ヴィヴィ九歳(1)
ヴァルム魔術学院は王都から馬車で一週間ほど、竜の森のすぐ北側にある。
アウフミュラー侯爵家の領地は竜の森の西側なので領地からの方が魔法学院に近い。
もっともヴィヴィはまだ領地に行ったことは無いが。
エルヴィンがヴァルム魔術学院に旅立つ二か月半ほど前もう一人の兄フィリップが魔術学院を卒業し、アウフミュラー侯爵家に戻ってきた。
魔術学院を首席で卒業した優秀なフィリップはこのアウフミュラー侯爵家の跡取りでもあるのだけれど父ルードルフに付いて政治を勉強しゆくゆくは宰相になるだろうと皆が噂している。
皆というのは屋敷の使用人の皆だ。
ヴィヴィの世界はとても狭い。基本屋敷の中だけだ。
女主人のいないアウフミュラー侯爵家はお茶会などの社交をすることもなくルードルフも王宮勤めで忙しかったため社交に関しては無関心だった。
フィリップと対面の日、ヴィヴィは朝からドキドキが止まらなかった。
フィリップは在学中は一度も王都のタウンハウスに帰ってこなかった。
魔術学院在学中も年に二回の長期休暇にはほとんどの学生が親元に帰る事、フィリップが領地のお屋敷にはたまに帰っていたことをヴィヴィは後から知った。
フィリップを見たのは初めてではない。卒業する三か月ほど前、赤竜に乗ってお屋敷に帰ってきたフィリップを遠目であるが見たのが初めてだ。濃いブラウンの髪と長身で均整の取れた体つきのフィリップが赤竜の背から颯爽と降りる姿はものすごく格好良かった。
エルヴィンは「赤竜だ!すげぇ!さすが兄上!」と興奮していた。
フィリップは父親のルードルフと話をしてすぐに飛び立ってしまった。
馬車が門を入りエントランス前に止まる気配がすると、エルヴィンは外に飛び出していった。
程なく賑やかな話し声が聞こえ二人が姿を見せた。
話し声はほとんどエルヴィンのものであるが、時折フィリップが短く返事をするのも聞こえた。
フィリップは屋敷に入るとエントランスホールで待っていたルードルフの前に立った。
「父上、無事魔術学院を卒業し戻ってまいりました。これからご指導よろしくお願いします」
「ああ、よく頑張ったな。首席卒業だと聞いた。今日はゆっくり休め。明日今後の話をしよう」
ヴィヴィはルードルフの斜め後ろに立ちドキドキしながらフィリップを見ていた。
「フィリップ、紹介しよう。手紙にも書いたがお前の妹のヴィヴィアーネだ」
ヴィヴィは一歩前に進み出てフィリップに挨拶した。
「あの、ヴィヴィアーネです。フィリップお兄様、よろしくお願いします」
フィリップはふいっと顔を背け「ああ」とだけ返事をした後、ルードルフに向かって言った。
「父上、疲れたので部屋で休ませていただいてもよろしいでしょうか」
そしてルードルフの「わかった」の言葉を聞くとすぐに部屋に去ってしまった。
「あれ?兄上もう行っちゃったの?」
エルヴィンの問いにルードルフは「難しい年頃だからな」と苦笑していた。
「ふうん?なあヴィヴィ、兄上の部屋に遊びに行こう。学院の話をいっぱい聞かせてもらうんだ!」
「エル兄様ごめんなさい。私気分が優れないのでお部屋に戻ります。フィリップお兄様にお話を聞いたら後で私にも教えてね」
ヴィヴィが力なく答えるとルードルフはヴィヴィの頭にポンと手を置いて「大丈夫だよヴィヴィ。フィリップは根はやさしい子だから」と言った。
エルヴィンは「任せとけ!後で沢山話してやるから」と去っていった。
朝食に向かう廊下でヴィヴィはフィリップとばったり会った。
「フィリップお兄様、おはようございます!今日はいい天気ですね!」
ヴィヴィはにっこり笑って元気に挨拶する。
フィリップは「ああ」とだけ言って朝食に向かった。
その後もヴィヴィはフィリップに会うと元気に挨拶した。
これは半年ほど前にヴィヴィの専属メイドになったマリアの案である。
フィリップと対面後、落ち込んで部屋に帰ってきたヴィヴィにマリアが言ったのだ。
「お嬢様、まずは挨拶から始めましょう」
「挨拶?」
「ええ。毎日元気よくフィリップ様にご挨拶するのです。笑顔も忘れずに。人は好意を向けられ続けたら無下には出来ないものですわ。お嬢様はフィリップ様がお嫌いですか?」
ヴィヴィはかぶりを振る。
「でも、私フィリップお兄様のこと何も知らないの」
「では余計に挨拶が重要ですわ。毎日元気よくご挨拶なさってください」
ヴィヴィは毎日元気に挨拶し続けた。フィリップの返事は「ああ」だけだったが。
それでも屋敷の図書室で行き会ったとき、ヴィヴィが挨拶した後「お邪魔ですから」と戻ろうとすると「かまわん」と言ってくれた。
嬉しくなって部屋に戻りマリアに報告すると
「よかったですね」と喜んでくれたあと「フィリップ様はお優しい方ですね」と言った。
「フィリップ様は心に葛藤を抱えていらっしゃると思います。でもフィリップ様はお嬢様を一度も無視なさらないでしょう。短くても必ずお返事を下さるフィリップ様はお優しい方だと思います。だから大丈夫ですよ。時間はかかってもお嬢様はきっとフィリップ様と仲良くなれると思います」
マリアの言葉にヴィヴィは勇気づけられた。
マリアは優しいばかりではないけれどいつもヴィヴィの欲しい言葉をくれる。
アメリーが結婚でメイドをやめてしまう時、ヴィヴィはお祝いしなくてはならないけど寂しかった。
だけどアメリーの代わりにマリアが来た時、なんていうか……ヴィヴィは凄い衝撃を受けた。なぜだか心に『好き』がいっぱい広がって物凄く嬉しくなった。
アメリーもエリゼも好きだけどマリアは別格だった。
挨拶作戦を開始して二か月半、エルヴィンがヴァルム魔術学院に入学するため旅立って行った。
エルヴィンはフィリップが帰ってきて以来学院の様子を聞いたりフィリップに剣術の稽古をつけてもらったりしていたがヴィヴィが蔑ろにされていたわけではない。エルヴィン個人はヴィヴィとの時間もちゃんととってくれた。
しかしフィリップの態度に思うところもあるのかヴィヴィとフィリップを無理に会わせようとはしなかった。
それでも快活なエルヴィンの存在は二人の緩衝材になっていた。
エルヴィンはヴィヴィに「悩んだり落ち込むことがあったら俺に手紙を書いて吐き出せ」と言って旅立っていった。
フィリップは半月後、新年度から王宮に出仕が決まっていて現在は屋敷にいる。たまに夜会等社交に出かけることもあるがあまり好きではないらしく屋敷で調べ物や読書をしていることが多い。
ヴィヴィももちろん屋敷にいるが二人の接点はほとんど無い。
ヴィヴィは午前中は勉強と淑女教育、午後は部屋で刺繍をするか図書室で本を読む。たまに庭で散歩もするが、エルヴィンもジークもいない庭は広すぎて寂しさを誤魔化すことはできなかった。
他にすることがないので勉強はどんどん進み学院入学前のレベルはとうに超えていた。