第61話:フェチ その2
鎖骨――四肢動物の肩帯を構成する骨の一つで、各種筋肉の起始基盤として機能する骨。
それが見えて、隠れて、見えて、隠れてを繰り返している。
まるで猫じゃらしで遊ばれる猫のように、光の情緒がこちょこちょとくすぐられる。
一方、光が自身の鎖骨に気を取られているなど黎也は知る由もない。
彼はもう一度、自らの欲望に則って光の腹部をツーっと撫で上げた。
「ひゃっ……!」
不意の一撃に、光は堪えきれずに嬌声を上げてしまう。
「くすぐったかった……?」
「う、ううん……! ちょっとビックリしただけで全然くすぐったくは……」
まさか鎖骨に見惚れてたとは言えず、光は誤魔化しの言葉を口にする。
しかし、その間にも鎖骨はチラチラと彼女を誘惑し続けていた。
痩せ型の肩部に、くっきりと浮かんだ左右の骨。
朝日光は生まれながらのアスリートが故に、各種動作の起点となるそれを見れば服の下に隠れた彼の体格の全体像さえも想像できてしまった。
悶々と欲望が鎌首をもたげ始めるが、自分の口から『鎖骨を触りたい』とは言いづらい。
変態だと思われて幻滅されたくないし、何よりも今日は我慢の日だ。
……でも、やっぱり触りたい。
こっちの蜜は甘いぞと左の鎖骨が彼女に語りかけてくる。
いやいや、こっちの蜜の方が甘いぞと右の鎖骨も語りかけてくる。
じゃあ、両方とも合わせて楽しめば一体どれだけの幸福が得られるのか想像するだけでどうにかなりそうだった。
「あっ、黎也くん……!」
直後、悩める彼女に天啓が舞い降りる。
「ん?」
「そのシャツ、首のところがもうかなり緩くなってるね」
両手を彼の首元へと伸ばして、指先でシャツを摘んで鎖骨を露出させる。
余計な肉付きがなく、はっきりと浮かび上がった形の良い鎖骨に光は息を呑む。
「そう? でも、まだ買ってそんなに経ってなかったような……」
「うん! もうすっごいだるんだるんになってる!」
そう言って、襟を正す素振りをしながら器用に指先で鎖骨をツーっと撫でて恍惚に打ち震える。
ちなみにシャツが伸びているのは真っ赤な嘘である。
一方、黎也も何か変だなとは思いつつも気にせずに自分の手を動かし続けた。
傍から見れば、お腹と首元を触り合っている奇妙なカップル。
しかし、当人たちからすれば互いに互いのフェチシズムを満たす奇跡の体験だった。
そして、当然のように最初に我慢の限界へと達したのは光の方だった。
画面端に固定されていた『HIKARU IS STOP』のルールを問答無用で蹴飛ばした彼女は、彼の鎖骨を更に深く味わおうとするために身を乗り出す。
鎖骨へのチューはチューにならない。
代わりに新たな自分ルールを制定して、彼の首元にかぶりつこうとするが――
『……というわけで、今日のお天気情報でしたー!』
ちょうど手を着いた位置にリモコンがあり、テレビが地上波放送へと切り替わってしまった。
二人の視線が向けられたのと同時に、画面の中で――
『笑顔? 笑顔の私が一番かわいい?』
この二日間で、何度も何度も繰り返し見た映像が流れ出した。
『今日はこの話題沸騰中の“千年に一人の美少女”朝日光ちゃんの特別インタビュー映像を入手しました!』
続けて、アナウンサーの女性が画面の中でハキハキとした声でそう告げる。
昨日の『グッドモーニング』で紹介されたのを皮切りに、件の動画――ひいては朝日光の存在はまさに社会現象とも言うべき広がりを見せていた。
「ふ、二日経ってもまだ使われてるんだ……あの動画……」
「う、うん……使用許可の申請がすっごい来るってお母さんが困ってた……」
そんな加熱するバズりとは真逆に、テレビ番組という第三者の出現に二人の感情は急速に冷やされた。
自分たちは一体何をしてたんだろう……と。
「じゃあ、SNSのフォロワーもまだまだ増えてるんじゃないの……?」
「多分……自分じゃあんまり確認してないけど……お母さんはすっごい喜んでたから……」
羞恥心から互いに目線を逸らし、表面上は何とか平静に会話を行う。
「すごいな……ほんとに……」
「でも、私的にはもう少しテニスのことで取り上げて欲しいんだけどね」
しかし、男女間の情感が落ち着いてくると当然――
「それも……光ならそう遠くない内に実現されるんじゃないかな」
黎也の心には再び、当初の不安が蘇ってくる。
「そうかな? そうだといいけど」
「絶対そうなるって、だって光は本当にすごいし」
「そんな褒めて……もっとお腹が触りたいってこと?」
「いや、そうじゃなくて純粋に……本心としてそう思ってる。光は何でも出来て、誰からも好かれて……俺なんかとは比べ物にならないくらいすごい人間なんだって」
「俺なんかって……どうしたの? 今日の黎也くん……やっぱり、何か変……」
光が身体を向き直らせて、黎也と真正面に向かい合う。
「別に、本当のことを言っただけで他意は無――」
光が『むっ』と顔をしかめて、その場しのぎの言葉を遮る。
一方、遮られた黎也は数瞬程黙り込んだ後に、もう一度口を開いた。
「あの……さっきの動画……あれがバズってから何かずっと不安で……」
そして、観念したように自分の胸の内を吐露していく。
「不安……?」
「テレビとかネットとかでニュースになる度に、光がどこか遠い世界の人間になっていくような感じがするっていうか……。もちろん、有名になって順調なキャリアを築いてくれてるのは掛け値無く嬉しい。自分が単に拗ねてるだけの小さくて情けない男なのは分かってるんだけど……」
不安を吐き出すにつれて、自分の情けなさが浮き彫りになり、黎也の視線が徐々に下がっていく。
そんな彼を光は――
「うん、情けないね」
短い言葉でばっさりと切り落とした。
まさか彼女からそんな辛辣な言葉が出るとは思わなかった黎也が驚いて顔を上げると――
「でも、私はそんなところが好きになっちゃったんだよね」
光は黎也の顔を見据えながら、満面の笑みを浮かべて言った。
「そうやって自分が弱いところをちゃんと自覚して吐き出せるところが好き。自分の弱いところを自覚できてるからこそ、他人にも思慮深く接することができるところが好き。それで私が辛い時に誰よりも優しく寄り添ってくれたところが好き」
困惑する黎也を置いて、更に彼女は続けていく。
「一緒にいると楽しいところが好き。ゲームをしてる時にすごく真剣な表情をしてる横顔が好き。難しいところで詰まるとほっぺを掻く癖があるのが好き。難しいゲームで失敗した時に一緒に残念がってくれるところが好きだし、クリアした時には一緒に喜んでくれるところも好き。私がわがままを言っても、いつだって困ったように受け入れてくれるのが好き。最近キスがすっごい上手になってきてるところも好き。後、少し癖のある髪の毛とか指が細くて長いのとかも好きだし、他にも――」
「え、えっと……ひ、光……?」
至近から浴びせられる“好き”の奔流に圧倒される黎也。
「つまり、何が言いたいかって言うと……もう少し、私の“好き”を信じて欲しいな」
最後にそう言うと、光は両手で彼の両頬を優しく包み込んだ。
「信じる……?」
「うん、黎也くんに黎也くんなりの悩みがあるのは仕方ないもん。だから悩んでる時も……せめて私が君のこと、大好きなのだけは信じてさえくれれば……ね?」
「……ごめん。確かに俺、光がどう思ってくれてるのか考えずに……自分の中だけで一人でネガティブな感情を膨らませて不安になってた……」
「そこはごめんじゃなくて、黎也くんなりの好きで返して欲しかったなぁ~……」
「……そうやって、これでもかってくらい好きを浴びせてくるところが好き」
ニマニマとからかうような笑みを浮かべる光に、黎也は照れくさそうに返す。
「ていうかさ……それ、すっごい贅沢な悩みだよ?」
「贅沢……?」
「だって、黎也くんは“千年に一人の美少女”の全部を独り占めに出来なきゃ満足できないってことでしょ? 私としてはやぶさかじゃないけど……流石に贅沢すぎてみんな怒っちゃうよ?」
どこか妖艶さのある悪戯笑みを浮かべながら光が黎也に身体を更に近づける。
「……それ、自分で言う?」
「言ってからすごく恥ずかしくなってきたからそこにはツッコまないで欲しいんだけど」
顔を見合わせて、二人でケラケラと笑い合う。
「ところで、恥を全部吐き出したついでにもう一つだけ聞いておきたいことがあるんだけど……」
「何?」
「さっき俺のシャツの襟を掴んでた時にやたらと鎖骨に触っ――」
「あっ! 黎也くん、見て! 水着特集だって! わー! かわいー!」
黎也の言葉を大きな声で遮った光がテレビを指差す。
画面上ではいつの間にか彼女自身の特集が終わり、今年の水着のトレンドに関する特集が始まっていた。
「ほんとだ。で、話は戻るんだけど鎖骨にやたらと――」
「そうだ! 今から水着買いに行かない!?」
「今からって……いいけど、さこ――」
「ほら、そうと決まったら行こ行こ! 早く準備して!」
ベッドから立ち上がった光が黎也へと手を伸ばす。
何故か妙に慌て気味の彼女に少し首を傾げつつも、彼はその手を取って立ち上がる。
彼の中から不安が完全に消えたわけではなかったが、少なくとも今こうして自分を好きと言ってくれる彼女が手を伸ばせば届く距離にいるのは確かだった。





