第39話:メイド天国
「……何、これは?」
地面に正座する自分の正面から光の冷たい声が響く。
「これは……その……」
彼女と俺の間にあるテーブル上には、少しぶ厚めの単行本が二冊。
光が初めてこの部屋を訪れた日に、絶対に見られないようにと隠したはずの物が今こうして何故か彼女の前に曝け出されてしまった。
『メイドさん・イン・ヘブン』
『国立バニー女学院高等部』
表紙を見るだけで、百人中百人が年齢制限のあるいかがわしい本だと分かるブツだ。
それが俺の心身に何らかの影響を及ぼしているのか、自律神経に異常をきたしている。
さっきから身体のあらゆるところを、嫌な汗がダラダラと伝っている。
どう言い訳するのが正解なのか、そもそもこの状況になった時点で正解なんて存在しないのかもしれない。
「私が……彼女がいるんだから、こういうのは必要ないんじゃないの……?」
嫉妬なのか怒りなのか、あるいは猜疑心なのか。
テーブル越しにこれまでで最も激重な感情を向けられている。
「さ、裁判長……それについて異議を申し立ててもよろしいでしょうか……?」
「……発言を許可します」
「あ、ありがとうございます。えっと……まず、こういうのは彼女とは別口で……男にはそのどうしても必要な時のあるもので……つまり、これは俺にとってのロジャー・フェデラーというか……」
混乱しすぎて、自分でも何を言ってるのか分からなくなっている。
「必要なの……?」
「まあ……しばしば……」
「……何のために?」
「それは……察してもらえれば……」
言葉を濁しつつ、最大限の配慮を求める。
「そりゃあ私だって、男の子には色々あるのは分かってたつもりだけどぉ……」
複雑な感情に苛まれているのか、険しい表情をしている光。
まだ中身には手を付けていないが、気にはなっているのかチラチラと見ている。
「メイドさんとバニーガールとか……こういうのが好きなの……?」
「いや、これはそういうわけじゃなくて……どちらかと言えば描いてる漫画家さんとか絵柄の好みで選んだというか……はい、好きです……」
これ以上の誤魔化しは通用しないと、素直に白状する。
原体験が何だったかは覚えていないけれど、ゲームにもよく登場するこの手の衣装が俺の癖をくすぐってくるのは認めざるを得ない。
「……私とどっちが好き?」
「そ、それはもちろん光に決まってる。さっきも言ったけど、これはその……男の生理的なあれをあれするだけのものだから比較対象にもならないって……」
その言葉が効いたのか、『へ』の字になってた口角が少し持ち上がる。
「じゃあさ……もし、私がそれ着たらもっと好きってこと……?」
「へっ? そ、それって……?」
話の筋が急に方向転換して呆けた声が出る。
「だから、その……こういう服……メイドさんとかバニーとか……」
少しもどかしそうに、表紙を指先でトントンと叩きながら光が言う。
「いや、いやいやいや……俺は服装とかそういうので光が好きになったわけじゃないから! そもそも、普段の私服がいつもオシャレでめちゃくちゃ可愛いって思ってるし、どんな格好でも既にそういう感情は最大値だから…………………………え? まじで着てくれるの?」
多分だけど今、目が血走ってると思う。
だって、彼女にコスプレしてもらうなんて男オタクが一度は夢見るシチュだ。
しかし、俺のそんな爛れた欲望を見透かしたのか、光はジトっと怪訝に目を細めて――
「ばか……」
と短い二文字を呟いた。
なんとも言い難い、若干重たい沈黙が生まれる。
その言葉にどういう意図が含まれていたのかは分からない。
ただ、彼女は憮然とした表情で自分のスマホを弄り始めた。
とりあえず許されたのか、依然として許されていないのか。
テーブルの上に置かれた自分の原罪を見つめながら、どっちかと考えていると――
「ちょっと出かけてくる……」
光が立ち上がって、玄関の方へと歩き始めた。
「え? で、出ていくって、こんな時間にどこに?」
「すぐ戻るから……」
素っ気なく応えて、彼女が玄関の扉を開けて出ていく。
……え? これ実はマジな感じで怒ってる?
しばしの呆然から慌てて後を追って外に出るが、その姿は既になかった。
今度は大慌てで部屋に戻ってスマホを取る。
謝罪の言葉に、本は処分する旨を付け加えてメッセージを送信する。
そのまま向こうのリアクションを待つが、既読も付かないまま時間だけが過ぎていく。
すぐ戻るって言ってたし、宿泊用の荷物は置いていってるから大丈夫だよな……。
けど、だからこそ本気で怒っているようにも思える……。
脳裏を『破局』の二文字が過ぎる。
こんなことでまさか……と思うが、一度生まれた不安はなかなか消えてくれない。
「どうしよう……とりあえず、日野さんか大樹さんでも連絡取った方がいいかな……でも、それで大事になりすぎたら逆に引っ込みがつかなくなるかも……?」
立ったまま、部屋の中を所在なげに行ったり来たりする。
そうして何かをできるわけもなく、ただ不安に押しつぶされそうな時間を過ごしていると――
入口の方から扉が開いた音が聞こえた。
帰ってきた!?
大慌てで、コケそうになりながら玄関へと向かう。
間仕切りを開けて、彼女の姿が見える前から謝罪の言葉を紡ぎ出す。
「ほんっとにごめん! あの本はすぐに処分す――」
「いいから……そっちで待ってて……」
憮然とした表情で靴を脱いでいる光が、俺の言葉を遮って言う。
彼女の右手には、デフォルメされたペンギンの絵が印刷された大きな袋が提げられていた。
「え? 待って……って、なんで? てか、その袋は?」
「いいから! 待ってて!」
そう言って、両手で身体を押されて寝室の方へと押し出された。
間仕切りが閉められた直後、洗面所の扉が開閉する音が聞こえる。
一体、何がどうなってる……?。
不安が一転して、大きな困惑となる。
帰って来たということはもう怒ってないのか、それにあの袋は何なのか。
疑問の答えは、数分も経たない内に明らかとなった。
「……どう?」
洗面所から出てきた彼女は、何故かメイド服を身に纏っていた。
「……なんで?」
形式上、そう聞きはしたけど答えは既に分かっていた。
「だって……黎也くんがメイドさん好きだって言うから……」
さっきの『ばか……』は、YESの意思表示だったらしいと。
「それで、わざわざ売ってるところを調べて買ってきたってこと……?」
ムスッとした表情のまま、光が首を縦に振る。
白と黒を基調とし、フリルが沢山付いたミニスカートのメイド服。
布の質は悪いし、造形も非常に簡素で面白みがない。
どう見ても、ペンギン印の『驚安の殿堂』で売っている低質なコスプレ衣装だ。
クラシックスタイルの王道メイド好きなら、こんなものは邪道だと切り捨てるだろう。
「それで……どう? 感想は?」
「……めっちゃかわいい!」
けれど、このいじらしさは俺にとって5000億兆点の正解以外の何物でもなかった。
「……ほんと?」
「もう似合ってるとか通り越して、本物のメイドかと思った」
「え~……そこまでかなぁ……?」
涙が出そうなくらいの安心と幸福を由来とする褒め言葉に、光がニヘっと破顔する。
「もしかして、前世は英国王室の侍女長だった?」
素直な感想に保身が合わさって、褒め言葉が止めどなく溢れ出てくる。
「そんなに似合ってるかな~……じゃあ、こういうのはどう……?」
光も気分が良くなってきたのか、その場でメイドっぽいポーズを取り始めた。
「最高! 真のメイドがこの世に現れてくれた記念に写真撮ってもいい?」
「え~……も~、仕方ないなぁ~……いいよ」
その場でクルっとターンしたり、上品にスカートの裾を持ち上げたり。
天性の愛らしさが、服装のパワーによって何倍にもなっている。
そうして、キャメラマンになって褒め続けること数十分――
「いぇい!! ありがとー!!」
最後に、最高の笑顔に添えられたピースサインで締めくくられた。
俺のいかがわしい漫画のことなんて、これでもう完全に忘却の彼方だ……。
「ふぅ……にしても、驚かされた……」
「何が?」
色々な気苦労から解放されてベッドに座ると、光も真横に腰を下ろしてきた。
「てっきり、怒って帰ったのかと思ったら……いきなりメイドって……」
「怒ってって……私、そんな風に見えた……?」
自覚がなかったのか、心配そうに尋ねられる。
「ん、まあ……正直かなり……」
「……だったら、ごめん」
服の裾を摘みながら、しおらしく謝られる。
「別に、謝られるほどのことじゃ……」
「でも、私……ほんとにすぐ『やだー!』ってなってすごい嫉妬しちゃうから……こういうの“重たい”って嫌われるやつだよね……?」
「ま、まさか! このくらい全然重たいなんて思ってもないし、むしろ俺は重いのとか全然大丈夫だから!」
「漫画にも嫉妬しちゃうような子でも……?」
「もう、どんと来いって感じ。むしろ、嫉妬されなくなった方が俺も不安になるし」
「そんなこと言われたら……本当にすっごい重たい彼女になっちゃうよ? 大丈夫?」
嬉しそうに言いながら、肩に体重を預けてくる。
こういう時は何か気の利いたことを言ったり、抱き寄せたりするべきなんだろうか……。
「それは、物理的にってこと……? そっちは今かかってる体重くらいがちょうど良いんだけど」
「……ばか」
苦し紛れのつまらない冗談に、光がくすっと笑いながら言う。
そうしてしばらく、肉体的にも精神的にも心地の良いくらいの重みを堪能する。
「ところで、それ……いつまでその格好でいる予定?」
少し眠気が生まれてきたところで、同じように微睡み始めていた光に尋ねる。
「ん~……もう着替えてもいいんだけど、黎也くんはもう満足した……?」
「まあ、割りかし満足はしたかな。写真もいっぱい撮らせてもらったし」
スマホ容量を目一杯に使った、誰にも見せたくない禁断のフォルダが出来るくらいには。
「……ほんとにぃ?」
「本当だって。色々疲れてたのが全部吹っ飛んだくらい」
「やっぱり疲れてたんじゃん……」
「あっ……」
大元の原因を忘れて、自ら墓穴を掘ってしまった。
「でもさ、それなら疲れてる御主人様にもっと尽くしてこそのメイドさんだって思わない……?」
「……と言うと?」
その言葉に、心臓をギュッと掴まれたような心地になりながら聞き返すと――
「せっかくだから……この格好のままでいいことしてあげよっか?」
蕩けるような甘い声で、そう囁かれた。





