第30話:最強の敵?
「え? あ、あれ? でも、後二時間って……」
「そのはずだったんだけど……なんか帰ってきちゃったみたい……」
帰ってきちゃったんだぁ……。
予期せぬお預けに興奮の熱が急速に冷め、さーっと全身から血の気が引いていく音がする。
天国から地獄とはまさにこのことか。
「ごめん、ちょっと待ってて!」
光が少し乱れていた服を直し、部屋の外に出ていく。
少しして、扉の向こう側から二人分の話し声が微かに響いてきた。
会話の内容は分からないけれど、母親が帰宅したのは事実らしい。
まるでタンスの中に隠れている間男の気分で、光が戻ってくるのを待つ。
数分ほど続いた会話が途切れ、今度は階段を上がってくる足音が聞こえる。
扉が開き、隙間から光が顔を覗かせた。
「お母さんが黎也くんに挨拶したいって言ってるんだけど……大丈夫?」
そして、今日は避けたと思っていたはずの最高難度クエストがいきなり開始された。
「あ、挨拶……? 光のお母さんに……?」
「うん、いつもお世話になってるから話したいって……」
他人を介して聞いているにも拘わらず、有無を言わさない力強さを感じる。
正直言って、心の準備は全く整っていない。
けれど、退路は既に断たれている。
ここから逃げようと思えば、本当に間男のように窓から飛び降りるくらいしかない。
「わ、分かった……。俺も、一度は挨拶しておかないとって思ってたし……」
ベッドから立ち上がり、服を整えて覚悟を決める。
「ごめんね……今日はまだ帰ってこないと思ってたんだけど、個人レッスンする予定だった人が夏風邪をこじらせちゃったんだって……」
「そ、そうなんだ……だったら仕方ないな……」
光の後を追って部屋を出て、一階へと向かう。
階段を降りる一歩一歩が、荷物を運んでいた時とは別の意味で重たい。
今からきっと、俺の人生で最強クラスの相手との戦いになる。
ひと目見た瞬間に、露骨にガッカリされたらどうしよう……。
光には相応しくないから別れろなんて言われた日にはもう……。
生まれ持った闇属性の性質で、瞬く間に脳内がネガティブ思考に埋め尽くされる。
いつの間にか、脳内BGMもラストダンジョン的なやつに切り替わっている。
「お母さーん、連れてきたよー」
光が扉を開けてリビングへと入っていく。
もうこうなれば、破れかぶれだ。
リビングへと足を踏み入れたのと同時に、思い切り頭を下げる。
「は、はじ、はじめまして!! ひ、光さんとお、おつ、お付き合いさせていただいている、か……影山黎也と申します!! こ、この度は挨拶もせずにお宅の敷居を跨いでしまって――」
そうして噛み噛みになりながらも、精一杯の声を張り上げて挨拶するが――
「えっ……? な、直樹さん……?」
頭の上から響いてきたのは、全く知らない誰かの名前だった。
「お母さん、違うって……! 黎也くんだって、私の彼氏の……」
「だ、だって……ちょっと、君……顔上げてもらえる?」
「えっ? は、はい……」
言われた通りに顔を上げると、前に一度見たことのある女性の姿があった。
光のお母さん……元プロテニス選手で確か名前は、朝日光希さん。
光よりも高い身長に、同じ色合いの少し長い髪の毛。
前は遠くにいるのを少し見ただけだったが、改めて近くで見ると光にそっくりだ。
光がこのまま年を重ねれば、こういう女性になるだろうというのを体現している。
しかも、引退時の年齢と大樹さんの年齢から逆算すると四十半ばくらいのはずだが、三十代でも全然通用するくらいに若くも見える。
「え~……うわっ、びっくり~……」
俺も驚いている一方で、向こうもこっちを色んな角度から見ながら何かに驚いている。
「ど、どうも……はじめまして、影山黎也です……」
どう反応していいのか分からずに、とりあえずもう一度自己紹介する。
「あっ、ごめんなさい。光の母の朝日光希です。こちらこそ、娘がいつもお世話になっているみたいで」
「い、いえ……お世話なんて、そんな……」
「はぁ~……でも、ほんとにそっくり……」
軽く挨拶を交わすと、彼女は再び俺をまじまじと見ながら驚愕しだす。
何なんだろう、これは……。
何か思ってたのと違うというか……。
「あの……そんなに誰かに似てますか?」
流石にここまで言われると気になってしまったので、尋ねてみると――
「うん、旦那の若い頃にそっくり」
短い言葉で、俺としても驚愕の事実が告げられた。
「えっ、旦那さん……ってことは……」
「そっ、光のお父さん。顔つきもだけど……こう全体的な印象というか、雰囲気がそっくりよねぇ……ってことは、一目惚れだったんでしょ?」
光のお母さんはそう言うとニッと笑って、俺の隣に立つ光へと問いかけた。
「はっ、えっ? な、何が?」
突然の質問に、光が若干焦ったような反応を見せる。
「だから、初めて会った時に光の方が一目惚れしちゃったんでしょ? 絶対そうでしょ? だって光と言えば、昔からお父さんのこと大好――」
「ちょ、ちょっとお母さん!!! 黎也くんの前で変なこと言わないでよ!!!」
光が、これまで見たことのない慌てっぷりで母親の言葉を遮る。
「何を慌ててるのよ。変なことって、別にファザコ――」
「わ~~~っ!!!」
ほとんど叫ぶように喚き立てて、必死に母親の声をかき消そうとしている光。
一方でお母さんの方はわざとだったのか、クスクスと笑っている。
その子供っぽい悪戯な笑みを見て、確かに光の母親だと思った。
「えっと……黎也くん、だっけ?」
「は、はい……!」
「ケーキと紅茶は好き?」
「はい……好き、ですけど……」
「じゃあ、用意するから向こうのソファに座って待っててくれる? せっかくだし腰を据えて、ゆっくりと話しましょ。光のこと、色々と教えてあげるから」
ニコっと朗らかに笑って、キッチンの方へと歩いていく光のお母さん。
その背中に向かって、光は何か恨めしそうにブツブツと呟いている。
なんだかよく分からないが、俺にスポット参戦の最強の味方が出来たらしい。
そうして、言われた通りに光と座りながら待っていると、少し経ってお母さんもやってくる。
「お待たせ~!」
ケーキと紅茶がテーブルの上に並べられる。
そのまま、テーブルを挟んだ対面側に座ったかと思えば――
「じゃじゃ~ん! いい物を持ってきたぞ~!」
と言って、分厚い本のようなものがテーブルの上に置かれた。
「あー!! ちょっとお母さん、それは本当にダメだってば!!」
それを見た瞬間に光が大慌てで、表紙を隠すように手を置く。
「ほらほら、隠さないの。いいじゃない。別に恥ずかしがることないでしょ? 黎也くんだって、絶対に見たいでしょうし」
その光の反応と形状から、それが何なのかは概ね想像がついた。
「もしかして、アルバムですか?」
「うん、光が小学校から中学校までの全記録。見たいでしょ?」
「……正直、見たいです」
「裏切り者ぉ~……!!」
素直に答えると、隣から恨ましげな言葉と共に肩の辺りをポカポカと叩かれる。
「それじゃあ、賛成多数で可決ということで順番に見ていきましょう」
光の抵抗も虚しく、アルバムが開かれる。
そこには幼少期から今に至るまでの光の軌跡が収められていた。
テニスのラケットを持って、笑顔でカメラに向かってピースしている写真。
運動会のリレーで、アンカーとして大声援を受けながら走っている写真。
同じく子供時代の日野さんと一緒に、スキーに興じている写真。
俺の知らなかった光の物語が、母親監修でつらつらと語られていく。
「じゃあ、次のページは……」
彼女の親との初対面としては、終始かなり和やかなムードで進んでる。
……少なくとも、俺にとっては。
「この辺りは小学校四年生で関東大会に出た時だったかしら。この頃は今よりも少し髪を伸ばしてたんだけど、かわいいでしょ~?」
「あ、はい……すごくかわいいです……」
次に示されたのは試合中の写真。
今よりも少し長く、肩にかかるくらいの髪の毛。
プレーの邪魔にならないように後ろでまとめているのは前に見たのと同じだけど、髪の長さが違うだけで雰囲気はガラっと変わる。
「もぉ~……だから会わせたくなかったのにぃ……」
隣では、光が文字通り頭を抱えて悶えている。
そんな彼女に少し申し訳無さは覚えつつも、めちゃくちゃ可愛いとも思ってしまう。
だって、こんな姿は俺が一人の時じゃ絶対に見られそうにもないから。
「そ、そこまで嫌なら……この辺りで止めるけど……」
「うぅ……でも、実は昔の私を知ってもらいたい気持ちも半分くらいあるぅ~……」
めんどくさかわいいなぁ……。
謎の葛藤に悶えている光を他所に、母親の方は更にアルバムをめくる。
「えーっと……これは、あー……五年生の時の全日本ジュニアね。確か、すごく調子が悪くて、準決勝で負けちゃったのよね~……。どうして調子悪かったんだっけ?」
「……そんなの、もう覚えてないし」
母親の言葉に、光は何故か自分の胸の辺りを一瞥してから拗ねた口調で答えた。
「でも、全日本で負けたのはあの時が初めてだったからほんとに大変だったのよね。大会が終わった後、お父さんにしがみついて――」
「あ~~~~~っ!!! わ~~~~~っ!!!」
再び、光が声を張り上げて母親の言葉をかき消す。
「何よ、そんなに聞かれたくないの? 子供の時の可愛らしい出来事じゃない」
「うぅ……だってぇ……」
「だって……?」
光は何度も逡巡するような素振りを見せた後に――
「初恋は黎也くんなのに……その前に好きな人がいたみたいに勘違いされたらやだもん……」
泣きそうな声でそう呟いた。
世界へ、俺の彼女は可愛すぎます。





