第35話:提案
――翌日曜日、早朝。
「あ~……急がないと急がないと~……」
広くはない部屋の中を光が忙しなく、行ったり来たりしている。
「そんなに慌てなくても、まだお母さんも迎えに来てないんじゃないの?」
「でも、もし遅刻したら来週から外泊はダメだって言われるかもしれないし……」
と言いながら、トーストを片手に出発の準備を整えている。
光はほとんど毎週の外泊を認めて貰う代わりに、母親といくつかの取り決めをしているらしい。
それが具体的に何かまでは分からないけれど、俺のところで過ごす時以外は真面目にテニスの練習に打ち込むという条項は間違いなく入っているだろう。
「じゃあ、失礼がないように着いたら俺も軽く挨拶に行った方がいい?」
「……それは要らない!」
「いや、でも……やっぱり一応そこの筋は通しておいた方が――」
「いいの!! もう前に話したんだから大丈夫!!」
朝食を取る手を止めて、強い口調で突っぱねられる。
どうやら、俺が母親からまた何かを吹き込まれるのがよほど嫌らしい。
そうして朝の準備は終わり、今週もしばしの別れの時間が訪れる。
「じゃ、行ってくる! 終わったらまた連絡するね!」
「うん、いってらっしゃい。気をつけて」
玄関で、大きなラケットバッグを抱えて立つ光を送ろうとするが――
「……どうかした?」
彼女は俺の顔を眺めたまま、名残惜しそうな表情をしている。
「もう迎えの車は着いてるだろうし、早く行かないとまずいんじゃないの?」
「うん、それはそうなんだけど……」
言葉とは裏腹に出ていく様子を見せずに、何かを察しろと言わんばかりにジッとこちらを見続けている。
「なんだけど……?」
「いってらっしゃいのチューは無いのかなーって……」
俺の察しが悪すぎると察されたのか、少し照れながらも真っ向から要求が突きつけられた。
「さっき、歯を磨いた後にしなかったっけ……?」
「それはおはようのチューで、いってらっしゃいのチューとは別だもん」
「……じゃあ、最後に一回だけ」
一歩前に踏み出して、光の肩に手を置く。
目を閉じて、少し背伸びした彼女の唇に自分の唇を軽く重ねる。
最初はあれだけ緊張した行為が、今は自然と行えるようになったくらいにはもう何度も繰り返した。
でも、すること自体は慣れてきたが何度やっても新鮮な気持ちの高揚があり、離れる際には何度やってもやり足りない名残惜しさも生まれてしまう。
「えへへ……なんか、こういうのって新婚さんみたいじゃない?」
俺が思うだけにしておいた言葉が、あっさりと口に出されて顔が熱を帯びる。
「……エネルギー補充はこれでもう万全?」
「うん! 100%!」
「それじゃあ、今度こそいってらっしゃい」
そう言って、今度こそ部屋から出ていこうとする彼女を見送ろうとするが――
「やっぱり、もう一回しといてもいい……? 300%くらいまで」
振り返った彼女が甘い声でおねだりしてくる。
そうして結局、光の母親から催促のメッセージが届くまでに五回繰り返した。
もし将来、同棲したりするようなことになれば毎日がこんな感じになるんだろうか。
口元に残った甘さに浸りながら部屋に戻って椅子に座ると、ふと自分のスマホにもメッセージが届いているのに気がついた。
「あっ、大樹さんからだ……」
送り主はしばらく音沙汰のなかった彼女の兄弟だった。
そこでようやく、期末試験によって端に追いやられていた記憶を思い出す。
しばらく音沙汰がなくて忘れていたけれど、あれを送ってからもう数週間も経っている。
プロとしての感想を求めた以上は厳しい反応も覚悟していたが、ここまで引き伸ばされたせいで緊張は一気にピークを突き抜ける。
それでも確認しなければいけないと、意を決してメッセージを開くと――
『今から俺の家に来れるか?』
そこにはただ短く、そう記されていた。
*****
「意外と普通のマンションなんだな……」
大樹さんから送られて来た地図を頼りにやってきた建物を見上げながら独り言ちる。
五階建てで一階が駐輪場になっているマンション。
大学生が多く住んでいるのか、出入り口には彼と同年代の人たちが行き来している。
外から見えるベランダの間隔からすると、どうやら学生向けのワンルームタイプらしい。
本人の性質からしてもっと変わったところに住んでると思ってたけれど、それは流石に偏見が行き過ぎてたようだ。
オートロックでもなさそうなので、そのまま入口を通って階段を登る。
二階の角部屋へと辿り着き、指定された部屋番号と相違無いことを確認してからインターホンのボタンを押す。
軽快な呼び出し音が扉越しに微かに響いてきた直後、物を掻き分けるような音が奥から接近してくる。
「おー……よく来てくれたな」
扉を開けて、大樹さんが出迎えてくれた。
まだ寝起き気味なのか、髪の毛がボサついていて目が少し虚ろだ。
それでも俺とは比べ物にならないレベルのイケメンなのはずるいと思う。
「どうも、お久しぶりです」
「おう、久しぶり。まあこんなところで立ち話もなんだし、部屋の中で話そうぜ」
「は、はい……じゃあ、失礼します……」
予想通りというべきか、予想以上というべきか……。
踏み入った部屋の中は物が大量に溢れかえっていた。
まず玄関には満杯のゴミ袋がいくつも放置され、台所は使用した形跡が一切見られない。
その代わりに未開封のカップ麺と水、エナジードリンクの箱が積み重ねられている。
人のことを言える生活状況ではないけれど、これはひどいと言わざるを得ない。
綺麗好きの衣千流さんが見たら卒倒しそうだ。
そこから更に魔境の奥へと向かう心地で部屋の奥へと足を踏み入れると、今度はまだ違った光景が目に飛び込んできた。
まるで熟練の株式トレーダーのように上下二段に並んだ横三面のモニター群。
そこに映像を出力するパソコンは、見た目で性能が分かるくらいにイカつい。
他にも液晶タブレットやシンセサイザーなどのクリエイター系の高そうなデバイスも設置されている。
光が買ったパソコンもすごかったが、こっちは更にその数倍はかかっていそうだ。
「なんか、すごい部屋っすね……」
諸々の感情を込めた所感を、短い言葉で最大限に表現する。
「これでも実家から持ってくるもんは厳選したんだけどな……って、んな話をするために来てもらったんじゃねーんだよ」
足元に散らばった大量の本を避けながら歩き、大樹さんが椅子へと座る。
「今日、来てもらったのは他でもない……前に見せてもらったあれの話だよ」
「あれって言うと……あれですか?」
「おう、お前がプロとして見てくれって言ったあれだよ。随分と遅くなって悪かったな。ちょっと色々と準備してたら時間がかかっちまった」
「それはいいんですけど……どうでしたか? 忌憚のない感想を貰いたかったんで、何を言われても大丈夫なように覚悟はできてますけど……」
と言いながらも、既に戦々恐々としている。
わざわざ家にまで呼び出されるくらいだ。
顔を合わせて説教しないといけないくらいの出来だったのかもしれない。
「ん~……まあ、言いたいことは色々あるけど……。とりあえずは、こいつを見てもらえりゃ早いか」
大樹さんがマウスを操作すると、中央の画面に何かを表示された。
スライドショー形式で、画像が次々と流れていく。
イメージボード的なコンセプト画に、キャラクターデザインの三面図。
初めて見るはずなのに、その世界観にはよく見覚えがあった。
「えっ? こ、これって……」
「黎也。お前、夏休みを捧げる覚悟はあるか?」
俺の意志を確認するように、じっと顔を見据えたまま尋ねられた。
寝不足なのか、目の下に大きな隈が浮かんでいる。
けれど、これまで見た大樹さんの顔つきで最も真剣な表情だとも思った。
「夏休みを捧げるって……あの……ちょっとまだ混乱してて、意味と状況がよく掴めてないんですけど……」
なんで俺が作っていたあれが、こんなまるでプロが作ったみたいなものになっているのか。
状況が全く分からずに混乱している中で、更に大樹さんが追撃をかけてくる。
「だから、端的に言うとだな……お前の作ったこのゲームを、うちのスタジオで製品として完成させようぜって話だよ」
次回は水曜日の18時に更新予定です。