第28話:二人きりの夜
「しゃわー……?」
意味は分からないが、なんとなく心地の良さそうな響きの言葉だなと繰り返す。
「うん、影山くんのベッドだし……このままで寝るのは流石に悪いかなって……」
「あっ、ああ……シャワーね、シャワー……! うん、確かにそうだよね……ご、ごめん……! 俺、全然気が利かなくって!」
「ううん! 私が図々しいだけだから!」
「いや、全然! どうぞ好きに使ってくれていいから……えっと……バスタオルは脱衣所にあるのを使ってもらって……着替えは……」
改めて朝日さんの姿を見る。
女性っぽさのある白を基調としたテニスウェアに、ショートパンツ。
土汚れのようなものはないが、練習中にそのまま来たなら汗は吸っているだろう。
せっかくシャワーで汗を流しても、またこれを着て寝るのは意味がない。
本人は手ぶらで着替えを持っているようにも思えない。
「それならシャツも貸して貰えると嬉しいかな……」
「りょ、了解……男物だからちょっと大きいかもしれないけど……」
クローゼットから自分用の部屋着を取り出して手渡す。
「ありがと。じゃあ借りるね」
「ど、どうぞごゆっくり……」
キッチンの横を通って、朝日さんが脱衣所へと入っていく。
時刻は十時を回り、窓の外からは遠くを走る車の音が微かに聞こえるだけ。
扉が閉まった音から少し間を開けて、微かな衣擦れの音がしっかりと空気を通して伝わってくる。
その音が聞こえるたびに、何となく悪いことをしているような気がしてソワソワしてしまう。
続けて、ガチャっと浴室の扉が開く音が鳴る。
浴室に入ったということはつまり朝日さんは今、初期装備状態だ。
この壁一枚を挟んで向こう側で今、そんな状態の彼女がシャワーを浴びている。
否応なしに、その姿を脳機能が想像させようとしてくる。
そんな陰キャマインドがキモいと思いつつも、どうしても意識してしまう。
うるさいくらいの心臓の鼓動に紛れて、水の流れる音が微かに響いてくる。
「……って、何をまじまじと聞いてんだ俺は!」
冷静になり、慌てて椅子に座ってヘッドセットを付けて音を遮る。
これ以上聞いていたら頭がどうにかなるところだった。
机の上に、大樹さんから借りた問題集を開く。
万が一、億が一がありえないように、難解な数式と向き合って精神を落ち着かせる。
後にも先にも、これだけ勉強に集中できた時間は俺の人生において無かったと思う。
そうして、無限のようにさえ感じた時間がしばらく続き――
「ふぃ~……さっぱりしたぁ……」
朝日さんが脱衣所から出てきた。
少しダボついた男物の部屋着を纏い、全身をほのかに上気させている。
学校で見る時とも、いつもゲームをしている時とも違うその姿に、また心拍数が跳ね上がる。
彼女を見て可愛いや綺麗と思ったことは数えきれない程あったが、エロいと思ってしまったのは始めてかもしれない。
この状況でそんな劣情を催してしまった自分に、罪悪感を覚えてしまう。
「貸してくれてありがとね。いいお湯でした」
「こ、こちらこそ……。じゃあ、ちょっと早いけどそろそろ寝ようか……」
「うん、そうだね」
全く平静じゃないのに平静を装いながら、今度こそ寝る準備を始める。
もぞもぞと、俺がいつも使っている布団の中に朝日さんが入り込んでいく。
「それじゃ……おやすみ」
「うん、おやすみ」
リモコンを操作して、部屋の明かりを落とす。
常夜灯だけの薄暗い部屋で横になると、ベッドの上の様子は完全に分からなくなる。
それでも呼吸や身じろぎの音は聞こえ、そこに朝日さんが確かにいるのだけは分かった。
目を瞑って横になると……心身共に疲れ切った身体はすぐ眠りに――
……落ちようとしてくれない。
さっきまでの眠気が嘘のように、目が冴えてしまっている。
今から長編RPGを一本丸々クリア出来そうなくらいにギンギンだ。
「ん……ふぅ……」
ベッドの上から、朝日さんの息遣いが微かに聞こえてくる。
普段なら何とも無いそんな音でさえも、今は俺を更に眠りから遠ざける。
このままじゃ頭がどうにかなってしまいそうだと考え始めた時だった。
「影山くん、まだ起きてる?」
斜め上方、ベッドの上から朝日さんの声が響いてきた。
「お、起きてるけど……」
「えへへ、私もまだ起きてる」
そのはにかむような笑い声には、いつもと少し異なる固さが感じ取れた。
「なんか……やっぱりちょっと緊張しちゃうよね……」
「まあ、流石にね……」
この状況で、相手を意識するなというのは無理がある。
具体的な理由までは触れなかったが、向こうも同じ状況なのは少し安心できた。
「でも、影山くんは一人暮らしだし……他にも友達とか泊めたりしてるんじゃないの?」
若干、“とか” の部分だけ語気が強められていた気がする。
「いや、そんなには……友達の多い方じゃないし」
「そんなにってことは、あるにはあるってこと?」
この奇異な状況がそうさせるのか、いつもより個人的な話を深掘りしてくる。
「男子なら颯斗……C組の風間が泊まりに来たことなら前にあるかな」
「ふ~ん……そうなんだ。あるんだ」
事実を告げただけのはずが、何故かほんのり不機嫌そうな声色でそう返される。
……え? なんか地雷踏んだ?
「じゃあ、風間くんもこのベッドで寝た?」
「い、いや……それは提案したことすら無いけど……向こうも嫌がるだろうし……」
「そっか……ならいいけど」
……何が?
「朝日さんは……? 友達とかを家に呼んで泊りがけで遊んだりしたことある……?」
よく分からないけど許されたみたいだから話を続けていく。
「ん~……友達っていうかほとんど絢火かな~」
「ほんとに仲良いね」
分かりきっていた答えに、思わず笑いが溢れる。
「だって、小学校からの親友だもん。懐かしいなぁ……小学校の頃はよく二人で、一緒の布団に入って寝たりもしたなぁ……」
その時のことを思い出しているのか、声を楽しそうに弾ませている。
「それで毎回決まって、二人で将来の夢の話をしてたの。私はプロのテニス選手になりたいっていつも言ってたんだけど、そしたら絢火はなんて返してくれてたと思う?」
「なんだろう……自分も……とかは日野さんっぽくないよなあ……」
「正解はね~……『じゃあ、私は弁護士になってプロになった光の代理人やってあげる。スポンサー契約とかCMの話がいっぱいくるだろうし』でしたー」
「ははは……それはかなり日野さんっぽい。小学生が代理人って……」
淡々とした声色まで再現して話されたその言葉に、思わず俺も笑ってしまう。
でも、確かに今の制服をスーツに置き換えるだけで彼女ならそうなれそうな貫禄はある。
「でしょ? あっ、これ私が言ったのナイショにしといてね」
「もちろん、日野さんに怒られる時は一緒だって約束したし」
そう言って、また共犯者同士で笑い合う。
「でも、それで本当に今も弁護士になるために頑張ってるんだから、すごいよね」
「学内の試験でもほとんど毎回総合一位で、全国模試でも上位だもんなぁ……。でも、なるほど……あの成績の良さにはそんな秘密があったのなら納得かな……」
「うん、だから私って本当に周りの人に恵まれてたなーっていっつも思う。絢火はもちろん……お母さんは子供の時からずっとテニスを教えてくれてるし……モデルのお仕事を紹介してくれるマネージメント会社の人も、いつも用具を提供してくれるメーカーの人も、感謝してもしきれないよね……。後、一応お兄ちゃんも……」
感慨深げに、自分の人生を支えてくれている人たちへの感謝を述べていく朝日さん。
ただ、その言葉の端々から僅かに罪悪感のようなものも伝わってくる。
もしかすると、今の自分はそんな人達に迷惑をかけていると思っているのかもしれない。
「中には足を引っ張ろうとしてる悪い男もいるみたいだけどね」
「あははは。でも、その人のおかげで助かってることもいっぱいあるみたいだよ」
「そうなんだ。向こうはそんな気がなくて、ただ楽しんでるだけかもしれないけど」
「それでも、助かってることには変わりないから……ありがとね……」
消え入るような、だけど確かな熱の籠もった感謝の言葉が耳に届く。
それからも二人で他愛のない話を続け、当初の緊張は少しずつ解れていった。
緊張が解れていくにつれて、互いの返答も少しずつ滞りはじめていく。
そうして、いつしかどちらからも会話が無くなっていき……
すぅすぅと、心地の良さそうな寝息が彼女の方から響き始めた。
上体を起こし、ベッドの上を見る。
暗闇に慣れた目は、しっかりとその寝顔を捉えられた。
「……おやすみ」
色々と疲れているであろう彼女を起こさないように、そっと呟く。
もう一度横になって布団を被り直すと、すぐに全身が心地の良いまどろみに包まれた。
翌朝、揃って熟睡してしまっていた俺たちは大樹さんの来訪で目を覚ました。
大樹さんは珍しく真面目なトーンで俺に何度も謝罪をし、朝日さんには少し語気を強めて怒っていた。
彼女も兄には迷惑をかけた自覚があるからか、神妙に謝罪の言葉を述べていた。
最終的には大樹さんが母親との間を取り持つということで、二人は帰っていった。
その去り際に、俺と彼女は『また』と次の約束をしたのは言うまでもない。





