プロローグ
「おいっ、どっちだ!?」
「向こうだ、向こうに走って行った!」
「くそっ、『能力』は低いくせに、手こずらせやがって……急いで追うぞ!」
そんな怒鳴り合いが段々と遠ざかっていき、辺りは暗闇と静寂に包まれる。
聞こえるのは自分の、荒い呼吸のみ。
「……それ以外は決して低くないと言われていることは、知っているでしょうに」
呟きながら、呼吸を整える。
……『能力』の方も向こうがそう思っているだけかもしれないけれど。脳ある鷹は爪を隠す、と言うし。まぁ、私が隠しているのは自分が鷹ではなく、自分を想ってくれる鷹にそうするよう言われたからなのだが。
さておき、追っ手は、簡単に罠に嵌ってくれたようだ。
……しかし、ここでじっとしていれば、見つかることは避けられない。彼らも馬鹿ではないのだ。自分達が追っている方向に標的がいないことに気付くのもすぐだろう。
逃げなければ。
――何処へ?
そう、自分の中の冷静な部分が問いかける。
東宮の影響力、権力は、国家のそれに匹敵する。この国にいるという選択肢は無い。そんなことをすれば、あっと言う間に見つかる。
では外国へ?
それも出来ない。国家規模の権力に対して、ろくな情報網すら無い私が、たった一人で抵抗出来るわけが無い。そもそも私はパスポートすら持っていないし、例え持っていたとしても空港辺りですぐに気付かれるだろう。
……いっそ、死んでしまうか。
胸の奥に浮かんだ、そんな思いを振り払う。それでは本末転倒だ。死ぬのが嫌で、あんな束縛された生活が嫌で、両親から向けられる視線に耐えられなくて、こうして逃げてきたのに。
結局、何処にいても……私は、幸せにはなれないと言うことか。
なら、せめて足掻こう。最後の最後まで。
どうせ死ぬのなら、その最後の瞬間、笑えるように。私は貴方達に勝ったのだと、東宮の『能力者』達を嘲笑えるように。
どんどん考えが良くない方向に歪んでいくけど、幸か不幸か、それ以上歪むことは無かった。
そこまで考えた時、不意に足音が聞こえたから。
しまった、もうここまで――!
「おい、いたぞ! こっちだ!」
その声が終わる前に、走り出す。後ろから複数の足音が聞こえるが、振り返って人数を確かめる余裕は無い。
少し走ると目の前が開け、大通りに出る。今は夜だが、それなりに人はいる。もちろん、ここに出たのは意図してのもの。これで追っ手が周りを気にして、武器の使用を避けてくれたら良いのだけれど……
そんなわけは無いと、自分でも分かる。東宮に雇われるような人間なら、一般人に当たらないように攻撃することは容易いだろう。そして、世間体を気にするような人間でもない。どんな事態になっても打ち消せるから、きっと周りの目なんて気にしない。
だから、逃げる。
やがて、町外れを流れる川に架かる、大きな橋の上に出る。
真ん中辺りまで来たところで……反対側からも、追っ手と見られる人間が数名。
……囲まれた、か。
私は嘆息すると橋の欄干に腰をかける。
追っ手は立ち止まり、先頭にいたリーダー格の男が話しかけてきた。
「やれやれ……お嬢様、我々と一緒に来ていただきますよ。何処へかは、聡明なお嬢様ならお分かりでしょう」
「ええ、分かっていますよ」
首肯する。
……東宮から彼らへの命令は、恐らく私を東宮家に連れ戻すこと。怪我は負っても良い、ただし生きた状態で。……そんな感じだろう。
でも、彼らは甘い。
「貴方達――東宮の思い通りにはなりません。いいえ、させません」
私は欄干に腰掛けたまま、上着を脱ぐ。流石に下着だけになる勇気は無い。外見の問題もあるが、それ以前に今はそろそろ冬に入ろうかという時期だ。
足掻くと決めた、だから足掻く。運が良ければ、きっと死なないだろう。
「お嬢様? まさか……おい、誰か止めろっ!」
「知っていますか? 私、泳ぎは割と得意なんです」
追っ手がこっちに走ってくる。その手から逃れるように、後ろに倒れこむ。当然後ろには何も無く、私はそのまま頭から落ちる。
重力に逆らう事無く、川に吸い込まれて。
一瞬。
頭上の暗闇に光が見えたような、そんな気がした――