第31話:母と娘
「俺の前にって……いやいやいや、相手は家族なんだからそんなこと思わないって……」
「ほんとに……?」
隣から膝に手を置いて、不安げに尋ねられる。
「本当本当。家族が好きなのはいいことだし……むしろ、新しい一面を知れて嬉しいって言うか……」
なんならお父さんを除けば俺が初恋の相手だという事実は、正直この場で飛び上がりそうになるくらい嬉しかった。
流石にしないけど。
「なら、ちょっと恥ずかしいけど……もっといっぱい知ってもらいたいかも……」
そう言いながら、甘えるように身体を寄せてくる。
「あの……お母さんの前だし、出来ればちょっと控えめに……」
「やだ、させてくんないなら見ちゃだめ……」
「黎也くんは、直樹さんよりもずっと大変になりそうね……」
テーブルを挟んで、半ば呆れるように半ば祝福するように笑われる。
その後もアルバムを眺めながら、母親視点で色々と光の話を聞かせてもらった。
俺の知らなかった時代の話や、これまでのテニスでの活躍など。
光は時折恥ずかしそうにしながらも、なんだかんだで終盤は自分もノリノリで色々と話してくれた。
「あっ、もうこんな時間……そろそろ夕飯の準備しなきゃ。黎也くんも食べていくわよね?」
「えっ、そんなわざわざ……」
「遠慮しないの。賑やかな方が楽しいでしょ? 直樹さんはしばらく出張で、大樹も出て行って久しいし」
「そ、それならお言葉に甘えて……」
「じゃあ、光も手伝ってくれる? 彼に手料理を食べさせてあげたいでしょ?」
「うん!」
二人が立ち上がり、キッチンの方へと歩いて行く。
「ふぅ……」
一人になったリビングで、大きく息を吐きだして肩をなでおろす。
緊張した……。
めちゃくちゃ緊張はしたが、ちゃんと受け入れられてそれ以上に安心した。
光のお母さんも良い人そうだし、良好な関係が築いていけそうな手応えも感じる。
「はぁ……でも、流石に気疲れした……」
身体から力が抜けて、背中からソファへと深く倒れ込む。
それからしばらく一人で手持ち無沙汰な時間を過ごしている間に料理が完成し、今度は三人で楽しく夕食を食べた。
俺が何かを口にする度に、光は『それ美味しい?』『さっきのとどっちが美味しい?』などと尋ねてきたが、最後までどれが自分の作ったものなのかは教えてくれなかった。
そうして食事が終わり、帰宅の時間が訪れる。
帰りは光のお母さんが車で送ってくれることになった。
「う~……私も送りたいのに~……!」
助手席に乗り込もうとしたところで、光が不満そうに袖を掴んでくる。
「気持ちは分かるけど、貴方は家で留守番! 今日は夕飯の食べ過ぎに加えてケーキも食べたんだから、追加のトレーニングとストレッチをしておくこと!」
「帰ってきたらちゃんとやるから~……」
「ダメ。毎週外泊を認めてあげてるんだから、家では言うことを聞きなさい」
それを言われると弱いのか、光はむーっと頬を膨らまして黙り込んでしまった。
「帰ったらすぐ連絡するから。パソコンも繋がるようになったし」
「分かった……。じゃあ、気をつけてね……? 後、お母さんに変なこと吹き込まれないでね?」
名残惜しそうに掴まれていた袖が離される。
「うん、また」
ドアを閉めて、伝えた住所がナビに入力される。
走り出した車内から、窓越しに光へと手を振る。
向こうもガレージから出て大きく手を振り返してくれていたが、最初の角を曲がるとその姿は見えなくなった。
同時に、光のお母さんが口を開く。
「ごめんね、無理に引き離しちゃって。でも、どうしても二人きりで話したかったの」
「えっ? それは、どういう……」
若干の深刻さを感じる切り出し方に、抜けていた緊張が一気に引き戻される。
まさか、ここに来て『さっきは光の手前で言えなかったけど、やっぱり将来のことを考えて別れて欲しい』とか言われる……?
復活したネガティブ思考に囚われかけていると――
「そんな怖い顔しないで。別れろとかそういう話じゃないから」
光のお母さんが笑って、それを吹き飛ばしてくれた。
「で、ですよね……」
心配が杞憂に済んだことで、ほっと安堵の息を吐く。
「むしろ、その逆……君には本当に感謝してるって伝えたかったの」
「感謝、ですか……? すいません、あんまり心当たりがないっていうか……むしろ俺の方が夕飯もごちそうになった上に、家まで送ってもらえて感謝してる側っていうか……」
「あはははっ! そっかそっか、きっとそういうところなんでしょうね」
何のことか分からずに首を傾げていると、大きな声で笑い飛ばされる。
「あの子ね。天才なの」
「……天才?」
突然出てきたその単語に、頭の上に更に大量のハテナマークが浮かぶ。
「うん、私も同じくらいの年齢の時には神童とかよく言われたけど、全く比べ物にならないくらいの本物の天才ね」
「それって……テニスの話ですか?」
「ん~……まあスポーツなら何をやっても大成できたとは思うけど、これは一応テニスの話になるのかな? 特に目の良さとボールタッチが天性のものでね。ボールタッチに関してはこう……ラケットに吸い付くっていうの? あの子の場合は打ち返してるっていうよりも掴んで投げてるって方が近いくらい……って、こんな技術面の話をしたいんじゃなかった……」
娘の才能を活き活きと嬉しそうに語っていたのを中断して、話が切り替えられる。
「でも、そこまで天才すぎたが故……なのかな。いつの間にか関わる人たちみんなの期待を全部、背負っちゃってたみたいなの。私はいつも、自分のために楽しんでプレーしなさいって教えてたんだけど……逆に仇になっちゃったのかな。とにかく、それで春先に膝を怪我した後に結構深刻なスランプに陥っちゃってね……」
「それは、はい……日野さんから聞いてました」
「そうだったんだ。あの頃の光はもう……それはそれは思い詰めててね。もしも、怪我が悪化してテニスが出来なくなったらどうしよう、期待に応えられない自分は無価値になるんじゃないかとか。きっと、そんなことばかり考えてたんだと思う。だから絢火ちゃんにも色々とお願いして、どうにかしてあげようとしたんだけど……。私や絢火ちゃんが何を伝えても、やっぱりどうしてもテニスを頑張って欲しいって期待が乗っちゃって上手くはいかなかったの」
車のエンジンの音に紛れて、当時を思い出しているような悲しい声が響く。
「で、そこに現れたヒーローが君ってわけ!」
「ひ、ヒーロー……ですか?」
急に話の質感が変わって、少し困惑する。
「そう。これは私の推測だけど、君と一緒にいるのが光は本当に楽しかったんだと思う。だから、そこで初めて……『もしテニスができなくなっても大丈夫な自分』を想像できたんじゃないかな。そのおかげでまたテニスにも向き合えるようになって、私は君にすごく感謝してるってわけ」
「でも、正直怪我の功名っていうか……そこまで気は回ってなかったっていうか……」
「いいじゃない、それで。結果オーライってやつ?」
あっけらかんとそう言われて、また少し気が抜ける。
「い、いいんですか……? 下手したらテニスを辞めて、俺みたいに卑屈なインドア系女子になってたかもしれないですけど……」
「それはそれで、あの子の人生だし。かわいいかわいい娘だもの。どんな形でも幸せに生きてくれるのが一番でしょ?」
「はぁ……なるほど……」
相槌を打ちながら、前に大樹さんが言っていた言葉を思い出す。
『俺がテニスを辞めた時も、お袋は好きなようにすればいいってスタンスだったからな』
なるほど、確かにその通りらしい。
「でも、君が本当に大変なのはここからよ?」
「……というと?」
「今のあの子、本当に無敵状態だから……君に分かりやすく言うならスターを取ってる状態?」
笑いながら、国民的ゲームネタを交えて言われる。
「これまでは気分屋で調子の波も激しいから負ける時はあっさり負けてたけど、今のあの子が負ける姿はちょっと想像できないかな。これもきっと君の影響なんだろうけど、プレー中はもう常に最高の精神状態でゾーンに入ってるって感じ」
「そ、そんなにですか……?」
「うん、そんなに。だから今度の全米ジュニアも多分優勝して……そしたらツアーの下部トーナメントもあっという間に抜けて、ジャパンオープンで華々しくプロデビュー……世界ランキングもほとんど苦労せずにトップ10入り……これが遠い夢想じゃなくて数年以内には現実になると思う」
俺が素人目線でそうなるだろうと想像するよりも、元プロ選手の言葉には遥かな重みがあった。
「けど、テニスのプロツアーってすごく過酷なのは知ってる?」
「それは……はい、自分でも少し調べたんで知ってます」
「私も直樹さん……今の旦那と付き合い始めたのは現役時代だったけど、それでもツアー中はたまに会うのが精一杯で……恋人らしいことなんてあんまりできなかったから。光と付き合うなら、当然そんな覚悟が必要になるけど……貴方にはある?」
また一転して、少し重たい空気が車内に生まれた。
信号が青になるのを待ちながら、俺の覚悟を見定めるようにじっとこっちを見ている。
別れさせるつもりはないと言っていたが、答え如何ではそれもあるような雰囲気を感じる。
けれど、それに対する俺の答えはもうとっくに決まっていた。
「……ありません」
「え? な、ないの……?」
思っていた答えとは違ったのか、少し間の抜けた風に聞き返される。
「はい、ありません。正直言って、そんな頻繁に好きな人と長期間離れ離れになるとか絶対に無理なんで」
「……じゃあ、その時が来たら別れるってこと?」
「いえ、それこそありえません」
どっち付かずの答えに、ハンドルを握りながら今度は向こうが当惑している。
「俺は本当に……自分が思ってる以上に彼女に憧れてて、めちゃくちゃ好きなんで。だから、会えなくても耐える覚悟じゃなくて……どこまでも付いていく覚悟をしてます」
「付いていく……って、青になってるし……」
俺の言葉に驚きつつも、青になった信号を見て車が再び発進する。
「で、どういうことなの? もしかして、ツアーに帯同するつもりってこと?」
「はい……ゆくゆくは、そう出来ればいいなと思ってます」
「まあ……今更チームが一人くらい増えても大丈夫といえば大丈夫だけど……。メンタルコーチ補佐特別スーパーバイザーとか適当な役職をでっちあげて……」
「いやいや……そこはもちろん自力で、自費でやるつもりです……!」
「自費!? 遠征のスケジュールを考えると、年間で何百万って費用になるわよ?」
「はい、正直めちゃくちゃ厳しいし……やる気だけでどうにかなるとも思ってませんけど……それでも、やる前から諦めるって選択肢だけはないんで……」
改めて、その覚悟を口にする。
光と違って、俺はどこにでも掃いて捨てるほどいるただの高校生でしかない。
そんな奴が今の段階でこんなことを言っても、口だけの夢想にしか思われないのは分かっている。
けれど、だからと言って何もやらない理由にはならない。
「なら……やっぱり光に甘えてもいいんじゃないの? あの子だって、君が側にいる方がいい状態でツアーにも臨めるでしょうし。ここだけの話だけど……プロデビューしたら大口のスポンサーになりたいって企業が大行列を為して順番待ちしてる状況だから、お金だって問題ないわよ?」
「仮に、光が望んでくれたとしても……そういう関係は俺の本意じゃないです」
「そう……そこまで腹が据わってるなら、私から言うことはもう無いわね。ちなみに、今の甘言に乗っかってヒモ男になるつもりだったら、実はこの場で蹴り出すつもりだったんだけどね」
「え゛っ……?」
「…………冗談よ」
真顔且つ冷淡な声で言われて、全く冗談に聞こえなかった。
「でも、そっかそっか……光がどんな男の子とどんな恋愛をしてるのかって、ずっと気になってたけど……良くも悪くも高校生離れしてるわね~……」
「きょ、恐縮です……」
「まあ私も大概面倒な大恋愛の末に結婚したし……やっぱり子は親に似るものね」
お母さんがそう苦笑したのと同時に、車が停車する。
「この辺りで大丈夫?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございました。わざわざ送っていただいて」
改めてお礼をし、ドアを開いて車から降りる。
「いいのいいの、気にしないで。こっちも色々と話を聞かせてもらって楽しかったし。おやすみなさい、気をつけて帰ってね。それと……頑張ってね。ウィンブルドンのファミリーボックスで、一緒に応援できる日を楽しみにしてるから」
少し気の早い言葉を言い残して、車が道路の向こうへと走り去っていく。
周囲には夜の帳が下り、空には珍しく星々がくっきりと浮かんでいた。
その中に燦然と輝く大きな星と、寄り添うようにある小さな星を見つける。
少し空気が澱めば、今にも見えなくなりそうな弱々しい光。
でも、遠くにあるだけで本当は同じくらいに煌めいているのかもしれない。
何の星かは分からないけれど、なんだか妙に親近感が湧いた。
「……頑張らないと」
大きく息を吐き出して独り言ち、一歩を踏み出す。





