりと、私に助けを求めてきていて。
「結局、貴方の思い通りになってしまいそうね? アレス」
薄く笑みを浮かべて、私は呟いたのだった。
***
本当は、お姉ちゃんを引き留めたかった。部屋を出ていくお姉ちゃんから目を逸らして、でも心の中では、行かないで、って叫んでた。
それでも……お姉ちゃんも受け入れてくれるかどうかなんて、分からないから。分からなかったから、ちょっとだけ考える時間がほしかった。
お姉ちゃんの声で目を覚ますまで、ずっと夢を見ていた。
夢の中で、エディは――『わたし』は、泣いてた。凄く熱くて、痛くて、苦しくて、誰か助けてって叫んでた。
何で、あんなに熱かったんだろう。一人になってしまった部屋で、わたしはぼんやりと考える。体を起こしてるのが辛くなって、ベッドにぼすっと倒れ込んだところで、やっと気づいた。
誰も近くにいないから、怖いんだ。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、テオもカイルも、傍にいるって感じられないから、怖くて痛いんだ。
また、一人ぼっちになっちゃったみたいで。
「薬飲まないで、寝なかったら……熱、上がっちゃうのかな」
テーブルの上をちらりと見て、呟く。大人しく寝てなきゃ熱が下がらないことは分かってるし、早く治して遊びたいけど、でも。
「……寝るの、やだな」
寝たら、きっと夢を見る。さっきまで見てた、悪い夢の続き。
夢の中のわたしは今よりずっと小さくて、笑うことも泣くことも知らなくて、光の無い死んだような目をしてて、今よりずっと傷だらけだった。
『化け物!』
そう言ったのは、誰だったっけ。みんな、わたしをそう呼んだ。響く叫び声、石のぶつかった肩や背中の痛みを思い出して、わたしは目を閉じる。
今は、しあわせ。わたしを、『エディフェル=トリエルト』を認めてくれるお兄ちゃんと出会えた。同じくらい辛い過去を持つ、同じくらい強い力を持つ、テオやカイルと出会えた。
誰も、わたしを化け物と呼ばない。わたしは化け物なんかじゃないんだって、私は人なんだって、初めて知った。
……でも。
わたしのこの傷を見ても、お姉ちゃんはそう思ってくれたかな。
「……やだよ。お姉ちゃんに、嫌われたくないよ……」
枕に押し付けた目から、じわりと涙が滲んだ。
お久しぶりです。だいぶ間が空いてしまいましたが、何とか皆さんのもとにお届け出来ました。『在り処』第二章になります。
『幕間』による予告通り、今回は子供たちの紅一点であるエディのお話。普段は『保護施設』のメンバーの中で一番明るい彼女ですが、背負う過去は誰よりも暗く辛いもの。そんなエディの傷を、エレナに癒すことは出来るのでしょうか。
また、更に凄惨なエレナの過去も少しだけ顔を覗かせます。エディの傷を見た時に彼女が見せた、歪んだ笑顔。その理由は恐らく、後編で語られることでしょう。
シリアス展開のまま終わらせてしまいましたが、後編を楽しみにしていて頂けると嬉しいです。
それでは、後編でまたお会いできることを願って。