ヴィヴィ九歳(2)
その日ヴィヴィは図書室で本を読んでいた。
入り口の扉を開ける気配にふと顔を上げるとフィリップが入ってくるところだった。
フィリップは一瞬「しまった」というような顔をしたがヴィヴィは目礼だけして視線を本に戻した。
フィリップは暫く調べ物をしていたようだがやがて数冊の本を抱えて図書室を出て言った。
フィリップが出ていくとき本の隙間から一枚の紙が滑り落ちたが、フィリップは気づかずに出て言った。
ヴィヴィは紙を拾ってフィリップを追いかけた。
「あの、フィリップお兄様」
ヴィヴィが声をかけるとフィリップは凄い勢いで振り向きヴィヴィを睨みつけた。
「用もないのに話しかけるな」
そのまま踵を返そうとするフィリップにヴィヴィは焦って言った。
「この紙を落とされたので」
恐る恐る差し出すとフィリップはばつが悪そうな顔をしてそれを受け取った。
小さな声で「すまなかった」と呟くと足早に去っていった。
夕刻、三階に上がっていくフィリップを見かけてヴィヴィは思わず跡をつけてしまった。
いけないことだとは思ったがフィリップの項垂れた様子がどうしても気になった。
フィリップが入っていったのは三階の奥、肖像画が置いてある部屋だった。
フィリップが入っていった後どうしても気になったヴィヴィは扉をそーっと開け中の様子を窺った。
フィリップは泣いていた。声も出さずお母様の肖像画をただただ見つめ両の瞳から涙を流していた。
ヴィヴィはある決心をした。
明日、お父様に頼んでみよう。そう考えそっと扉を閉めた。
今まで見ないように考えないようにしていたけどヴィヴィはわかっていた。
(私だけきっとお母さまが違うんだ)
それはお父様が浮気をしてヴィヴィが生まれたことを意味する。もっと小さいころから不思議だった。ヴィヴィだけお父様ともエル兄様とも髪色も瞳の色も違う。意地悪なあの子、アンゲリカにも指摘されたことだった。
ヴィヴィは五歳より前の記憶は無いが、エル兄様もヴィヴィが五歳の時初めて会ったと言っていた。
きっとヴィヴィは五歳までお父様の愛人のお母様と一緒に暮らしていたのだろう。
記憶が無いのでお母様がどんな人なのか、どうして五歳からこのお屋敷で暮らすことになったのかはわからないが。
お父様に訊ねてみたこともあるがお父様はこのことに関しては一言も答えてくれなかった。
だからヴィヴィはいつもはそのことを意識の片隅に追いやり見ないようにしていた。
翌朝、朝食を終えたところでヴィヴィはルードルフに話しかけた。
「お父様、お話があるのですが王宮に行かれる前にお時間はありますか?」
「じゃあこのまま執務室に行こうか」
ルードルフに促されヴィヴィは一緒に執務室に行った。
「あの、お父様……私、学院の入学まで領地で過ごしたいのです」
ヴィヴィは思い切って言った。ヴィヴィが考えたのはフィリップと顔を会わせないようにすることだった。ヴィヴィの存在がフィリップを苦しめている。この家の子供でなくなることはできないけれどなるべく顔を合わせないようにすることならできる。その為の領地行きだった。
学院入学前には戻ってこなければならないが、入学してしまえば寮生活なのでまたこの家を離れることになる。フィリップお兄様もヴィヴィの顔を見なければ心安らかに過ごせるのではないか、そう思っての決断だった。
「ふむ、何故かね?」
ルードルフの問いにヴィヴィは焦って答えた。
「えっと、あの、私領地に行ったことがないのでどんなところか知りたくて……えっと、それに田舎暮らしにも憧れてて……」
「そうか、わかった。今晩帰ってきてからゆっくり話をしよう」
そう言ってルードルフは王宮に出かけて行った。
その晩———
夕食を終えたところでルードルフが言った。
「二人とも話があるのでサロンに来なさい」
二人というのはヴィヴィとフィリップだ。
サロンに腰を落ち着けるとルードルフが言った。
「ヴィヴィが学院入学まで、いや正確には入学前のプレデビューまで領地で過ごすことになった。
フィリップもそれについて行き二年半領地経営を学んできなさい」
「「えっ!!」」
「父上!僕はもうすぐ王宮に出仕するのではないですか!?」
「王宮への出仕は遅らせてもらうよう今日手続きしてきた。考えてみれば一度王宮に出仕してしまえば仕事を長期間休むことは難しい。王太子殿下が学生である今のうちに領地のことを学んでしまった方がいいだろう」
なんてことだ……フィリップと離れるために領地行きをお願いしたのにフィリップまで巻き込むことになってしまった。ヴィヴィは申し訳なくてフィリップの顔を見られなかった。
必死にフィリップがヴィヴィと一緒にいなくても済むよう考える。
「お父様!フィリップお兄様は婚約者がまだお決まりではないですよね?」
「ああ、そうだな。在学中に決められない不甲斐ない奴だからな」
家の事情で幼いころに婚約を結ぶ者もいるが、この国では婚約を結ぶのは学院在学中が最も多い。学院入学までは魔力が封印されていて個々の魔力量がわからないためだ。
学院に入学して封印が解除された後、お互いの魔力量や家柄を考慮して婚約を結ぶ。もちろん性格が合うかどうかも有力な判断材料だ。
在学中に婚約を結ばなかったものは社会に出てから相手を探す。社交界や職場は貴重な出会いの場だ。
そのため卒業後に王宮文官や竜騎士等、職を得る令嬢も一定数いた。
「あ、あの、それでしたら王都にいた方がよいのでは?領地に居たらご令嬢とお知り合いになる機会もないのではないですか?」
ヴィヴィの必死の提案も「お前、早く結婚したいか?」「いえ、特には」というルードルフとフィリップの会話の前に撃沈してしまった。
(フィリップお兄様~そこは嘘でも結婚したいと言ってください)途方に暮れたヴィヴィだった。
結局一週間後に領地に向かうことが決まり急ピッチで準備が進められることになった。
おまけにルードルフはフィリップに「領地に居る間はフィリップがヴィヴィに勉強を教えるように」と追加の任務を与えた。
フィリップの顔は終始強張っており、ヴィヴィは怖くてずっと下を向いていた。