第33話:大会当日
――翌土曜日。
俺は朝日さんが出場する大会の会場となる大きな公園を訪れていた。
初めて訪れる場所に、周囲はスポーツマンだらけのアウェー空間。
しかも颯斗から入手した情報によると、どうやら彼女の友人である緒方茜を中心とした同級生たちの一団も応援に駆けつけてきているらしい。
そんなところに一人でやって来て――
『誰あの陰キャ?』
『あんなのうちの学年にいたっけ?』
『誰だよ呼んだの』
『いや、誰も呼んでないだろ』
『呼ばれてもないのに来るとかやばくね?』
なんて言われた日には、間違いなく一生物のトラウマになる。
それでも、この目で彼女の戦いをどうしても見届けたい。
案内板を頼りに、朝日さんの試合が行われるコートを探す。
「あった……あそこか……」
単に偶然割り当てられただけか、注目度が高いからか。
彼女の試合は観客席のあるコートで行われるらしい。
ゲートを潜って中に入る。
ジュニア大会なので流石に満席にはなっていないが、それなりの観客が入っている。
先に聞いていた同級生たちの応援団や、クラブやメーカー関連の人たちと思しき姿も。
そんな中で一人、俺に手招きしている人の姿を見つける。
ラストダンジョンでセーブ地点を見つけたような心地で、その人の下へと向かう。
「おはよ」
「おはよう、日野さんも来てたんだ」
「もちろん、来るに決まってるでしょ」
一つ間を開けて、その隣へと座らせてもらう。
普段なら少し怖い彼女も、この場においては安心できる存在だった。
「日野さんもあっちに混ざらないの?」
見たことある顔から知らない顔までが、二十か三十くらい集っている一団を示して言う。
「……私が混ざれると思う?」
彼らを一瞥した後に、ムスッとした表情で言い返される。
「でも、学校だと普通に混ざってなかった?」
「学校だと光が一緒にいてくれるからね。そうじゃないなら私と仲良くしたいと思ってる人なんていないでしょ」
「ははは……」
その自虐的な彼女の言葉に、苦笑いで返すしかなかった。
もしかしたら、俺たちは若干似たもの同士なのかもしれないとも思った。
「それで……今日ここに来たってことは、光に何かしてくれたってことでいいの?」
「ん、まあ……俺に出来る範囲でだけど……」
それがともすれば、彼女を更に堕落の道へと落としかねないことなのは黙っておく。
「そう……ありがと……」
彼女はコートの方を向いたまま、短く答える。
その後は特に世間話もする間柄でもないので、試合開始まで沈黙の時間が続いた。
「あっ、光が来たみたい」
日野さんがそう言い、外が少しざわついた直後に朝日さんがコートの中に入ってきた。
「光ー! 頑張ってー!」
「朝日さん、俺らがついてるぞー!」
「ひか~! ファイト~!!」
同級生たちの歓声が場内に響き渡る。
一方、最も応援したいと思っているはずの日野さんは声を上げず、ただ祈るように手を合わせている。
自分のベンチにバッグを置いた朝日さんが観客席を見上げる。
まず同級生たちへと手を振り、続いて俺たちの方へと視線を移す。
俺と日野さんがここにいることを確認すると、彼女は小さく頷いたように見えた。
それから対戦相手と試合前の僅かなウォームアップを始める。
詳しくはないが、テニスはスポーツの中でも特に過酷で孤独な競技の一つだと聞いたことはある。
コートに立つのは自分一人で、試合中は誰ともコミュニケーションを取れない。
全てのミスや実力不足は自分にのしかかり、温かい言葉をかけてくれる仲間もいない。
彼女が今から臨むのはそんな世界だと思うと、息が詰まりそうになった。
そうして、全ての準備が整い――
「ザ ベスト オブ 3セットマッチ 朝日 サービス トゥ プレイ」
主審のコールによって、試合が開始された。
サーブ権を取ったのは朝日さん。
定位置へと着き、ボールを地面に三度つくルーティンを行う。
続けて高々と上げられたトスを、彼女のラケットが打ち抜いた。
あわやサービスエースになろうかという一打に、相手はラケットの端でなんとか触れて返すので精一杯。
朝日さんの右前に、勢いのないヨレヨレの打球が落ちる。
決定的なチャンスボールに、彼女は右腕を大きく後ろに引いてラケットを振るが――
「アウト。0-15」
会場に大きな落胆の声が響く。
朝日さんの打球は、相手側のバックラインを大きく超えてアウトの判定になった。
「ドンマイ! 光!」
「次、切り替えてこ!」
大事な最初のポイントを失った朝日さんに、応援団が励ましの声をかける。
「やっぱり……まだ……」
一方、隣では日野さんが悲痛な声を零していた。
事情を知らない人たちからすれば、単なるミスに見えたのかもしれない。
けれど、知っている俺たちは気づいてしまった。
彼女が依然として、左足を踏み込めないでいることに。
試合になってもそれが出来ない自分に強いストレスを感じているのか、朝日さんは指先でガットを直しながら唇を真一文字に結んでいる。
日野さんによると、朝日さんは左右へのフットワークを活かしてベースライン上からガンガン攻めて戦うスタイルの選手らしい。
中でも大きな武器がフォアハンド。
単純な体格はスポーツ選手として平均程の彼女だが、全身のバネをフルに使って放つその一打はジュニアの範囲を越えて国内でもトップクラスらしい。
しかし、左足を強く踏み込めない今はそれが使えない。
例えるなら攻撃ボタンのほとんどが縛られている状態に近い。
そうして、1ゲーム目は結局そのまま相手に押し切られて早々に失ってしまった。
「あぁ……もう、いきなりブレイクされちゃった……」
「あの……日野さん、ブレイクって……?」
聞き馴染みのない言葉が出てきたので、頭を抱えている彼女に尋ねる。
「テニスって基本的に試合のレベルが高くなるほどサーブ側が圧倒的に有利なの。だから、相手のサーブゲームを取ることをブレイクって言って、試合に勝つためにはどうやってブレイクするかが重要なの」
「なるほど……」
つまり、朝日さんはいきなり大きな不利を背負ってしまったらしい。
「ちなみに……この相手の人って、どのくらいの実力の人か分かる……?」
「この大会に出てて弱い人なんていないけど、普段の光なら十回やって十回全部危なげなく勝てるくらいの相手」
つまりゲーム的に言うなら、マスターとゴールドくらいのレート差があるらしい。
そんな相手に対して有利を取ったからか、相手にかなり自信を与えてしまっている。
このままでは、その勢いのままに試合ごと持っていかれるかもしれない。
その嫌な予感は的中してしまった。
次の向こうのサーブは危なげなくキープされ、続く朝日さんのサーブはまたしてもブレイクを許してしまう。
結局、第一セットは3-6で相手のものとなった。
セット間のインターバルが訪れ、客席からは変わらない声援が送られている。
しかし、彼女の耳には届いていないのか、給水もせずにベンチでじっと自分の左足を見つめている。
彼女が必死で戦おうとしているのは分かる。
けれど、そう思えるように前を向けたのはほんの二日前。
流石に準備が足りなすぎたのか、傍目にも心と身体が一致していない。
インターバルが終わり、今度は相手のサーブから第二セットが始まる。
立ち上がりから、やはり彼女は得意のフォアハンドが上手く使えず防戦一方。
「40-0!」
あっという間にゲームポイントまで追い詰められてしまった。
「光……頑張って……」
隣から日野さんが悲痛な声を絞り出す。
対戦相手がトスを上げる。
このポイントは、きっと試合を決定付けるだろう。
もし朝日さんが負けたとしても、俺はまた部屋で変わらず彼女を迎えてやればいい。
万が一テニスを諦めたとしても、ずっと笑顔でいてくれるように。
彼女が俺のところまで堕ちてきてくれれば、きっとこの劣等感も――
「負けんな! 朝日光!」
募る想いと真逆の言葉を、何故か叫んでしまった。
同時に、彼女は左足を思い切り踏み込んだ。
素人目にも分かる全身のバネを目一杯に使った強烈なフォアハンド。
コート上を対角に斬り込むようなその一撃に、対戦相手は触れることもできなかった。





