第53話:夏祭り その4
「今日、朝からずっと我慢してきたのに……そんなところに浴衣なんて……」
フーッ、フーッとまるで発情した猫のように息を荒げる光。
前に俺の部屋でアニメを見て発情した時以上に興奮している。
眼前で大きく開かれた目に浮かんでいる瞳には、ハートマークが幻視できそうだ。
「お、落ち着いて……! 冷静になろう……!」
声を潜めつつも、何とか落ち着くように説得を試みる。
「私は冷静だよ……逆に、黎也くんはしたくないの?」
「いや……そりゃあ、したいかしたくないかで言えばしたいけど……」
正直に言えば、俺だって今日は一日お預けを食らっていたわけだ。
したいかしたくないかで言えば、めちゃくちゃしたい。
光とのキスはなんというか……すごく満たされるし、何度やっても飽きない。
出来ることなら24時間365日やっていたいとさえ思う。
でも、ここは俺の部屋じゃなくて着物屋の試着室だ。
「じゃあ、いいでしょ……? しよ……?」
「いや……やっぱりダメだって……」
甘い誘惑に理性のタガが外れかけるが、頭を振ってなんとか理性を保つ。
「大丈夫……! カーテンがあるし、お母さんはいないから……!」
「衣千流さんも大樹さんもすぐそこにいるし、ここ店の中だから……!」
邪魔者はいないとでも言いたげだが、常識という最大の障壁がまだ残っている。
いくら密室とはいえ、店の中で盛り合うなんてバカップルを通し越して、ただのバカだ。
「無理……! もう、ほんとに我慢できない……!」
「いや、いやいやいや……なんとか我慢してもらわな、んっ――!!」
抵抗も虚しく、両手を壁に押さえつけられたまま、唇を唇で塞がれた。
唇越しに歯の硬さを感じるくらいに、強く押し付けられたキス。
触れた部分から全身に、幸福が広がっていく。
ウェイトは最低限だけと言ってたが、微塵も振りほどける気がしない。
十秒か、二十秒か、はたまた一分か。
とにかく、長く濃密な時間だったと思う。
「……っぷはぁ」
唇が離れ、光が大きく息を吸い込む。
俺の身体から何かを接種したのか、目がトロンと蕩け、頬は更に上気している。
「こ、これで満足し――んむっ!!」
あれだけ溜めに溜め込んだ光が一度で満足するわけもなく、再び口を塞がれる。
さっきよりも強く壁に押さえつけられて、より深く、より本能的に。
唇を接触させているというよりは、もはや咥えこまれているという表現の方が正しい。
「ま、まじで気づかれるって……! やばいって……!」
再び、唇が離された隙に小声で説得を試みるが――
「その時はその時……だって、仕方ないでしょ? 黎也くんが悪いんだから……」
「お、俺のせい……?」
「今日は朝から一日ずっと私を焦らして……果ては浴衣で誘惑してくるなんて……!」
100%濡れ衣だと思うけど、ここまで強弁されると俺のせいな気がしてきた。
「でも、それを言うなら光だって大概じゃない……?」
ただ、そういう話なら俺にも言いたいことがある。
「何が……?」
「柔軟してる時にベタベタ触ってきて、挙句の果てに浴衣がめちゃくちゃ似合ってて可愛いし……俺だって、ずっと我慢してたんだけど……」
「そうなの……?」
「うん、次の土曜日までどう我慢しようかずっと考えてたし」
「別に我慢する必要なくない?」
……確かに。
多幸感でぼーっとした頭で、そう思った直後にはどちらからともなく唇を重ねていた。
俺の腕を壁に押さえつけていた手が、首の後ろへと回されていく。
同時に、解放された自分の手を彼女の背中へと回す。
ああ、もう……こんなところで何やってんだ……。
そう思いながらも既に背徳感は興奮へと変換されて、止めようとは思えない。
唇を離し、息継ぎの為に一瞬離れる間に少しだけ言葉を交わす。
「やっぱり、黎也くんとチューするの好き……」
向こうもイケないことだとは分かっているのか、声がかなり抑えられている。
ただ、その小鳥のさえずりみたいな声が余計に情感を刺激してくる。
「んっ……っちゅ……」
互いに唇をついばむようなキスを何度も繰り返す。
外では、『随分時間がかかってるな』とか思われてるのかもしれない。
今この瞬間に、様子を確認するためにカーテンが開かれてもおかしくな――
「随分時間かかってるみたいだけ――」
開かれちゃった。
斜めに傾けられた光の頭部越しに、衣千流さんと目が合う。
時間が凍りつき、心臓が鷲掴みされたような心地になる。
向こうも事実を認識するのに手間取っているのか、目を見開いて固まっている。
でも、この角度からでも俺と光が何をしているのかは少し考えれば分かるはず。
「黎也くん……もっかい……もっかいだけしよ……?」
後ろから見られているとも知らずに、甘くおねだりしてくる光。
自分だけの世界に入ってしまっているのか、後ろからの声には全く気づいていない。
一方の衣千流さんは、まだこの世の終わりみたいな顔をして固まってしまっている。
自分がどう反応すればいいのか、そこまで考えが及んでいない表情。
それから更に数秒の沈黙の後、ようやく状況を飲み込んだ彼女は――
『どうぞ、ごゆっくり……』
と、無言のメッセージを残して静かにカーテンが閉じた。
「どうかしました? あいつら、やたら遅いっすけど」
「う、ううん! 特に何も! ただ、もう少し時間かかりそうかも……。その間に、ちょっと向こうの帯のコーナーでも見に行かない……?」
外から二人の話し声が聞こえてくる。
最悪だ……。
気を使われてしまったのが、余計に恥ずかしい。
これならまだ説教された方が、いくらかましだったかもしれない。
「光……そ、そろそろ出ないと……」
思考が急速に冷却されると、自分はこんなところで何をしてるんだと急激に恥ずかしさがこみ上げてきた。
「や~だ~……もっかい……もっかいだけぇ……」
ただ、そこから完全に出来上がった光を説得するのに苦労したのは言うまでもない。
――――――
――――
――
「お待たせしました~!」
満足しきって、ツヤツヤのテカテカになった光が主役のように試着室から出ていく。
それに続いて、対照的に心労でげっそりとした俺も出ていく。
側にあった鏡で自分の姿を見ると、浴衣の色も合わさってまるで枯れ木のようだ。
「すいません。遅くなりました……帯締めるのに手間取っちゃって……」
見られていたとは露知らずに、思い切り嘘の弁明をしている光。
「い、いいの! 気にしないで! 帯って締めるの難しいもんね!」
対して、自分は何も見てない何も知らないと思い込むべく振る舞っている衣千流さん。
顔はまるで高熱を出してしまったかのように、真っ赤に染まっている。
所在なげにキョロキョロを動いていた目と目が合う。
一瞬の硬直の後、彼女は更に顔を赤くして視線をサッと逸らされた。
その後、店を出ていく際に何も知らない大樹さんから『何かあったのか?』と尋ねられた際には『夢魔に魅入られた男キャラがパーティメンバーと気まずくなるイベントを思いついた』とだけ答えておいた。





