第83話:海と陽キャと高級リゾートと その7
「ね? 気持ちいいでしょ?」
広大な海の景色に浸っていると、オールを漕いで近づいてきた光に聞かれる。
「うん、まだ気を抜くと落ちそうでちょっと怖いけど……」
「それじゃ、次は漕いでちょっと沖の方に行ってみよ!」
「いいけど……少し、ゆっくりめでお願い……」
オールを手に持って、ゆっくり慎重にボードを漕いでいく。
「右、左って交互に漕がないと曲がっちゃうね」
「こ、漕ぐと水の抵抗で重心がブレて……うわっ! あぶなっ!」
すぐに操縦にも慣れた光に対して、俺はなんとか前に進むので精一杯。
何度もバランスを崩して落ちそうになりながらも必死について行く。
そうして、二十分程の海上遊覧を楽しんでいると、少しずつ操縦にも慣れてきた。
「あっ、沙綾だ! お~い!」
海岸線に沿って進んでいると、砂浜の方に同級生を見つけた光が手を振って呼びかける。
「光~! 何それ~! 超楽しそうなんだけど~!」
「SUPってやつ~! すっごい楽しいよ~! 二人もどう~!?」
松永さん(だったはず)は、こっちを指差しながらペアの男子に何かを言っている。
多分、私もあれに乗りたいと提案しているんだろう。
「それ、どこで借りられるの~!?」
「向こうの建物~! 人気っぽいから早く行かないと無くなっちゃうかも~!」
「分かった~! ありがと~!」
彼女はこっちに向かって感謝の言葉を述べると、受付のある建物の方に向かっていった。
「こういうの、二人で一緒にやったら絶対いい雰囲気になるよね」
光が俺の方を見て、笑顔を浮かべながら言う。
どうやら、さっきの二人をアシストしたつもりだったらしい。
「どうだろう。結構難しいから上手く出来ないと逆効果になったりして」
自分は慣れてきたからと、つい少し上から目線の言葉を吐いてしまう。
「それもそれで盛り上がるから大丈夫でしょ」
「確かに。ところで……光的には今、どんな感じ……?」
「どんな感じって?」
「だから、ほら……これは良い雰囲気なのかなーって……」
その言葉の意図に気づいた光が、暑さとは違う何かで頬を少し染める。
「そんなの……言わなくても分かるでしょ……」
「言わなくてもいいから行動で示してもらえたら嬉しいんだけどなー……」
そう言って、光の胸元よりも少し上――ファスナーのスライド部分に視線を送ると
……
――ジーッ……。
逆に5センチ程、スライドが引き上げられてしまった。
「え!? な、なんで!?」
「それは下心が出過ぎぃ……」
目を細めて、ジトっとした視線を向けながら言われる。
「う゛っ……」
「戦士レイヤの攻撃判定はファンブル。敵に回復の隙を与えてしまった」
どこで学んだのか、古典RPGのGM風に言われる。
攻めたつもりが、少し勇み足だったようだ。
反撃を食らって、元の位置よりも後退させられてしまった。
流石に一筋縄ではいかない難敵だ……。
そうして、再びボートを漕いで二人で海の上を漂う。
操縦にも更に慣れてきて、少し早めに漕いだりしても大丈夫になってきた。
「黎也くん、見て見て~!」
光の呼び掛けに振り返ると、彼女は少し離れた場所で波に乗っていた。
「おー、すごい……! 流石だなぁ……」
オールを使って器用に波を捉えている光に、素直な感嘆の声が出る。
「でしょ~!? これ、すっごい気持ちい~! いぇ~い!」
楽しそうに海上を疾走する彼女の姿を見ていると――
……なんか、俺にも出来そうじゃね?的な気分になってきた。
ちょうどお誂向きに、沖の方から少し大きな波がこっちに来ている。
今しがた見たばかりの光の動きを思い出し、波を捉える準備をする。
オール捌きにもかなり慣れてきたし、いけるはず!
そんな少々の慣れが自己の絶大な過大評価……ひいては大きな慢心へと繋がった。
後で知ったことだが、これをダニング=クルーガー効果というらしい。
「うわっぷっ!!」
とにかく、波に乗れずバランスを崩した俺はボード上から海へと転落した。
海面に激突した衝撃から次いで先刻、足で感じた海の冷たさが全身を包み込む。
口に侵入してくる海水の塩辛さに、上下左右の感覚が消失する浮遊感。
溺れる時って、こんな感覚なのかなと思ったのも束の間――
装備していたライフジャケットのおかげで、すぐに海面へと浮上した。
「黎也くん! 大丈夫ー!?」
「だ、大丈夫……! 心配ないから……!」
海面に浮かびながら、心配して近づいてきた光に応じる。
だっさ……。
運動音痴の分際で調子に乗った結果が、このザマだ。
情けなくプカプカと浮かんでいる自分を内心で罵倒する。
リーシュコードが繋がれていたので、ボードは離れずに近くに浮いていた。
少し水を掻いて近寄り、裏面に両手を置く。
そこでようやく、足が余裕で着く深さであることに気がついた。
割と沖の方へと出てきたつもりだったけれど、どうやら遠浅の海だったらしい。
立ち上がると、水の位置はヘソの少し上辺りに来る程度の深さだった。
「あー……びしょびしょだ……」
髪の毛からライフジャケットの中に着ていたシャツまで。
全身が浸かったのだから当然だが、何から何までびしょ濡れだ。
海水を吸って、肌にべったりと張り付いているシャツが気持ち悪い。
裏返っていたボードをひっくり返して、一旦脱いだライフジャケットを置く。
水を限界まで吸ったシャツも脱いで、両手に持って雑巾のように絞っていると――
「……どうかした?」
いつの間にか側に着ていた光が、ジッと俺の方を見ていた。
「べ、別に……? ただ、本当に大丈夫なのかなって……」
と、素っ気なく答えながらも鼻をプクっと膨らませて奇妙な表情を浮かべている。
「そ、そう……本当に心配しなくても大丈夫だから……」
暗に『俺には構わないで引き続き遊んでて』と答えたつもりだったけれど、光は無言でグルグルと俺の周りを周回している。
一体、どうしたんだ……と思いながらも、再びシャツを絞っていると――
――ジーーーーッ……。
今度は、やたらと長いあの音が聞こえた。
また振り返って彼女の方を見ると、何故か上着のファスナーが一気に20cmくらい下ろされていた。