第47話:朝日光の一日に密着 その2
「食堂はここ。基本的に利用者は会員に限られるけど、今日は特別ってことで」
「ありがとうございます。結構広いですね」
屋内コートから少し歩いて、次に案内された食堂を一望する。
席数は百席ほどあり、いちテニスクラブの食堂としては大きい。
夏休みだからなのか、高校生以下のジュニア選手で半分くらいが埋まっている。
「この辺りだと一番大きなクラブだからね。ちなみに選手志望のコースだと利用はタダ! もちろん年会費からその分が出てるんだけど」
受け取った昼食のプレートを両手に、座れそうな席を探していると――
「こっちこっちー!」
中央付近の席に座っていた光が、俺たちに向かって手招きしているのが見えた。
他の利用者を避けながら彼女のところへと向かう。
テーブルに着くと俺が光の隣に座り、お母さんが対面に座る。
「よっ……っと、午前の練習お疲れ様」
「そっちも見学お疲れ様。それで、朝の練習を見ての感想は?」
「そうだなぁ……まず、朝からあれだけの運動量はシンプルにすごいなーって思った」
事前のウォーミングアップを含めれば、ほとんど四時間くらいぶっ通しでやっていた。
つまり俺がたまに散歩して、『今日はよく運動したなー』と思った時の何十倍もの運動をほぼ毎日こなしている。
そう考えると、彼女の日々の努力には素直に驚かされた。
「ん~……まあ、今日は姫夏さんに来てもらってたし、特別多めの練習量だったってのはあるから」
「それで今、なんともない顔で昼ご飯を食べてるのはやっぱりすごいって……」
先に着いていたというのもあるけど、既にほとんど食べきっている。
俺ならあんな運動の直後にこれだけの量を食べたら絶対に吐くと思う。
「そう? ここのお昼ご飯って量はそんなに多くないから個人的にはもっと食べたい気分なんだけど」
「文句を言わない。栄養士の人が、ちゃんと色んなことを考えて作ってくれてるんだから」
二人が言い合っている横で、箸を取って食事に手をつける。
今日の献立は豚の生姜焼きとシーザーサラダに、味噌汁とご飯。
豚肉を一切れ摘んで口の中に放り込む。
まず甘辛いタレの味が舌にじんわりと染み込み、次いで生姜の風味が口腔を満たす。
学食なんかと比べると薄味ではあるけど、これはこれで美味しい。
白米で口の中をリセットして、次はシーザーサラダ。
程良い苦みのレタスに、コクのあるドレッシングが良く絡んでこっちも美味しい。
違う味が交互に楽しめると、箸が休憩するタイミングを見失ってしまう。
「ごちそうさま!」
俺がまだ半分も食べ終わっていないところで、一足先に光が完食する。
「ちょっと早くない? ちゃんとよく噛んで食べた?」
「だって、早く終わらせればその分だけ夏祭りを堪能できるんだもん!」
まるで小学生に言って聞かせるような言葉に、光が小学生のように返す。
「ということで、先にトレーニングルーム行って今日のメニュー終わらせてくる!」
空になったプレートを持って席を立った光が、そのまま食堂から出ていく。
「はぁ……ほんとに手間のかかる娘ね……」
「すいません……なんか、俺が変なタイミングで誘ったせいで……」
「まあ、そのおかげでモチベーションは高く持ててるみたいだから気にしないで」
「ははは……。ところで、やっぱり普段の食事も多少気を使った方がいいんですか?」
「ん? 普段のって?」
質問の意図が理解できなかったのか、食事の手を止めて聞き返される。
「その、彼女が俺の部屋に来てる時はあんまりバランスの良い食事とかは意識してないんで、大丈夫なのかなと……」
普段俺の部屋で過ごしている時の光は、今と違ってすごく適当な生活をしている。
食事は基本的に外食か出前で、栄養バランスなんて全く考えていない。
時にはゴロゴロとベッドに寝転がりながらお菓子を食べたり、ゲームをしながらエナジードリンクをがぶ飲みしてたりも……。
本人はそれが楽しそうなので口を挟んでいないけれど、よく考えなくてもアスリートの生活としてはゼロ点だ。
「ん~……厳密には気にしないといけないのかもしれないけど、ほらあの子ってその場の感情とか感覚で本能的に動くタイプでしょ?」
「まあ、はい……そうですね」
本人は認めなさそうだけど、首肯せざるを得なかった。
例えば、ゲームでもあからさまに危険そうなものにノリで突っ込むタイプだ。
しかも、それで大体なんとかなるのは天から愛されてるとしか思えない。
「だから、困ったことに下手な制限をする方が調子を落としちゃったりするのよね……」
「なるほど……つまり、食事はこれまで通りで大丈夫ってことですか?」
「うん、それで大丈夫」
「じゃあ、それ以外のことなんですけど――」
その後も何点か、やるべき事とやってはいけない事に関して色々質問したが……
「君のところにいる間だけは余計なことを考えずに、好きなように自然体でいてもらうのが一番じゃないかな。厳しくするのは私の役割で」
と、色々な覚悟や使命感が空振りさせられたような結論で終わってしまった。
今日、見学に来た意味の半分が失くなったな……。
すっかり人の少なくなった食堂で、そう考えながらお茶を飲んでいると――
「あ~……でも、黎也くんに一つだけ。これだけは気にかけてもらわないといけないことはあるのよね。流石に、本人にはちょっと言いづらいことだから君に頼むしかないんだけど……」
お母さんが、少し深刻そうな口調で切り出してきた。
「何ですか?」
鎮火しかけていた使命感が再び燃え上がり始める。
本人には言えなくて、俺にしか出来ないこと。
そう、そういうのを求めて――
「試合前のセックスはなるべく控えるようにしてもらってもいい?」
彼女の母親の口から突如出てきたセンシティブな単語に、使命の炎もろとも凍りつく。
「………………ん? えっ? い、今なんて言いました? せっ……?」
衝撃の余りに、何を言われたのか一瞬にして記憶から消し飛んでしまった。
「あれ、聞こえなかった? 試合前のセックスは控えてねって言ったの。それとも最近の若い子は何か違う呼び方でもする? エッチ? 仲良し? まさか、交尾!?」
「い、いえ……それで合ってると思います……」
聞き間違いではなかったことに、動揺を隠しきれない。
「そう。こういう話はしづらいと思うけど、選手としては大事なことだから」
「は、はい……まあ……そうだと思うんですけど……」
「とにかく、試合の前はそういうことを極力我慢するようにして欲しいの。ほら、あれって実はかなり体力を使うし、性欲が満たされると闘争心も落ちちゃうから」
「そ、それもなんとなく分かりますけど……」
母親から直々に娘との性交渉について指導されるって、新手の拷問か何かか?
そりゃあ、確かに大事なのは分かるけど……。
でも、これなら授業参観が保健体育の授業になる方がまだ幾分かマシだ。
「だから、三日か四日くらい前からは我慢してもらった方がいいのかなー。若いから大変でしょうけど、そこだけはパートナーの君がちゃんとコントロールしてあげてね?」
「は、はい……いや、でも……そうじゃなくて……その前にですね……」
確かに、これは俺にしか出来ない重要な役割かもしれない。
けど、その前にまず根本的にズレている部分を正さないといけない。
「そうじゃないって? まあ確かに、した方がいいって研究結果もあるらしいけど……私はそれには懐疑的なのよね。N=1の経験に依るものだけど」
「いや、そうでもなくてですね……その……そもそも俺らは、まだ……」
「えっ? あっ……もしかして、まだだった……?」
自分の失言を察したのか、慌て気味に口元を押さえている。
「っ……はい、まだ……です」
妙な誤解を生んでもいけないと思ったので、正直に告白する。
俺たちの関係は、そこまでは進んでいないと。
「あー……なるほど……そっかぁ、そうだよね。まだ付き合いたてだもんね」
「なんか……その、すいません……」
「わ、私こそごめんなさい。でも、ほら……もう何回もお泊りしてるから、てっきり……ね? あはは……」
「は、ははは……」
ものすごい気まずさを、互いに笑って誤魔化し合う。
でも、将来のために一応肝に命じておこうとは思った。





