第46話:朝日光の一日に密着 その1
パカンっと気持ちの良い打球音が繰り返し屋内に響き渡る。
「本当にありがとうございます、急に無理なお願いを聞いてもらって……」
「いいのいいの。気にしないで。私としても、あの子がどういう世界で生きてるのかを君に知って欲しかったし」
改めて礼を告げると、隣に立つ光のお母さんが朗らかな笑顔で応えてくれた。
俺たちの正面では、光がスキール音を鳴らしながらコートを縦横無尽に駆け巡っている。
今日は終業式の翌日――夏休み初日の水曜日。
そして、ここは光が所属しているサンセットテニスクラブの屋内練習場。
俺は、そこで彼女の練習風景を見学させてもらっていた。
どうして急にそうしようと思い至ったのか、理由は大きく二つある。
一つは今、言われた通りに光のテニス選手としての日常を知っておきたかったから。
将来的に遠征に帯同した際は当然、何をするにしても彼女が中心になる。
試合前はどう過ごすのか、食事はどうするのか、他にやらなければならないことや逆にやってはいけないことはあるのか……などなどと、配慮すべき事柄は多くあるはず。
それを出来れば、今のうちに学んでおきたいと思った。
それともう一つは、新たな体験から新たなインスピレーションを得るため。
大樹さんから最初に課せられた『イベント100個考案』という高難易度クエスト。
あれを何とか乗り越えられたのは、間違いなく光の存在が大きかった。
突然のメイド服から始まり、幼児への嫉妬など。
この一週間だけでも彼女は多大な刺激を俺に与えてくれた。
今度の『アイテム100個考案』の攻略に際してもきっと、力になってくれるはずだと。
しかし、まさか昨日頼んで今日見学させてもらえるとは思わなかったけど……。
「ところで、練習相手の方もかなり上手いですけど、このクラブの人なんですか?」
コート上、ネットを挟んで光の対面にいる女性。
光よりも高い身長に、少し長めの髪を後ろでポニーテールにしている。
「ううん、他所の所属。青島姫夏さんって言って、今21歳で女子シングルスの日本ランキングが3位。先日、ITF80のトーナメントで優勝した売出し中の若手って感じの子ね。今はトーナメントの合間で帰国中だったから練習相手をお願いしてもらったの」
「つまりは……プロの人ってことですよね?」
「まあ、端的に言えばそうね。テニスで食べていけるだけのお金は稼いでるでしょうし」
事実を事実として、淡々と述べているだけなんだろうけど――
「その割には……光の方がかなり圧倒してるように見えるんですけど……」
コート上では、光とその青島さんがサーブから始めるラリーをしている。
スコアこそ付けていないけれど、ほとんど実戦と変わらない形式の練習。
互いに練習だからと手を抜いているような様子は無い。
そんな状況下で、素人目にも光が日本で三番目にテニスが上手い女性を圧倒しているように見える。
「ん~、まあ……そうね。向こうはトーナメントが終わったばかりで疲れてるってのもあるでしょうけど……それでも、流石にここまでとは思わなかったかな……」
お母さんもその事実に、少し驚いたような表情を浮かべている。
前に大樹さんも言ってたけれど、今の光はどうやらもう『ジュニアでは強い』なんて次元ではないらしい。
「黎也く~ん! 今の見ててくれた~!?」
フォアのダウン・ザ・ラインでウィナーを獲得した光が、嬉しそうに報告してくる。
「こら、光! 試合中に観客席にアピールしないの! 警告貰うわよ!」
「は~い……ごめんなさ~い……」
しょんぼりしながら再び練習相手と向かい合う彼女を見て苦笑する。
こういうところは日頃、俺の部屋で過ごしてる時とあんまり変わらないな。
それから二時間程が経ち、昼休憩を迎えた。
練習中に何か気になったことがあったのか、光はコートを挟んで反対側でアナリストの人たちと会話している。
その間に手前側のベンチで引き上げの準備をしていた練習相手の青島さんが、荷物をまとめて小走りでこっちへとやってきた。
「朝日さん! お疲れ様です! 今日は呼んでいただいて本当にありがとうございました!」
防球ネットを挟んですぐ側まで来た彼女が、スポーツ選手らしいハキハキとした声で光のお母さんに挨拶をする。
「お疲れ様。こちらこそ、わざわざ遠くから来てもらってありがとね。現役のトーナメントプロと長時間打ち合えて、光にもすごく勉強になったと思うし」
「いえいえ、勉強なんてとんでもないです。私こそ、光ちゃんと打つのはとても勉強になるんで。それに、今日はコテンパンにやられちゃいましたし……もう今すぐにWTAツアーに参加しても勝てるんじゃないですか……?」
「ん~……そうかもしれないけど、まだちょっと様子見中。ほら、あの子って調子のムラッ気がすごいでしょ? 特に環境が変わるとそれが顕著でね。初めて海外遠征した時なんか、それはもう本当に苦労したのよ……」
大きくため息を吐き出すお母さんに、青島さんも苦笑している。
「確かに、昔から調子の波は激しかったですよね……」
「ほんとにね……。それで格下相手に何回勝てる試合を落としたことか……」
「でも、今は常にピーク……ううん、以前よりも更にずっと高いところで安定してる感じじゃないですか……? 大会前で集中してるのを差し引いても、以前とはまるで別人みたいって言うか……何かあったんですか?」
「う~ん……良いことも悪いことも色々あったけど、良いことの大半は彼のおかげかな」
お母さんがそう言って、俺の方を手で指し示す。
「こちらはどなたなんですか? 練習中から気になってたんですけど……」
向こうもずっと見学してた俺が気になっていたのか、そう尋ねてきた。
「あっ、俺は――」
「光の大事な大事な彼氏くん」
自己紹介するよりも先に、母親の口からあっさりと紹介されてしまった。
「ええ~! 光ちゃんって彼氏いたんですか!?」
「いたって言うか、まだ付き合い始めの出来立てほやほやのカップルね」
「うわぁ~……なんかテニスで負けたのよりちょっとショックかも~……」
「あれ? でも姫夏ちゃんもこの前会った時に、彼氏出来たって言ってなかった?」
「……別れました。一ヶ月前に」
悲壮感に溢れた声で答える青島さん。
「あらら……どうして別れちゃったの?」
「ツアーの転戦で帰国できない日が続いて、こんなに会えないのはやっぱりしんどいって……」
「あ~……よくあるパターンねー……」
「はい……最初は全然大丈夫とか、離れてる時間が長いほど愛が深まるとか、都合の良いことばかり言ってたくせにぃ……あのばかぁ……」
さめざめと心の涙を流しながら、つらつらと元カレへの恨み言が述べられていく。
光のお母さんもそんな彼女の心境が理解できるのか、うんうんと共感の意思を示して慰め続けている。
他人のことのはずが、なんだか身につまされる思いだ……。
「あの~……初対面で恐縮なんですけど、一つ質問させてもらってもいいですか?」
そんな二人の会話に、小さく手を上げて割り込む。
現役の女子プロテニス選手と話せるせっかく機会に、是非聞いておきたいことがあった。
「はい、なんですか?」
「その……やっぱりパートナーはツアーに付いて来てくれたりする方が嬉しいもんですか……?」
「それはもう! 付いて来てくれるなんてSSR彼氏ですよ!!」
「な、なるほど……」
「テニスってほら、コートの上では誰にも頼れない孤独な競技じゃないですか? だから、せめてコートの外では支えてくれる人がいるのはすごく安心できる……と、思います! 私はそんな人と付き合ったことないので知らないですけど! 多分……いや、絶対そうです!」
「あ、ありがとうございます……参考になりました」
初対面の男からの質問にも拘わらず、丁寧に答えてくれた彼女に礼を言う。
「でも、どうしてまたそんなことを……?」
「彼ね。いずれは自分の持ち出しで、光のツアーに帯同するつもりでいるんだって」
質問の意図を掴めずにいた彼女に対して、光のお母さんが補足してくれる。
「ええっ!? それ、本当ですか!?」
「まあ、まだ言ってるだけでそのための基盤は全く何も出来てないんですけど……」
「それでも、やろうとしてるだけですごいですよ。だって、まだ高校生ですよね……?」
「は、はい……光と同い年なんで高二です」
「ええ~……若いのに覚悟ガンギマリのすっごい大恋愛だ~……!」
信じられないというような目で、顔をまじまじと見つめられる。
その反応に、嬉しいような気恥ずかしいような気分になる。
「いじらしいでしょ~? 彼氏出来たって言うから、どんな男を連れてくるのかと思ったら……まさかここまで理解のある彼くんを連れてくるなんてねぇ。実は今日もそのために、光が日頃どんな生活をしてるのか知りたいって見学に来てくれたの」
「わぁ~、いいなぁ……素敵だなぁ……」
「そ、そうですか……?」
「はい。やっぱり、私たちってまず普通の仕事じゃないことを理解してもらうのが一番大事で、難しいですから。だから、こんな理解のある彼氏さんがいる光ちゃんがほんとに羨ましいです……」
ジッと憧憬の眼差しで見つめられる。
「いや、俺なんてそんな……まだまだ全然……」
「いえいえ! 自信を持ってください! そんなの生半可な覚悟で言えることじゃないですよ!」
「あ、ありがとうございます……」
手放しに褒めちぎられて少し照れ臭い。
けれど、現役選手の価値観で『良い彼氏』だと言ってもらえるのは確かに自信が付く。
「でも、テニスだけじゃなくて恋愛でも完敗なのは実はかなりショックかも……」
「姫夏ちゃんも若いんだから、まだまだこれからでしょ。あれだったらSTCのコーチ陣を紹介してあげよっか? 身内贔屓かもしれないけど、結構良い男が多いと思うけど」
力無く笑いながら言う青島さんを、光のお母さんが優しくフォローする。
その後も二人から地味に弄られつつ、色々と話を聞かせてもらった。
もちろん光と彼女では違うところもあるだろうけど、プロテニス選手と付き合うために必要な心構え的なものは多少なりとも学べた気がした。
「あっ、もうこんな時間……じゃあ、そろそろ失礼します! 今日は本当にありがとうございました! 是非また呼んでください!」
「うん、こちらこそまたよろしくね」
彼女はラケットバッグを背負って、自分のスタッフと共に去っていった。
それと同タイミングで入れ替わるようにして――
「あ~……疲れた~! お腹減った~! 黎也くん、ギュ~ってして~!」
種々の欲望がダダ漏れ状態の光が、俺たちのところへと歩いてやってきた。
「ダーメ! 練習中は過度にイチャつくの禁止だって約束したでしょ?」
「え~……! 今は休憩中だからいいでしょ~……?」
「ダメ。一旦恋愛モードに入ったら戦闘モードに戻すのに時間かかるんだから」
「私はすぐできるのに~……!!」
ネットの向こう側で、光が恨めしそうに地団駄を踏んでいる。
さっきの青島さんが落ち着いてる人だったせいか、いつにも増して子供っぽく見える。
「まあまあ、今日は本当に普段の光が見たくて見学に来てるわけだし……俺は居ないものとして扱ってもらった方が……」
「え~……黎也くんまでお母さん寄りなんだぁ~……」
「寄りって……いや、まあそうなんだけど……」
「裏切り者~……!」
ぶーぶーと不満を投げかけられるが、そういう時のために秘策は用意しておいた。
「じゃあ、その代わりに練習が終わったら一緒にこれに行くってのはどう?」
「ん、何これ……なつ……まつ……夏祭り!!」
差し出したのは以前、バイト中に商工会の人が持ってきた夏祭りの案内チラシ。
歩いて行ける距離の神社で行われると知って、確保しておいた代物だ。
「行きたい行きたい! 絶対行きたい! お母さん、終わってからならいいよね!?」
その効果は想像以上にバツグンだった。
「ちゃんと今日のメニューを全部こなしたらね」
「やる! 全部やる! もう今すぐやる! そうだ! だったらお昼ご飯も早く食べに行かないと!」
そう言って、光は疲れを忘れたように出口の方へとすっ飛んで行った。
「はぁ……プロになるって言っても、まだまだ子供ね……」
呆れるように、けれどどこか嬉しそうに溜め息を吐いている光のお母さん。
「さて、それじゃあ私たちも行きましょうか」
俺の背中をポンと叩いて促した彼女は続けて――
「それにしても、あの子の扱い方……私よりも上手いなぁ……。これは本格的に全行程に付いて来てもらうことも考えないと……」
と、独り言のように呟いていた。
次回は日曜日の18時に更新予定です。





