第26話:二日目の夜(後半)
「そっか……もう一回、したいんだ……」
「うん……黎也くんは思ってない……? もしかして、迷惑だった……?」
「そんな、まさか……」
首を振って、すぐにその言葉を否定する。
「……じゃあ、してもいい?」
「光が、したいなら……」
光は小さく頷いて応えると、また両手で俺の左手を握る。
そのまま、手を自分の眼前にまで持っていくと――
「んっ……」
チュっと指先に軽く口づけした。
運動器の末端神経は、頬よりも鋭敏に唇の柔らかさと熱さを捉える。
「……なんで指?」
「今日、いっぱい引っ張って歩いてくれたからそのお礼……みたいな?」
「なるほど」
とは答えつつも意味はよく分かってない。
困惑している間にも光の唇が、何度も何度も俺の手に口づけられる。
一回、また一回とされる度に身体の内側から熱い何かが込み上げてくる。
「される方ってどんな気分?」
「どんなって言われると難しいな……なんか不思議な気分」
「ふ~ん……ちなみに、する方はどんな気分だと思う?」
「……汗の味がする?」
「もぉ~……ムードのないこと言わないでよぉ……」
いっぱいいっぱいの中で真面目に答えたはずが、ムっと頬を膨らまされる。
「……ごめん」
「ギュってしてくれたら許す」
そう言って身体を起こした光が、両腕を真っ直ぐに突き出してくる。
「なんか、普段にも増して子供っぽくなってない……?」
二人きりの時はただでさえ高い甘えたレベルが、限界突破している。
「だって、明日からはまたしばらくできなくなっちゃうし……だから、たっぷり一週間分は補給させてもらわないと」
「一週間……ああ、今度の火曜日は練習あるんだっけ?」
「うん、この前は大会が終わった次の日でお休みだっただけだから」
「そっか……でも、一週間なんてすぐでしょ」
「すぐかなぁ……私、我慢できなくなって学校で抱きついちゃったりするかも」
「それは流石に恥ずかしいから勘弁して欲しいかな……」
ただでさえ好奇の目で見られているのに、そんなところを衆目に見せつけてしまった日にはどうなるか。
これまでと違って、物理的な脅威にも晒されてしまうかもしれない。
「だから、今のうちに目一杯補給しとくの!」
更に両手が前に突き出される。
「それなら仕方ないか……」
身体を起こして、光の背中に手を回す。
軽く引き寄せると、その数倍の力でギュっと強く引っ付いてきた。
「ん~……黎也くんの匂いがする……」
耳元で、光が大きく息を吸う音が聞こえる。
「汗臭くない? 昼間、ずっと外にいたし」
「それも込みで黎也くんの匂いだから」
すーっと、肺の奥まで送り込むような深い呼吸の音。
なんか恥ずい……。
自分も倣って嗅いでみると、いつもの光の香りに僅かに汗の混ざった匂いがした。
それでも不快感は全く無く、確かにそういうものかもしれないと納得もした。
「ちなみにこれは何分コースの予定で?」
「ん~……満足するまでコースで」
「それ、朝までってことにゅわっ!」
突然、今度は首元に吸い付かれて変な声が出る。
「あはは! 変な声~!」
「……する前に、せめて何か言って欲しいんだけど」
「さっき、私がしたいならすればいいって言ったも~ん」
悪びれずに、今度は首元のまた違う場所に口づけられる。
今度は身構えていたおかげで驚きはしなかったが、ゾクゾクっと背筋に今まで感じたことのない刺激が走る。
どうやら俺の好きな人は、俗に言う『キス魔』らしい。
全く満足する気配を見せないまま、首から頬の間にキスの雨が降り注ぐ。
けれど、ブレーキをぶっ壊してしまったのは俺なのでされるがままに受け入れる。
「もう一ヶ月くらいは補給してない……?」
「全然、まだ半日分くらい」
単純計算でまだ十四分の一。
このままじゃ本当に朝まで続いてもおかしくない。
それでも全く離れたいと思わないのは、きっと俺も次の土曜日までに同じくらいの遠さを感じているからだろう。
「そういえば、これからも練習の休みは土曜日だけ?」
「うん、試合があると次の日とかも休みになるけど、基本的には土曜日が休みかな」
「そっか……次の試合は九月にアメリカだっけ?」
「えーっと……大会自体は九月の頭だけど、向こうの環境にも慣れないといけないから現地に行くのは八月末かな」
「じゃあ、長ければ三週間くらいは向こうに滞在する感じ?」
「うん、そうなるかな。すっごい設備の整ったおっきいスポーツアカデミーがあってね。そこでお世話になる予定」
背中に回された手で、更に強くギュッと抱きしめられる。
直接の言及はなくとも、それだけで今の感情が伝わってくる。
「でも……まだ先だけど、三週間も会えないのは流石に寂しいよね。私、耐えられなくて向こうで泣いちゃうかも……」
「今は海外でもPINEとかでいくらでも通話できるし、大丈夫でしょ」
「じゃあ、毎日かけてくれる? 時差もあるけど」
「もちろん、いつでも。昼夜逆転生活には慣れてるしね」
余裕ぶって答えるが、本心は違う。
そうなった時に本当に耐えられないのは、きっと俺の方だ。
光が異国の地で活躍すると聞けば聞くほどに、嬉しくもありながら、物理的な距離以上に引き離されているような心地になるだろう。
「ジュニアの大会に出るのは、そのアメリカので最後なんだっけ?」
「うん、それが終わったら今度からはツアーの下部大会に出て、プロデビューに向けてポイントを稼いでいく感じかなー」
「それも海外?」
「ん~……日本でも出られる分は全部出るつもりだけど、やっぱり開催数が違うしメインは海外になるかなー……」
「そっか……そりゃそうだよね」
自分でも少し調べたが、プロのテニス選手の年間スケジュールは非常に過酷だ。
一年の内で、オフシーズンなのはたった一ヶ月だけ。
残りの十一ヶ月は、ひたすら国内外を飛び回って転戦する。
勝ち残ればそれだけ滞在期間は長くなるし、より上位の選手にもなれば多くの大会に出場義務も生まれて更に忙しくなる。
光はきっと、そこまで到達するレベルの選手だろう。
「学校も休むことが増えるだろうけど……なんとか卒業はしたいなーって思ってる」
「うちはそういうの結構融通が利くから大丈夫なんじゃない? 補習は受けなきゃいけないだろうけど」
「うへぇ……大変だぁ……」
将来の寂しさを紛らわせるように、光が更に強く抱きついてくる。
それでも彼女はこの先、自分が進んでいく道にもう何も迷いも怯えも持っていない。
もう二度と、『こっち側』には来ない。
俺が足踏みしている間にも、信じられない速さで先へと進んでいく。
まだ一ヶ月以上、まだ一年以上……ではなく、もうそれだけしか残っていない。
「ねっ、さっきの答え……教えてあげよっか?」
「さっきの……?」
「ほら、キスする方はどんな気分なのかってやつ」
「……どんな気分なの?」
「一回するごとにね。もっともっと好きになっちゃうの……」
少し身体を離した光が、表情を蕩けさせながら言う。
もし俺が付いていきたいと言えば、彼女は喜んで首を縦に振ってくれるだろう。
今の人気でプロになればスポンサーなんていくらでも付くだろうし、金銭面でも何の不都合もないはずだ。
けれど、俺が成りたいのはそんな彼女にぶら下がるような関係じゃない。
どうしようもなくダメな俺だけど、今は身の程も知らずに対等な男としてずっと隣にいたいと思っている。
光の頬に手を添え、もう片方の頬に口づける。
「……本当だ」
やってみると、確かに想いはより増幅された。
今、この瞬間から俺にやれることは全部やろう。
今更遅すぎるかもしれないけれど、早すぎることだけはない。
目を見開いて驚いている光を前に、俺は過去最大級の決意を固めた。
今度は、俺がガン攻めして『そっち側』に行く番だと。
――――――
――――
――
翌朝、目が覚めると光の姿は既になかった。
上体を起こして部屋を見回すと、テーブルの上に書き置きを見つける。
『ぐっすり寝てて起こしたくなかったから先に出るね! 練習終わったらまた連絡する! それと先に謝っとく……ごめん!!』
何のことだろう……と寝ぼけ眼を擦りながら洗面所に行くと、すぐに理由が分かった。
「うわっ……」
首元――昨日、光に散々キスされた場所が真っ赤に充血している。
話には聞いていたけれど、まさか本当にこんなことになるのかと驚く。
大きめの絆創膏を買って来ないと……と考えながら顔を洗って、部屋に戻る。
昨夜の決意が未だに鈍っていないことを確認し、椅子に座る。
マウスを動かしてスリープ状態を解除し、デスクトップのフォルダを開く。
あの日、光が初めて来た日に、万が一にも見られたくないと奥の奥に隠していたもの。
今の自分に何が出来るだろうかと考えると、やっぱりこれしかなかった。
『大樹さん、今大丈夫ですか?』
『どうした? 何か用か?』
PINEでメッセージを送ると、すぐに返信が届く。
『実は大樹さんに見てもらいたいものがあるんです。その……プロとして』





