二年生(12)——夏期休暇
暫くおかあさんと抱き合った後、そろそろと顔を上げるとジークとエル兄様が優しい眼で見守ってくれていた。
私は二人にぺこりと頭を下げた。
「ジークもエル兄様もここまで付き合って来てくれてありがとう。おかげで記憶を取り戻すことが出来ました。もちろん小さい時の記憶だからよく覚えていないことも沢山あるけれど、マリアがおかあさんだってことははっきりわかるわ。おとうさんの記憶も思い出したの」
エル兄様は私の頭をくしゃくしゃと撫でまわした。
「うん、良かったな。なんかちょっと複雑だけど」
「私の記憶は戻ったけど五歳からの記憶が無くなったわけじゃないわ。これからもエル兄様って呼んでいいの……よね?」
「あーごめん!ちょっとマリアに嫉妬しただけだ。俺は何があろうとお前の兄だよ」
私の眼からぽろっと涙がこぼれた。
ジークがぎゅっと抱きしめてくれる。
「大丈夫だよヴィヴィ。エルヴィンは——」
「ううん、違うの。悲しいんじゃないの。物凄く幸せだなって」
私はみんなを見回して言った。
「私には私を愛してくれるお兄様が二人いて、お父様がいて、おかあさんがいて、おとうさんもいた。私もみんながだーい好き!こんな幸せな事ってある?私、この国で一番幸せ者かも」
私が宣言するとジークが言った。
「君を愛する婚約者も付け加えてくれないかな」
「まだ決まったわけじゃないだろ」
エル兄様に突っ込まれて引き下がると思ったジークだったけど、急に真剣な顔をして私に言った。
「ヴィヴィ、僕は卒業パーティーまでは待つつもりだけど、夏期休暇が終わって学院に帰ったらヴィヴィには居心地の悪い思いをさせるかもしれない」
「ジーク?」
私が訝し気な視線をジークに向けたとき大きな声がした。
「マリア!!ああ、私のマリア!戻ってきてくれたんだね!」
叫んだ声の方に視線を向けおかあさんがゲ!というような顔をした。
黒髪をぴっちりと撫でつけ鼻の下の髭をカールさせた全体的に気障ったらしいその中年男は二人の従者を従え大股に歩み寄ってきた。
咄嗟に私はおかあさんの前に立ち、更にその前にジークとエル兄様が立ちはだかった。
「な、なんだ君たちは!」
「あなたこそ誰です?うちのマリアにどんな御用ですか?」
その男の居丈高な声よりも静かに誰何したエル兄様の声の方がよっぽど迫力があった。
その男は一瞬気圧されたようだが何とか持ち直した。エル兄様がまだ少年だと侮ったのかもしれない。
「う……うちのマリアだと?何を言っているんだ!マリアは私のものだ。私がマリアを見初めたのだからマリアは私のところに来るべきなのだ。長い間行方をくらませていたことは許してやろう。今すぐ私のもとへ来い!」
「……って言ってるけど?なんか約束でもした?マリア」
エル兄様の問いかけにおかあさんはかぶりを振って答えた。
「する訳がありません。付きまとわれて迷惑していました。もう八年も前の話ですけど……未だに私のことを覚えていたなんて驚きです」
おかあさんの言葉に気障男が反論する。
「マリア、八年たっても君の美貌は色褪せないな。それでこそこの私、大地主エーゴン・ビュクナーの妻に相応しい!」
「え?おかあさん、この人って独身なの?」
私が小声で訊ねるとおかあさんは軽蔑した口調で言った。
「違うわ。奥様もお子様もいるわ。確か息子二人に娘一人よ」
「うわっサイテー」
私たちのこそこそ声が聞こえたのか聞こえないのかその気障男はしつこくおかあさんに話しかける。
「マリア、君が頷いてくれたら今の妻などすぐに追い出すから心配はいらない。私はご領主様の覚えもめでたい大地主エーゴン・ビュクナーだ。君に贅沢な暮らしを約束しようじゃないか!」
おかあさんと私が心底うんざりした顔をしたのを見てエル兄様が気障男に言った。
「マリアは家の使用人だ。勝手なことを言わないでいただきたい」
男は、ん?と馬鹿にしたようにエル兄様を見た。お忍びの私たちはちょっと裕福な平民といった格好をしている。
「ん?何だこの小僧は」
気障男に続いて二人の従者も横柄な物言いをした。
「おい、ビュクナー様に対して失礼だぞ!」
「お前のようなガキがかなう相手ではないのだ」
少し離れた場所からキレそうな顔つきのハーゲン達が駆け寄ろうとしたのをエル兄様が目で押しとどめた。
不敵に笑って気障男に向き直る。
「いくら偉ぶって脅しをかけようとマリアは家の使用人だ。引き渡すわけにはいかない」
「ふうむ……ではいくら積めば引き渡してくれるかね?私は寛容で大金持ちなんだ。大金を摘めば君のお父さんも頷くのではないかね?」
気障男は髭を撫でながらそんなことを言う。侯爵家相手にいくら積むつもりなんだろう?私は可笑しくなってぷっと小さく吹き出してしまった。
「ははっ。いくら出すつもりかわからないがいくら積まれてもお断りだ」
エル兄様が馬鹿にしたように言うとさすがに気障男の顔色が変わった。
「このっ!下手に出ていれば付け上がりやがって!」
従者たちが殴りかかろうとするその手をハーゲン達が後ろから抑えた。
「うわっ!はなせっ!」
「なんだ、こいつら!」
従者二人は腕を振り回して逃れようとするがハーゲン達はびくともしない。騎士と一般人なのだから当たり前だが。
「来ちゃったのかハーゲン、目で止めたのに」
残念そうにエル兄様が言うとハーゲンは澄まして答えた。
「職務ですから」
青くなってわなわなと震えていた気障男が叫んだ。
「わ、私の従者を放したまえ!私たちに乱暴を働くなどご領主様も黙っていないぞ!君たちはそろって牢屋行きだ!」
「はいはいっと。ジーク、ここの領主って……」
「フェルザー伯爵だな」
ジークとエル兄様の会話を聞いていて、え?と私は思った。
ツンツンとジークの袖を引き小声で確かめる。
「フェルザー伯爵ってパウリーネ・フェルザー様のお父様?」
「ああ、そういえば二年生に娘がいたな。ヴィヴィのクラスだったのか」
私たちが小声で会話をしている間にエル兄様と気障男の会話も進んでいた。
「そんなにご領主に気に入られているならご領主にどっちが正しいか判断してもらおうぜ」
ニヤニヤ笑いながらエル兄様が言うとおかあさんが止めに入った。
「エルヴィン様、あまり大事にしないでください」
「大丈夫だよ、マリア。きっちりこいつに釘を刺しておかないと後で昨日会った気のいいおばさんとかに難癖付けられても困るからね」
そうして私たちはここから馬車で三十分ほどの領都サルバレーにあるフェルザー伯爵のお屋敷を訪問することにした。
護衛の一人を先ぶれに走らせ私たちは馬車に乗りこむ。私とジークとエル兄様の馬車に気障男も乗せ、おかあさんはハーゲンと気障男の従者と一緒にもう一台の馬車に乗った。
これで気障男は逃げ出すこともできないしおかあさんと違う馬車なのでおかあさんも安全だ。気障男の従者もハーゲンが一緒なら手が出せないだろう。
気障男は最初は「ご領主様がそんなに簡単に会ってくれるわけがない」とか「身の程知らずな事をするな」とか煩かったが、サルバレーの街に着いて護衛が面会を了承する返事を持って戻ってくると途端に青ざめた。まさかちょっと裕福な平民の私たちが面会の申し込みなどしても門前払いだと思っていたのだろう。不気味なものを見るような目つきで私たちを見ている。
気障男の視線に気づかないふりをして私たちはフェルザー伯爵のお屋敷に向かって馬車を走らせた。